第29章:問いを持ち続ける場所
朝になっても、休学願は机の上に残っていた。
社長室の窓から入る白い光が、薄い紙の端を照らしている。
その横には、学生証。
反対側には、社長印の入った黒いケース。
星野紬は、三つを見つめたまま、しばらく動けなかった。
昨夜、加賀に言われた言葉が頭に残っている。
大学をどうするかを、会社だけで決めるな。
確かにそうだった。
紬は、会社の予定表と大学の時間割を同じ画面に並べていた。
銀行面談。
社内報告。
次回テスト販売の改善会議。
倉庫での箱サイズ確認。
ゼミ発表の修正。
地域経済論のレポート提出。
教授との面談。
どれも簡単には動かせない。
どれも、自分が向き合うべきものだった。
けれど、全部を同じ強さで握れば、いつか指が折れる。
紬は、休学願をクリアファイルに挟んだ。
提出するためではない。
相談するために持っていくためだった。
午前九時。
本社の小会議室には、進藤、一ノ瀬、美崎、加賀、柚木が集まっていた。
朝会の前に、紬は自分から時間をもらった。
机の上に、大学の時間割と会社の予定表を並べる。
その横に、休学願を置いた。
柚木が、息を呑んだ。
美崎の表情も少し変わる。
一ノ瀬は、黙って紙を見た。
加賀だけは、驚かなかった。
進藤が静かに口を開く。
「休学を考えているのですね」
「はい」
紬は答えた。
「ただ、今すぐ提出するつもりはありません。まず相談したいです」
「分かりました」
進藤は、資料を見る。
「理由を聞かせてください」
紬は、少しだけ息を吸った。
「会社の確認が遅れています。銀行資料も、社内向け報告も、改善案も、私の確認待ちで止まることが増えました。大学の課題も遅れました。友人にも、ゼミにも迷惑をかけています」
言葉にすると、胸が重くなる。
「このままだと、どちらにも中途半端なまま、大きなミスをする気がします」
一ノ瀬が、すぐに言った。
「合理的に考えるなら、休学は選択肢です」
その声は冷たくはなかった。
ただ、冷静だった。
「会社の状況はまだ安定していません。銀行、取引先、現場、次回テスト販売、大手チェーンの可能性。社長の判断を必要とする場面は増えます。時間を確保する意味では、休学には利点があります」
紬は頷いた。
分かっていた。
だからこそ、紙を机に置いた。
美崎が、少し考えてから言った。
「世間の見え方としては、二つの捉えられ方があります」
「二つ?」
「一つは、会社経営に本気で向き合うための決断として好意的に見られる可能性。もう一つは、女子大生社長という看板だけ使って、結局大学を離れたと見られる可能性です」
その言葉に、紬は少し胸を押さえたくなった。
女子大生社長。
その肩書きが、時々重くなる。
自分が望んで掲げたわけではない。
けれど、今はそこに意味が生まれ始めている。
「ただし」
美崎は続けた。
「世間の見え方だけで決めるべきではありません。無理に通い続けて倒れれば、それこそ会社にも大学にも迷惑がかかります」
柚木が、タブレットを握りしめながら言った。
「私は……」
全員が柚木を見る。
柚木は少し迷いながら続けた。
「星野さんが大学に行っていること、会社にとって必要だと思います」
紬は驚いた。
「必要?」
「はい。ゼミで出た問いが、改善案に入っています。悪い反応をそのまま取引先に渡すことも負担になるとか、作り手の言葉を借りるなら返し方を考えるとか、あれは私たちだけでは出ませんでした」
柚木の声は、少し熱を帯びていた。
「星野さんが大学で問い直してくれるから、私の案も止まれるんだと思います」
その言葉に、紬の胸が熱くなった。
柚木の未来図を、現場の声が地面に下ろした。
そして、大学の問いが、その地面をもう一度確かめている。
そんな気がした。
加賀が腕を組んで言った。
「俺は、昨日も言った通りだ。休むなとは言わない。だが、逃げるためならやめとけ」
「はい」
「それと、根性で続けるのもやめろ」
紬は小さく頷いた。
「それも、はい」
進藤は、しばらく黙って全員の意見を聞いていた。
それから、手元のペンで会社の予定表にいくつか印をつけた。
「休学するかどうかの前に、まず仕組みを変えましょう」
「仕組み、ですか」
「はい。今は星野さんの確認に集中しすぎています。すべてを社長が見なければならない状態では、会社も持続しません」
一ノ瀬が頷く。
「確認権限の分散は必要です」
進藤は続けた。
「銀行資料の数字部分は一ノ瀬さんが最終責任を持つ。星野さんは方針と言葉を確認する。広報文は美崎さんが責任を持ち、星野さんは取引先や社員への姿勢に関わる部分を見る。現場負荷の判断は加賀さん、黒川さん、松永さんと共有する。新規事業案は柚木さんがたたき台の責任者になる」
柚木の背筋が伸びた。
「私が責任者……」
「もちろん、最終判断は星野さんです。ただし、すべての下書きを星野さんが抱える必要はありません」
紬は、机の上の予定表を見た。
自分が見なければならないもの。
見なくても任せられるもの。
相談すべきもの。
