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女子大生社長は、勝たない  作者: 久遠 睦


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27/52

第27章:ゼミ室の距離

ゼミ室の空気は、会社の会議室とはまったく違っていた。

長机を囲むように並べられた椅子。

壁際に置かれた古いホワイトボード。

誰かが置き忘れたペットボトル。

窓際で揺れる薄いカーテン。

机の上には、ノートパソコン、紙の資料、コンビニのコーヒー、菓子パン。

その光景は、少し前まで紬にとって当たり前のものだった。

けれど今は、懐かしさと居心地の悪さが同時にあった。

星野紬は、発表用の資料を手元で確認していた。

タイトルは、何度も書き直した。

『地方産品の流通における物語化と負担の所在』

教授の課題として出したレポートをもとに、ゼミ用に組み直したものだった。

完売した商品の話は入れている。

でも、最初には置かなかった。

売れた話から始めると、どうしても成功談に聞こえる。

だから、冒頭には違う問いを置いた。

地方の商品を都市へ届ける時、誰の手間が見えなくなるのか。

その問いから始めることにした。

「緊張してる?」

隣の席で、マイが小声で尋ねた。

「してる」

紬は正直に答えた。

「会社の人の前で話すより?」

「うん」

マイは少し驚いた顔をした。

「そうなんだ」

「会社の人は、私が社長として話すのを待ってる。でも、ここでは違う気がする」

「違う?」

「うまく言えないけど……ここで社長みたいに話したら、たぶん浮く」

マイは、少しだけ笑った。

「もうちょっと前から浮いてるけどね」

「え」

「冗談半分」

「半分なんだ」

紬が苦笑すると、マイも少し笑った。

その笑いは柔らかかった。

けれど、以前とまったく同じではない。

二人の間には、見えない薄い膜のようなものがあった。

カナが、反対側から資料を覗き込む。

「最初のスライド、いいと思う。完売しました、って出さない方が聞きやすい」

「ありがとう」

「でも、途中のここ」

カナは、画面を指差した。

「“地域共創型テスト販売”って言葉、ちょっと会社っぽい」

「やっぱり?」

「うん。ゼミで聞くと、急に企業説明会みたいになる」

紬は、急いでメモを取った。

「じゃあ、“小さな試験販売”にする」

「その方が分かりやすい」

マイも頷いた。

「あと、“取引先”って言葉も、大学の発表なら“作り手”とか“生産者さん”の方が伝わるかも」

「会社では取引先って言うから、つい」

「それがもう社長っぽい」

マイが軽く言う。

紬は笑おうとしたが、少しだけ胸が痛んだ。

社長っぽい。

それは褒め言葉にも聞こえる。

けれど、ここでは距離の言葉にも聞こえた。

教授がゼミ室へ入ってきた。

学生たちの会話が少しずつ静まる。

「では、今日は星野さんの発表から始めましょう」

紬は立ち上がった。

ノートパソコンをプロジェクターにつなぐ。

画面にタイトルが映る。

『地方の商品を都市へ届ける時、誰の手間が見えなくなるのか』

その文字を見た瞬間、ゼミ室の何人かが少し姿勢を直した。

紬は、深く息を吸った。

「今日は、地方の商品を都市部へ届ける流通について発表します」

声が、少し硬い。

社内説明の時とは違う緊張がある。

「最近、地方の食品や雑貨を都市の消費者に届ける取り組みが増えています。SNSやECを使えば、小さな作り手の商品も、多くの人に知ってもらえる可能性があります」

最初のスライドには、一般的な流通の図を出した。

作り手。

流通。

販売ページ。

購入者。

その下に、紬は赤い文字で入れていた。

『この図には、誰の手間が描かれていないのか』

「良い商品を都市へ届けることは、良いことのように見えます。でも、その途中には、商品説明を書く人、写真を撮る人、梱包する人、問い合わせに答える人、返品に備える人がいます」

