第28章:休学届
夜の本社ビルは、昼間よりも静かだった。
受付の照明は落とされ、エントランスの床だけが白く光っている。
星野紬は、大学のバッグを肩にかけたまま、社員用のゲートを抜けた。
バッグの中には、会社の資料とゼミの資料が一緒に入っている。
地域産品の流通。
物語化。
負担の所在。
購入者の声の返し方。
作り手の言葉を借りる責任。
会社で扱っている課題と、大学で投げかけられた問いが、ぐちゃぐちゃに混ざっていた。
けれど、その混ざり方が、今の紬には必要なのだと思えた。
エレベーターで七階へ上がると、会議室の明かりがまだ点いていた。
扉の向こうから、柚木の声が聞こえる。
「購入者の声をそのまま渡すだけだと、取引先の負担になる可能性があります」
紬は足を止めた。
柚木の声には、いつもの勢いだけではない慎重さがあった。
「だから、良い感想、改善点、誤解された点を分けて整理して、こちらの受け止めも一緒に出した方がいいと思います」
会議室に入ると、柚木、美崎、一ノ瀬、加賀、進藤が揃っていた。
机の上には、次回テスト販売に向けた改善案が広がっている。
そこに、紬がゼミで受けた指摘が、すでにいくつか反映されていた。
『作り手の言葉を借りる場合、販売後に何を返すか』
『批判的反応をそのまま渡すことの負担』
『価格決定の透明性』
『消費者が期待する“安さ”との向き合い方』
柚木が紬に気づき、顔を上げた。
「星野さん。ゼミのメモ、すごく参考になりました」
「本当ですか」
「はい。特に、悪い反応を見せることも相手の負担になる、という指摘は抜けていました」
美崎も頷いた。
「取引先へ報告する時、すべてをそのまま渡すのではなく、受け止めや対応方針を添えた方がいいです。ただし、都合よく加工しすぎてもいけません」
一ノ瀬が資料を見ながら言った。
「価格についても、次回はもう少し説明が必要です。規格外だから安いのではなく、用途と数量に合わせた価格であることを明示する。そのうえで、取引先への還元率も社内では把握しておくべきです」
加賀が腕を組む。
「大学のゼミ、なかなか容赦ねえな」
「容赦なかったです」
紬は苦笑した。
「でも、会社では出なかった問いでした」
進藤が、静かに紬を見た。
「それを持ち帰れたのは大きいですね」
その言葉に、紬は少しだけ救われた。
大学に行ってよかった。
そう思えた。
だが、次の瞬間、一ノ瀬が別の資料を机に置いた。
「星野さん。銀行向け資料の確認がまだです」
胸が、きゅっと縮む。
「すみません。今から確認します」
「十一時までにお願いしていました」
「はい。遅れました」
一ノ瀬の声は責めているわけではない。
ただ、事実を置いている。
それが余計に痛かった。
「銀行側との面談は明後日です。今回のテスト販売を小規模検証としてどう位置づけるか、社長の言葉が必要です」
「分かっています」
「それから、社内向け報告文の最終確認も止まっています」
美崎が、申し訳なさそうに資料を差し出す。
「急がせるつもりはありません。ただ、明日の朝には共有したいです。社員からも結果を知りたいという声が来ています」
柚木も、少し言いにくそうに言った。
「改善案の方向性も、星野さんの確認がないと次に進めません」
紬は、机の上を見た。
大学から持ち帰った問いは、確かに会社の役に立っている。
けれど、その一方で、会社の仕事は紬の確認待ちで止まっている。
自分が大学にいた時間、誰かが待っていた。
誰かの仕事が進まなかった。
それは、大学へ行く意味とは別の現実だった。
「すみません」
紬は、深く頭を下げた。
「今から順に確認します」
加賀が、眉を寄せた。
「飯は食ったのか」
「学食で少し」
「少しって何だ」
「カレーを半分くらい」
加賀は、呆れたように息を吐いた。
「寝たのは?」
紬は答えられなかった。
会議室が静かになる。
美崎が、静かに言った。
「星野さん。全部を今日中に終わらせる必要はありません」
「でも、止まっています」
「止まっているなら、優先順位をつけましょう」
進藤が言った。
「銀行資料は今夜中。社内向け報告文は明朝七時まで。改善案は柚木さんがたたき台を進め、星野さんは明日の昼に確認する。これでどうですか」
一ノ瀬がすぐに頷く。
「銀行資料を優先してください」
美崎も言う。
「社内向け文案は、私が八割整えます。星野さんは冒頭と結びだけ確認してください」
柚木が続ける。