それらが、少しずつ分かれていく。
社長とは、全部を自分で抱えることではない。
分かっていたつもりだった。
でも、本当には分かっていなかった。
一ノ瀬が言った。
「それから、重要判断の時間帯を決めましょう。睡眠不足の深夜に判断しない。これは会社としてもリスクです」
加賀がすぐに頷く。
「飯抜きも禁止だな」
美崎も言う。
「大学に行く日は、事前に社内へ共有してください。連絡が必要な場合も、緊急度を分けます」
進藤が、表に書き込む。
「緊急、当日中、翌日でよい。この三段階に分けましょう」
紬は、その言葉を聞きながら、胸の中の重さが少し形を変えていくのを感じた。
休学するか、しないか。
それだけの問題ではなかった。
自分の働き方が、会社の仕組みになりかけていた。
自分が無理をすれば、周りもそれを前提に動く。
自分が深夜に判断すれば、会社も深夜に動く。
自分が食事を抜けば、それを美徳のように見せてしまうかもしれない。
それは、良くない。
会社を壊さないために現場負荷を見たのなら、自分自身の負荷も見なければならなかった。
「ありがとうございます」
紬は、ゆっくり頭を下げた。
「大学にも相談します。その上で、休学するか、履修を減らして続けるか、決めます」
進藤が頷いた。
「それが良いと思います」
「今日、教授に会ってきます」
加賀が少し笑った。
「ちゃんと飯食ってから行けよ」
「はい」
昼前、紬は大学へ向かった。
本社から大学までの移動時間は、以前より短く感じた。
会社を出る時、心は軽くはなかった。
だが、少なくとも一人で決めに行くわけではない。
会社側に相談した。
次は、大学側に相談する。
それだけで、少しだけ足取りが変わった。
キャンパスに着くと、学生たちが昼休みの時間を過ごしていた。
ベンチで弁当を食べる人。
講義棟へ急ぐ人。
芝生でサークルのチラシを配る人。
その中を歩きながら、紬はクリアファイルを抱え直した。
中には、休学願と時間割、会社の予定表が入っている。
研究室の前で、紬は一度深呼吸した。
ノックをすると、教授の声が返ってきた。
「どうぞ」
研究室には、本と資料の匂いがした。
教授は机の上の書類を少し横へ寄せ、紬を見る。
「星野さん。座ってください」
「ありがとうございます」
紬は椅子に座り、クリアファイルを膝に置いた。
言葉を探す前に、教授が静かに尋ねた。
「休学の相談ですか」
紬は驚いて顔を上げた。
教授は、少しだけ笑った。
「その顔をしていました」
紬は、クリアファイルから休学願を出した。
「はい。考えています」
教授は、紙を一瞥しただけで、すぐには手に取らなかった。
「理由を聞かせてください」
会社で話したのと同じように、紬は説明した。
会社の判断が増えていること。
大学の課題が遅れていること。
友人やゼミに迷惑をかけていること。
睡眠も食事も削っていること。
このままでは、どちらにも中途半端なまま大きなミスをしそうなこと。
教授は、途中で口を挟まずに聞いていた。
話し終えると、しばらく沈黙があった。
その沈黙は、会社の会議室のものとは違う。
急かされていない。
答えをすぐに求められていない。
それだけで、紬は少し呼吸がしやすくなった。
教授は言った。
「休学は、悪い選択ではありません」
紬は、静かに頷いた。
「はい」
「心身が持たない時、生活を立て直すために一度止まることは必要です。学ぶことは、体を壊してまで続けるものではありません」
教授の言葉は穏やかだった。
だが、次の言葉は鋭かった。
「ただし、あなたが休みたいのは、大学ですか。それとも、問いを持つことですか」
紬は、すぐに答えられなかった。
「問いを持つこと……」
「会社では、判断を求められるでしょう。早く決めること、責任を持つこと、前へ進めること。それは大事です」
教授は、机の上に置かれた一冊の本を閉じた。
「しかし、判断をする人間ほど、自分が何を見落としているかを問う場所が必要になります」
紬は、膝の上で手を握った。
「大学が、その場所だと」
「そうなるかどうかは、あなた次第です」
教授は静かに言った。
「大学に在籍していても、課題をこなすだけなら問いは深まりません。休学していても、自分の問いを持ち続ける人はいます。大切なのは、あなたがどこで、どう学ぶかです」
紬は、休学願を見た。
提出すれば、会社に使える時間は増える。
でも、問いを持つ場所を閉じてしまう怖さがあった。
教授は続ける。
「あなたの場合、大学を辞める必要はないと私は思います。少なくとも、今すぐには」
紬は顔を上げた。
「本当ですか」
「ただし、今の履修量のまま続けるのは危険です」
その言葉に、紬は素直に頷いた。
「はい」
「履修を減らしなさい。卒業が遅れても構わない。ゼミも、発表の形式を調整できます。会社の事例を扱うなら、守秘義務や取引先への配慮も必要です。その相談も早めにすること」
教授は、紙にいくつか書き込み始めた。
「地域経済論は続けた方がいいでしょう。あなたの今の仕事に必要です。ゼミも残す。ただし、他の選択科目は減らせます」