紬は、画面を切り替えた。

次のスライドには、具体的な販売数は出していない。

代わりに、問い合わせ内容を分類した表を出した。

保存方法。

調理方法。

発送日。

ギフト対応。

商品の形の指定。

「実際に小さな販売を行った時、売れた数よりも先に見えたのは、問い合わせと作業の増加でした」

ゼミ室が少し静かになる。

紬は、続けた。

「購入者が商品に興味を持ってくれることは、とてもありがたいことです。でも、その質問に答えるためには、誰かの時間が必要です。説明が足りなければ、本社の担当者だけでは答えられず、食品を扱う部署や、作り手に確認が必要になることもあります」

カナが小さく頷いているのが見えた。

紬は、次のスライドへ進める。

そこには、田宮農園の野菜の写真は出していない。

代わりに、一般化したイラストで、不揃いな野菜と料理後の皿を並べた。

「また、規格から外れた商品を紹介する時、私たちはつい“かわいそうな商品を助ける”ような見せ方をしてしまうことがあります。でも、作り手にとって、それは必ずしも望ましい見え方ではありません」

教授が、静かに紬を見ていた。

「大切なのは、作り手を飾りにしないことです。美談にしすぎると、商品そのものや、作り手が今続けている努力が見えにくくなります」

言いながら、森本の言葉が戻ってくる。

懐かしさだけで続けているわけではありません。

紬は、少しだけ息を整えた。

「今回、私は、地方の商品を都市に届けることは、単に良いものを紹介することではなく、誰の負担をどこまで見えるようにするかの問題だと考えました」

最後のスライドには、三つの問いを置いた。

『売れた数だけで判断していないか』

『作り手の物語を、売る側の都合で使っていないか』

『見えない手間を、誰かの我慢にしていないか』

発表が終わると、ゼミ室はしばらく静かだった。

拍手は小さく起きた。

会社の説明会とは違う、まばらで遠慮がちな拍手だった。

紬は、頭を下げて席に戻ろうとした。

しかし教授が言った。

「では、質問や意見を」

空気が、少し変わった。

最初に手を挙げたのは、ゼミの男子学生だった。

何度かグループワークで一緒になったことがある。

名前は高瀬。

いつも率直な意見を言う学生だった。

「発表は分かりやすかったです」

「ありがとうございます」

紬は答えた。

高瀬は続けた。

「でも、少し気になったんですけど、それって結局、星野さんが社長だからできた話ですよね」

ゼミ室の空気が、わずかに固まる。

紬は、すぐに答えられなかった。

高瀬は、言葉を選びながら続けた。

「普通の学生が地方の商品を扱おうとしても、取引先とか倉庫とか、会社の仕組みなんて使えないじゃないですか。だから、経験としては面白いけど、学生の発表として聞くと、ちょっと遠いというか」