「改善案は、私がゼミのメモを反映しておきます。星野さんは明日で大丈夫です」
みんなが助けようとしてくれている。
そのことは分かる。
けれど、紬の胸は軽くならなかった。
助けてもらうたびに、自分の処理能力が足りていないことが見えてしまう。
社長としても、学生としても、誰かに支えられてばかりだ。
「ありがとうございます」
そう言う声が、自分でも少し遠く聞こえた。
その夜、紬は社長室で銀行向け資料を確認した。
テスト販売の実績。
完売数。
希望登録数。
問い合わせ件数。
作業負荷。
利益率。
次回改善案。
その中に、一ノ瀬が赤字で入れた一文があった。
『本テストは短期収益化ではなく、持続可能な地域流通モデルの検証として位置づける』
紬は、その文を何度も読んだ。
持続可能。
今、自分自身は持続可能なのだろうか。
会社のモデルを壊れにくくしたいと言いながら、自分の生活はすでに壊れかけているのではないか。
大学の課題は遅れた。
友人との距離もできた。
会社の確認は滞った。
睡眠も食事も削っている。
このままでは、いつか大きなミスをする。
そのミスは、自分だけでは済まない。
社員にも、取引先にも、大学にも、迷惑をかける。
紬は、資料の確認を終え、メールを送信した。
時刻は午前一時を回っていた。
社長室の窓には、夜の街が映っている。
机の端には、大学の学生証が置かれていた。
その横に、会社の代表印が入ったケースがある。
学生証と社長印。
並べて置くと、あまりにも不釣り合いだった。
片方は、まだ学ぶ立場であることを示すもの。
もう片方は、会社の判断に責任を持つためのもの。
どちらも自分のものなのに、同じ机の上に置くと、互いを押しのけ合っているように見えた。
紬は、引き出しを開けた。
そこには、大学でもらった書類が入っている。
履修関係。
成績通知。
奨学金関係。
その中に、白い用紙が一枚あった。
休学願。
いつ受け取ったものだったか、はっきり覚えていない。
たぶん、学生課で履修相談をした時に、念のためにもらったものだ。
紬は、その紙を机の上に置いた。
白い紙の上に、黒い文字。
休学願。
その三文字が、妙に静かだった。
会社に集中するなら、それが一番合理的なのかもしれない。
大学を一度休めば、朝の講義に走る必要はない。
小レポートの未提出に怯えることもない。
ゼミ発表に会社の資料を抱えていくこともない。
友人との距離に傷つくことも減るかもしれない。
社員にも、銀行にも、取引先にも、会社へ本気で向き合っていると示せる。
学生気分だと言われる隙も減る。
紬は、休学願に手を置いた。
紙は薄い。
けれど、ずっしりと重かった。
その時、社長室の扉がノックされた。
「入っていいか」
加賀の声だった。
紬は慌てて休学願を伏せようとしたが、遅かった。
加賀は、紙を見て少し眉を動かした。
「休学か」
紬は、視線を落とした。
「まだ、考えているだけです」
加賀は何も言わず、近くの椅子に座った。
手には、コンビニの袋を持っている。
「食え」
袋から出てきたのは、鮭のおにぎりと味噌汁だった。
「こんな時間に」
「食ってないだろ」
紬は反論できなかった。
加賀は、休学願を見たまま言った。
「合理的ではあるな」
その言葉に、紬は胸が沈む。
「そう、ですよね」
「大学を休めば時間は増える。会社への集中度も上がる。周りへの説明もしやすい。銀行にも本気度は伝わるかもしれない」
加賀は淡々と言う。
「ただし」
紬は顔を上げた。
「逃げるためなら、やめとけ」
その言葉は、強かった。
「逃げるため……」
「大学が邪魔だから休むのか。会社に必要だから休むのか。そこを間違えるな」
紬は、何も言えなかった。
加賀は続けた。
「俺は、大学を休むなとは言わない。体壊すくらいなら休め。会社を潰すくらいなら、優先順位を変えろ。でも、学生である自分を邪魔者みたいに扱って切り捨てるなら、後で必ず後悔する」
紬は、休学願を見つめた。
学生である自分を邪魔者みたいに扱う。
その言葉が、胸に刺さる。
「私は、社長として中途半端です」
「そうだな」
加賀は即答した。
紬は、思わず苦笑した。
「少しは否定してください」
「嘘はつかねえ」
加賀は、おにぎりを紬の前に押し出した。
「でも、学生としても中途半端なんだろ」
「はい」
「なら、どっちも中途半端な今の自分を、まず認めろ。そこからしか始まらねえ」
紬は、おにぎりの包みを開けた。
まだ温かかった。
