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女子大生社長は、勝たない  作者: 久遠 睦


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28/51

第28章:休学届

夜の本社ビルは、昼間よりも静かだった。

受付の照明は落とされ、エントランスの床だけが白く光っている。

星野紬は、大学のバッグを肩にかけたまま、社員用のゲートを抜けた。

バッグの中には、会社の資料とゼミの資料が一緒に入っている。

地域産品の流通。

物語化。

負担の所在。

購入者の声の返し方。

作り手の言葉を借りる責任。

会社で扱っている課題と、大学で投げかけられた問いが、ぐちゃぐちゃに混ざっていた。

けれど、その混ざり方が、今の紬には必要なのだと思えた。

エレベーターで七階へ上がると、会議室の明かりがまだ点いていた。

扉の向こうから、柚木の声が聞こえる。

「購入者の声をそのまま渡すだけだと、取引先の負担になる可能性があります」

紬は足を止めた。

柚木の声には、いつもの勢いだけではない慎重さがあった。

「だから、良い感想、改善点、誤解された点を分けて整理して、こちらの受け止めも一緒に出した方がいいと思います」

会議室に入ると、柚木、美崎、一ノ瀬、加賀、進藤が揃っていた。

机の上には、次回テスト販売に向けた改善案が広がっている。

そこに、紬がゼミで受けた指摘が、すでにいくつか反映されていた。

『作り手の言葉を借りる場合、販売後に何を返すか』

『批判的反応をそのまま渡すことの負担』

『価格決定の透明性』

『消費者が期待する“安さ”との向き合い方』

柚木が紬に気づき、顔を上げた。

「星野さん。ゼミのメモ、すごく参考になりました」

「本当ですか」

「はい。特に、悪い反応を見せることも相手の負担になる、という指摘は抜けていました」

美崎も頷いた。

「取引先へ報告する時、すべてをそのまま渡すのではなく、受け止めや対応方針を添えた方がいいです。ただし、都合よく加工しすぎてもいけません」

一ノ瀬が資料を見ながら言った。

「価格についても、次回はもう少し説明が必要です。規格外だから安いのではなく、用途と数量に合わせた価格であることを明示する。そのうえで、取引先への還元率も社内では把握しておくべきです」