その言葉は、想像していなかったわけではない。

それでも、胸に刺さった。

マイが心配そうに紬を見る。

紬は、ゆっくりと頷いた。

「そうだと思います。私は、会社の仕組みを使える立場にいます。だから、普通の学生と同じ条件ではありません」

言いながら、自分の声が少し震えているのが分かった。

「その立場にいること自体が、すでに大きな偏りだと思います」

高瀬は、少し意外そうに紬を見た。

紬は続けた。

「だから、今日の発表は、私が特別な経験をしましたという話ではなくて、力を持つ側が何を見落としやすいかという話にしたかったです」

教授が、小さく頷く。

「ただ、その伝え方が足りなかったなら、直します」

高瀬は、少しだけ表情を緩めた。

「いや、そこまで否定したいわけじゃなくて。なんか、社長になった人の話をされても、こっちは就活で落ちたりしてるから、距離を感じるというか」

その言葉で、紬の胸がまた痛んだ。

就活。

リクルートスーツ。

お祈りメール。

カフェで藤堂会長と出会う前の自分。

それは、遠い過去ではない。

ほんの少し前まで、自分もそちらにいた。

でも、周囲から見れば、もう違う場所へ行ったように見えるのだ。

「私も、就活で落ちていました」

紬は言った。

「今も、自分がどこに立っているのか分からなくなることがあります」

ゼミ室が静まる。

「会社では学生扱いされます。大学では社長扱いされます。どちらでも、完全にはそこにいない気がします」

その言葉は、発表資料にはなかった。

でも、言わずにはいられなかった。

「だから、今日の発表も、正直うまく立てていないと思います。会社の話を大学に持ち込んでいるし、大学の問いを会社に持ち帰ろうとしている。どちらにも中途半端かもしれません」

高瀬は、黙って聞いていた。

紬は、画面に映った最後の問いを見た。

「でも、中途半端だから見えることもあるのかもしれないと思っています。私は、まだ学ぶ側でもあります。だから、会社の中で当たり前になりそうな言葉を、ここで疑いたいです」

教授が、そこで口を開いた。

「良い応答です」

その一言で、紬は少しだけ息を吐いた。

しかし、次に手を挙げた学生の言葉は、さらに鋭かった。

「地方の商品を美談にしないって話は分かるんですけど」

女子学生だった。

名前は由井。

「でも、会社として売る以上、結局は物語を使いますよね。どれだけ丁寧にしても、作り手の言葉を売上に変えていることには変わらないんじゃないですか」

紬は、唇を結んだ。

その通りだと思った。

どれだけ誠実に言葉を整えても、販売ページに載せた時点で、それは商品を売るための言葉になる。

「はい」

紬は答えた。

「変わらないと思います」

ゼミ室に、少し驚きが広がった。

「だから、使わないことはできないと思います。問題は、使っていることを忘れないことだと思っています」

「忘れない?」

由井が聞き返す。

「はい。作り手の言葉を借りて売っているなら、その言葉がどう使われたのか、売れた後にどう返すのかを考えなければいけないと思います。購入者の声や、誤解された点や、負担が増えた部分も含めて」