一口食べると、急に自分がどれだけ空腹だったか分かった。
加賀は、窓の外を見ながら言った。
「学生だから見えるものもあるんじゃねえのか」
紬の手が止まる。
「今日、ゼミで言われたんだろ。作り手の言葉を借りるなら返し方を考えろ、とか、悪い反応を見せるのも負担になる、とか」
「柚木さんから聞いたんですか」
「あいつが興奮して話してた」
加賀は少し笑った。
「現場の俺たちだけじゃ出ない問いだ。大学に行った意味はあったんだろ」
「ありました」
「なら、それを捨てるかどうかは、ちゃんと考えろ」
紬は、味噌汁の容器を両手で持った。
温かさが指先に広がる。
「加賀さんは、休学した方がいいと思いますか」
加賀は、少し考えた。
「今のままなら、どこかで倒れる」
その言葉は、優しくなかった。
でも、必要だった。
「だから、何かは変えろ。大学を全部続けるのか、履修を減らすのか、休学するのか。会社側の確認体制を変えるのか。自分の根性で全部抱えるのは、もうやめろ」
紬は、ゆっくり頷いた。
全部抱えようとしていた。
会社も大学も、遅れた分を自分が眠らずに取り返せばいいと思っていた。
でも、それは持続可能ではない。
会社の仕組みには、止まる条件を作った。
なら、自分自身にも止まる条件が必要なのかもしれない。
加賀が立ち上がった。
「明日、進藤さんに相談しろ。一ノ瀬にも。大学の教授にもな」
「教授にも?」
「大学をどうするかを会社だけで決めるな」
紬は、はっとした。
それは当たり前のことだった。
でも、今の自分は会社の都合で大学をどう扱うかばかり考えていた。
大学にも、大学の現実がある。
教授にも相談すべきだった。
「分かりました」
「休学願は、今夜は書くな」
加賀は扉へ向かいながら言った。
「腹が減って眠い時に、大事な紙を書くな」
その言葉に、紬は少しだけ笑った。
「はい」
加賀が出ていったあと、社長室はまた静かになった。
紬は、おにぎりを最後まで食べ、味噌汁を飲み干した。
それだけで、少しだけ頭が戻ってくる。
休学願は、まだ机の上にある。
学生証と、社長印の間に置かれている。
紬は、その三つを見つめた。
社長印。
学生証。
休学願。
どれも、今の自分から逃げられないものだった。
大学を続けることが正しいのか。
休学することが正しいのか。
まだ分からない。
ただ、一つだけ分かった。
疲れた勢いで選んではいけない。
会社のためだけに、大学を切り捨ててはいけない。
大学にしがみつくためだけに、会社の責任を軽くしてもいけない。
紬は、休学願を封筒に戻した。
引き出しには入れなかった。
机の端に置いた。
見えない場所へ隠せば、考えなくなる気がしたから。
その横に、学生証を置く。
さらに反対側に、社長印のケースを置く。
不釣り合いな三つが、机の上に並ぶ。
それが今の自分だった。
紬は、ノートを開いた。
会社の改善案でも、銀行資料でもない。
自分の生活を見直すための白いページだった。
最初に、こう書いた。
『続けるために、何を変えるか』
その下に、思いつくままに書いていく。
履修を減らす。
教授に相談する。
ゼミ発表の予定を早めに共有する。
会社の確認権限を一部委譲する。
夜中の判断を避ける。
食事を抜かない。
睡眠時間が四時間を切った日は重要判断をしない。
書いてみると、どれも当たり前のことだった。
けれど、その当たり前を守れなくなっていた。
紬は、ペンを置いた。
窓の外は、深い夜だった。
ビルの明かりは少なくなっている。
明日も会社は動く。
大学もある。
銀行資料も、社内報告も、改善案も待っている。
何も軽くはなっていない。
それでも、休学願を今すぐ書かずに済んだことに、少しだけ安堵した。
答えは、まだ出ない。
出ないままでいい。
問いを持ち直す場所が大学なら、この紙もまた、すぐに答えを出すものではなく、問いとして机の上に置いておけばいい。
紬は、学生証を手に取った。
小さなカードに写る自分は、少し頼りない顔をしている。
その頼りなさを、もう少しだけ手放さずにいたいと思った。
社長になるために、学ぶ自分を消したくない。
でも、学ぶために、背負った会社から逃げることもできない。
だから、まず相談する。
一人で決めない。
それが、今夜の結論だった。
紬は、社長室の照明を少し落とした。
休学願は、机の上に残したまま。
学生証と社長印の間に置かれたその紙は、答えではなく、紬に突きつけられた問いのように白く沈んでいた。