加賀が腕を組む。

「大学のゼミ、なかなか容赦ねえな」

「容赦なかったです」

紬は苦笑した。

「でも、会社では出なかった問いでした」

進藤が、静かに紬を見た。

「それを持ち帰れたのは大きいですね」

その言葉に、紬は少しだけ救われた。

大学に行ってよかった。

そう思えた。

だが、次の瞬間、一ノ瀬が別の資料を机に置いた。

「星野さん。銀行向け資料の確認がまだです」

胸が、きゅっと縮む。

「すみません。今から確認します」

「十一時までにお願いしていました」

「はい。遅れました」

一ノ瀬の声は責めているわけではない。

ただ、事実を置いている。

それが余計に痛かった。

「銀行側との面談は明後日です。今回のテスト販売を小規模検証としてどう位置づけるか、社長の言葉が必要です」

「分かっています」

「それから、社内向け報告文の最終確認も止まっています」

美崎が、申し訳なさそうに資料を差し出す。

「急がせるつもりはありません。ただ、明日の朝には共有したいです。社員からも結果を知りたいという声が来ています」

柚木も、少し言いにくそうに言った。

「改善案の方向性も、星野さんの確認がないと次に進めません」

紬は、机の上を見た。

大学から持ち帰った問いは、確かに会社の役に立っている。

けれど、その一方で、会社の仕事は紬の確認待ちで止まっている。

自分が大学にいた時間、誰かが待っていた。

誰かの仕事が進まなかった。

それは、大学へ行く意味とは別の現実だった。

「すみません」

紬は、深く頭を下げた。

「今から順に確認します」

加賀が、眉を寄せた。

「飯は食ったのか」

「学食で少し」

「少しって何だ」

「カレーを半分くらい」

加賀は、呆れたように息を吐いた。

「寝たのは?」

紬は答えられなかった。

会議室が静かになる。

美崎が、静かに言った。

「星野さん。全部を今日中に終わらせる必要はありません」

「でも、止まっています」

「止まっているなら、優先順位をつけましょう」

進藤が言った。

「銀行資料は今夜中。社内向け報告文は明朝七時まで。改善案は柚木さんがたたき台を進め、星野さんは明日の昼に確認する。これでどうですか」

一ノ瀬がすぐに頷く。

「銀行資料を優先してください」

美崎も言う。

「社内向け文案は、私が八割整えます。星野さんは冒頭と結びだけ確認してください」

柚木が続ける。

「改善案は、私がゼミのメモを反映しておきます。星野さんは明日で大丈夫です」

みんなが助けようとしてくれている。

そのことは分かる。

けれど、紬の胸は軽くならなかった。

助けてもらうたびに、自分の処理能力が足りていないことが見えてしまう。

社長としても、学生としても、誰かに支えられてばかりだ。

「ありがとうございます」

そう言う声が、自分でも少し遠く聞こえた。

その夜、紬は社長室で銀行向け資料を確認した。

テスト販売の実績。

完売数。

希望登録数。

問い合わせ件数。

作業負荷。

利益率。

次回改善案。

その中に、一ノ瀬が赤字で入れた一文があった。

『本テストは短期収益化ではなく、持続可能な地域流通モデルの検証として位置づける』

紬は、その文を何度も読んだ。

持続可能。

今、自分自身は持続可能なのだろうか。

会社のモデルを壊れにくくしたいと言いながら、自分の生活はすでに壊れかけているのではないか。

大学の課題は遅れた。

友人との距離もできた。

会社の確認は滞った。

睡眠も食事も削っている。

このままでは、いつか大きなミスをする。

そのミスは、自分だけでは済まない。

社員にも、取引先にも、大学にも、迷惑をかける。

紬は、資料の確認を終え、メールを送信した。

時刻は午前一時を回っていた。

社長室の窓には、夜の街が映っている。

机の端には、大学の学生証が置かれていた。

その横に、会社の代表印が入ったケースがある。

学生証と社長印。

並べて置くと、あまりにも不釣り合いだった。

片方は、まだ学ぶ立場であることを示すもの。

もう片方は、会社の判断に責任を持つためのもの。

どちらも自分のものなのに、同じ机の上に置くと、互いを押しのけ合っているように見えた。

紬は、引き出しを開けた。

そこには、大学でもらった書類が入っている。

履修関係。

成績通知。

奨学金関係。

その中に、白い用紙が一枚あった。

休学願。

いつ受け取ったものだったか、はっきり覚えていない。

たぶん、学生課で履修相談をした時に、念のためにもらったものだ。

紬は、その紙を机の上に置いた。

白い紙の上に、黒い文字。

休学願。

その三文字が、妙に静かだった。

会社に集中するなら、それが一番合理的なのかもしれない。

大学を一度休めば、朝の講義に走る必要はない。

小レポートの未提出に怯えることもない。

ゼミ発表に会社の資料を抱えていくこともない。

友人との距離に傷つくことも減るかもしれない。

社員にも、銀行にも、取引先にも、会社へ本気で向き合っていると示せる。

学生気分だと言われる隙も減る。

紬は、休学願に手を置いた。

紙は薄い。

けれど、ずっしりと重かった。

その時、社長室の扉がノックされた。

「入っていいか」

加賀の声だった。

紬は慌てて休学願を伏せようとしたが、遅かった。

加賀は、紙を見て少し眉を動かした。

「休学か」

紬は、視線を落とした。

「まだ、考えているだけです」

加賀は何も言わず、近くの椅子に座った。

手には、コンビニの袋を持っている。

「食え」

袋から出てきたのは、鮭のおにぎりと味噌汁だった。

「こんな時間に」

「食ってないだろ」

紬は反論できなかった。

加賀は、休学願を見たまま言った。

「合理的ではあるな」

その言葉に、紬は胸が沈む。

「そう、ですよね」

「大学を休めば時間は増える。会社への集中度も上がる。周りへの説明もしやすい。銀行にも本気度は伝わるかもしれない」

加賀は淡々と言う。

「ただし」

紬は顔を上げた。

「逃げるためなら、やめとけ」

その言葉は、強かった。

「逃げるため……」

「大学が邪魔だから休むのか。会社に必要だから休むのか。そこを間違えるな」

紬は、何も言えなかった。

加賀は続けた。

「俺は、大学を休むなとは言わない。体壊すくらいなら休め。会社を潰すくらいなら、優先順位を変えろ。でも、学生である自分を邪魔者みたいに扱って切り捨てるなら、後で必ず後悔する」