紬は、胸の奥が少し熱くなった。
辞めるか、続けるか。
その二択だけで考えていた。
けれど、続け方を変えるという道があった。
「先生」
「はい」
「会社では、休学は合理的な選択肢だと言われました」
「そうでしょう」
「私もそう思います。でも、大学を休めば楽になるのではなく、問いを持つ場所を失う気もしています」
教授は、小さく頷いた。
「なら、その感覚は大事にしてください」
「はい」
「星野さん。大学は、あなたを社長にするための場所ではありません」
その言葉に、紬は背筋を伸ばした。
「はい」
「ですが、社長であるあなたが、自分の判断を疑うために戻ってこられる場所にはなります」
紬の喉が熱くなった。
「問いを持ち続けなさい」
教授は言った。
「会社で答えを出す立場にいるなら、なおさらです。問いを手放した社長は、きっと人の声を聞かなくなります」
その言葉が、胸の深いところに沈んだ。
人の声を聞かなくなる。
それが、今の紬には一番怖かった。
現場の声。
取引先の声。
社員の声。
購入者の声。
友人の声。
教授の声。
それらを聞く力をなくしたら、社長室の椅子に座っていても、何も見えなくなる。
「休学願は、今日は出しません」
紬は言った。
教授は、少しだけ微笑んだ。
「それでいいと思います。ただし、無理を続けることを美談にしないでください」
「はい」
「履修変更の相談をしましょう。学生課にも行きなさい」
「分かりました」
研究室を出る時、紬は休学願をクリアファイルへ戻した。
今朝よりも、その紙は少し軽く感じた。
消えたわけではない。
必要になれば、また向き合うことになる。
でも、今は提出する紙ではなく、自分の続け方を考えるための紙になっていた。
夕方、本社に戻ると、進藤たちが小会議室に集まっていた。
紬は、教授との相談内容を報告した。
履修を減らすこと。
ゼミと地域経済論は続けること。
卒業が遅れても構わないと考えること。
会社側でも確認体制を分散すること。
大学で扱う会社事例について、守秘義務と取引先配慮を徹底すること。
一ノ瀬は頷いた。
「現実的だと思います」
美崎も言った。
「大学を続ける理由を、外部に説明する必要が出た場合も、この形なら筋が通ります。学び続けるために履修を調整する。無理を美談にしない。良いと思います」
柚木は、少しほっとした顔をした。
「大学、続けるんですね」
「はい」
紬は答えた。
「ただし、今まで通りではありません。履修を減らします。会社の確認も、全部私が抱えないようにします」
加賀が、満足そうに腕を組んだ。
「少しはまともな判断だな」
「少しですか」
「今のところはな」
その言い方に、紬は少しだけ笑った。
進藤が、最後に言った。
「では、会社側の運用も変えます。星野さんの大学予定は、経営スケジュールに組み込みます。ただし、大学の時間を単なる不在時間とは扱いません」
「不在時間ではない?」
「はい。学ぶ時間です。会社にとっても、意味のある時間として扱います」
紬は、言葉を失った。
大学へ行くことを、会社を空けることだと思っていた。
迷惑をかけることだと思っていた。
もちろん、調整は必要だ。
でも、それだけではない。
大学で問いを持つことが、会社の判断を支えることもある。
そう認めてもらえた気がした。
「ありがとうございます」
紬は、深く頭を下げた。
その夜、社長室で紬は学生証と社長印を並べ直した。
休学願は、引き出しにしまわなかった。
机の端に、クリアファイルのまま置いた。
逃げ道ではなく、無理をしすぎた時に立ち止まるための選択肢として。
ノートを開き、昨日書いた言葉の下に、新しい一文を加える。
『問いを持ち続けるために、大学へ行く』
その下に、もう一つ書いた。
『判断するために、学び続ける』
紬はペンを置いた。
窓の外には、夜の街が広がっている。
会社の課題は山積みのままだ。
銀行面談も、大手チェーンの可能性も、次回テスト販売も、元副社長の影も、まだ消えていない。
むしろ、これからもっと重くなる。
けれど、紬は少しだけ背筋を伸ばせる気がした。
社長になるために、女子大生を捨てるのではない。
学び続ける女子大生だからこそ、聞き続けられる社長になる。
その道は、不格好で、時間もかかる。
でも、今の紬が歩くなら、その道しかなかった。
机の上で、学生証と社長印が並んでいる。
どちらか一つではなく、どちらも自分の名前を示していた。
星野紬。
その名前で、明日も大学へ行く。
その名前で、会社の判断もする。
完璧にはできない。
でも、問いを手放さずに進むことなら、できるかもしれない。
紬は、社内向けのスケジュール表を開き、大学の時間を入力した。
『地域経済論』
『ゼミ』
その横に、進藤の指示通り、こう書き添えた。
『学習・経営判断に関わる問いの整理』
少し大げさかもしれない。
けれど、今の紬には必要な言葉だった。
予定表に大学の時間が入る。
それは、会社から逃げる時間ではない。
社長として、自分の答えを疑いに行く時間だった。