言いながら、紬は田宮の言葉を思い出していた。

借りるなら、返し方も考えてください。

「借りっぱなしにしないこと。それが今、私が考えていることです」

由井は、少し考えてから頷いた。

「それなら、もう少し聞きたいです」

その一言に、紬は少し救われた。

完全に納得されたわけではない。

でも、問いは続いた。

ゼミでは、その後も意見が出た。

「購入者の声を返すって、誰が整理するんですか」

「作り手に悪い反応も見せるのは、逆に負担になりませんか」

「地方の商品を都市で売る時、価格は誰が決めるんですか」

「不揃い野菜を安くしないっていうのは分かるけど、消費者は安さを期待するんじゃないですか」

どれも、会社の会議室では出なかった角度だった。

会社では、実務の視点が強い。

倉庫が回るか。

問い合わせ対応は誰がするか。

数字が合うか。

取引先が納得するか。

でも大学では、少し違う問いが出る。

そもそも、その売り方は誰のためか。

良いことに見えるものは、本当に良いのか。

作り手の言葉を使う責任とは何か。

紬は、メモを取り続けた。

発表を終えた時よりも、資料は赤字だらけになっていた。

柚木の事業案が現場で赤字だらけになった時と、少し似ている。

ただ、その赤字は違う種類のものだった。

会社の赤字は、実務の穴を埋めるためのもの。

大学の赤字は、考え方の穴を見つけるためのもの。

どちらも、今の紬には必要だった。

ゼミが終わると、学生たちは少しずつ席を立った。

高瀬が、紬の席の近くへ来た。

「さっき、きつい言い方だったかも。ごめん」

紬は首を横に振った。

「ううん。言ってもらえてよかった」

「ほんとに?」

「うん。社長だからできた話っていうのは、本当にそうだと思うから」

高瀬は、少し照れたように頭をかいた。

「でも、最後の中途半端だから見えることもあるっていうのは、ちょっと面白かった」

「面白い?」

「うん。なんか、完璧な社長の話だったら聞きたくないけど、迷ってる話なら聞ける」

その言葉に、紬は少し笑った。

「完璧ではないです」

「見れば分かる」

「そこまで言う?」

高瀬は笑った。

「良い意味で」

良い意味なのかは分からない。

でも、少しだけ空気が軽くなった。

由井も近づいてきて、資料を見ながら言った。

「作り手の言葉を借りるなら返し方を考えるって、そこだけもう少し深掘りしたら面白いと思う」

「ありがとう。会社でも考えてみる」

「会社でも、っていうのがすごいよね」

由井は、少しだけ笑った。

「でも、さっきの発表なら、ただの社長自慢には聞こえなかった」

紬は、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。

「ありがとう」

マイとカナも片付けを手伝ってくれた。

ゼミ室を出ると、廊下には夕方の光が差し込んでいた。

マイが、紬の資料を見ながら言う。

「今日、会社に持って帰るメモ増えたね」

「増えすぎた」

「でも、よかったんじゃない?」

「うん」

カナが笑う。

「大学、ちゃんと役に立ってるじゃん」

その言葉に、紬は足を止めた。

大学が役に立つ。

それだけを目的にしたくはない。

教授に言われた通り、大学は会社のための資料置き場ではない。

でも、ここで出た問いが、会社の判断を変えることはある。

そのことは確かだった。

「役に立つ、というより」

紬は少し考えた。

「会社で急ぎそうになる自分を、止めてくれる感じがする」

マイは頷いた。

「それ、いいんじゃない」

カナも言う。

「じゃあ辞められないね、大学」

冗談のような言い方だった。

でも、紬には重く響いた。

辞められない。

そうかもしれない。

社長業が忙しいから、大学を手放す。

そうすれば、楽になる部分はある。

でも、今日の発表で分かった。

大学には、会社では出てこない問いがある。

自分を遠くから見る視線がある。

社長という肩書きに巻き込まれない言葉がある。

それを手放すのは、きっと怖い。

ゼミ棟を出ると、スマートフォンが震えた。

柚木からだった。

『次回テスト販売の改善案、相談したいです。今日少しお時間ありますか?』

紬は、画面を見つめた。

すぐに返事を打とうとして、ふと立ち止まる。

今日のゼミで出た問いを思い出す。

作り手の言葉を借りるなら、返し方を考える。

悪い反応を見せることも、相手の負担になるのではないか。

価格は誰が決めるのか。

安さを期待する消費者にどう伝えるのか。

それらは、次回改善案に必要だった。

紬は返信した。

『あります。ただ、今日のゼミで出た問いも入れたいです。作り手への“声の返し方”について、もう一度考えたいです』

すぐに既読がつく。

『ぜひ聞きたいです』

その短い返事に、紬は少しだけ笑った。

大学の問いが、会社へ戻っていく。

会社の現実が、大学で問い直される。

その往復は、きっと疲れる。

これからも、遅刻しそうになり、課題に追われ、会社の連絡に焦り、友人との距離に傷つくのだろう。

それでも、その往復をやめたくないと思った。

夕方のキャンパスを、学生たちが歩いていく。

紬も、その流れに混じって歩き出した。

バッグは重い。

会社の資料も、ゼミの赤字も、未提出だったレポートの減点も、全部入っている。

でも、その重さは今朝より少しだけ違って感じた。

社長室へ向かう前に、もう一度だけ振り返る。

ゼミ棟の窓に、夕日が反射していた。

あの場所で、自分は社長としてではなく、学生として問われた。

その問いを持ち帰れるなら、大学にいる意味はまだある。

紬は、バッグの肩紐をかけ直した。

そして、大学の門を出た。

夜には、また会社へ向かう。

けれど、今度は会社の資料だけではない。

ゼミ室で受け取った問いも、一緒に持っていく。

それが、今の紬にできる、学びながら働くということだった。


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