紬は、休学願を見つめた。

学生である自分を邪魔者みたいに扱う。

その言葉が、胸に刺さる。

「私は、社長として中途半端です」

「そうだな」

加賀は即答した。

紬は、思わず苦笑した。

「少しは否定してください」

「嘘はつかねえ」

加賀は、おにぎりを紬の前に押し出した。

「でも、学生としても中途半端なんだろ」

「はい」

「なら、どっちも中途半端な今の自分を、まず認めろ。そこからしか始まらねえ」

紬は、おにぎりの包みを開けた。

まだ温かかった。

一口食べると、急に自分がどれだけ空腹だったか分かった。

加賀は、窓の外を見ながら言った。

「学生だから見えるものもあるんじゃねえのか」

紬の手が止まる。

「今日、ゼミで言われたんだろ。作り手の言葉を借りるなら返し方を考えろ、とか、悪い反応を見せるのも負担になる、とか」

「柚木さんから聞いたんですか」

「あいつが興奮して話してた」

加賀は少し笑った。

「現場の俺たちだけじゃ出ない問いだ。大学に行った意味はあったんだろ」

「ありました」

「なら、それを捨てるかどうかは、ちゃんと考えろ」

紬は、味噌汁の容器を両手で持った。

温かさが指先に広がる。

「加賀さんは、休学した方がいいと思いますか」

加賀は、少し考えた。

「今のままなら、どこかで倒れる」

その言葉は、優しくなかった。

でも、必要だった。

「だから、何かは変えろ。大学を全部続けるのか、履修を減らすのか、休学するのか。会社側の確認体制を変えるのか。自分の根性で全部抱えるのは、もうやめろ」

紬は、ゆっくり頷いた。

全部抱えようとしていた。

会社も大学も、遅れた分を自分が眠らずに取り返せばいいと思っていた。

でも、それは持続可能ではない。

会社の仕組みには、止まる条件を作った。

なら、自分自身にも止まる条件が必要なのかもしれない。

加賀が立ち上がった。

「明日、進藤さんに相談しろ。一ノ瀬にも。大学の教授にもな」

「教授にも?」

「大学をどうするかを会社だけで決めるな」

紬は、はっとした。

それは当たり前のことだった。

でも、今の自分は会社の都合で大学をどう扱うかばかり考えていた。

大学にも、大学の現実がある。

教授にも相談すべきだった。

「分かりました」

「休学願は、今夜は書くな」

加賀は扉へ向かいながら言った。

「腹が減って眠い時に、大事な紙を書くな」

その言葉に、紬は少しだけ笑った。

「はい」

加賀が出ていったあと、社長室はまた静かになった。

紬は、おにぎりを最後まで食べ、味噌汁を飲み干した。

それだけで、少しだけ頭が戻ってくる。

休学願は、まだ机の上にある。

学生証と、社長印の間に置かれている。

紬は、その三つを見つめた。

社長印。

学生証。

休学願。

どれも、今の自分から逃げられないものだった。

大学を続けることが正しいのか。

休学することが正しいのか。

まだ分からない。

ただ、一つだけ分かった。

疲れた勢いで選んではいけない。

会社のためだけに、大学を切り捨ててはいけない。

大学にしがみつくためだけに、会社の責任を軽くしてもいけない。

紬は、休学願を封筒に戻した。

引き出しには入れなかった。

机の端に置いた。

見えない場所へ隠せば、考えなくなる気がしたから。

その横に、学生証を置く。

さらに反対側に、社長印のケースを置く。

不釣り合いな三つが、机の上に並ぶ。

それが今の自分だった。

紬は、ノートを開いた。

会社の改善案でも、銀行資料でもない。

自分の生活を見直すための白いページだった。

最初に、こう書いた。

『続けるために、何を変えるか』

その下に、思いつくままに書いていく。

履修を減らす。

教授に相談する。

ゼミ発表の予定を早めに共有する。

会社の確認権限を一部委譲する。

夜中の判断を避ける。

食事を抜かない。

睡眠時間が四時間を切った日は重要判断をしない。

書いてみると、どれも当たり前のことだった。

けれど、その当たり前を守れなくなっていた。

紬は、ペンを置いた。

窓の外は、深い夜だった。

ビルの明かりは少なくなっている。

明日も会社は動く。

大学もある。

銀行資料も、社内報告も、改善案も待っている。

何も軽くはなっていない。

それでも、休学願を今すぐ書かずに済んだことに、少しだけ安堵した。

答えは、まだ出ない。

出ないままでいい。

問いを持ち直す場所が大学なら、この紙もまた、すぐに答えを出すものではなく、問いとして机の上に置いておけばいい。

紬は、学生証を手に取った。

小さなカードに写る自分は、少し頼りない顔をしている。

その頼りなさを、もう少しだけ手放さずにいたいと思った。

社長になるために、学ぶ自分を消したくない。

でも、学ぶために、背負った会社から逃げることもできない。

だから、まず相談する。

一人で決めない。

それが、今夜の結論だった。

紬は、社長室の照明を少し落とした。

休学願は、机の上に残したまま。

学生証と社長印の間に置かれたその紙は、答えではなく、紬に突きつけられた問いのように白く沈んでいた。


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