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女子大生社長は、勝たない  作者: 久遠 睦


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26/55

第26章:月曜一限の女子大生社長

月曜の朝、星野紬は大学へ向かって走っていた。

肩にはノートパソコンの入ったバッグ。

片手には、昨夜ほとんど眠らずにまとめた社内向け報告文の印刷原稿。

もう片方の手には、コンビニで買ったおにぎりが入った袋。

足元はパンプスではない。

大学へ行く時に履いていた、少しくたびれたスニーカーだった。

駅の階段を駆け上がりながら、紬は腕時計を見る。

午前八時四十二分。

一限開始まで、あと十八分。

間に合う。

たぶん、ぎりぎり。

スマートフォンが震えた。

画面を見る余裕はない。

けれど、通知の表示だけが目に入った。

柚木からだった。

『販売後アンケートの自由記述、追加で二件来ています。森本さん向けの報告資料に入れますか?』

紬は改札を抜けながら、片手で短く返す。

『入れてください。ただし良い感想だけにしないでください』

送信した直後、今度は美崎から通知が届く。

『社内向け報告文、冒頭の表現を少し調整しました。完売を強調しすぎない形にしています』

続いて、一ノ瀬。

『銀行向け資料は午前十一時までに確認をお願いします』

さらに、大学の講義管理システムから通知。

『地域経済論 小レポート未提出』

紬は、ホームで立ち止まりそうになった。

未提出。

胸の奥が冷える。

提出期限は昨夜だった。

分かっていた。

分かっていたのに、社内向け報告文と販売後の数字確認に追われ、気づいた時には日付が変わっていた。

いや、正確には気づいていた。

ただ、後で出そうと思って、その後が来なかった。

電車がホームへ滑り込んでくる。

紬は人の流れに押されるように乗り込んだ。

車内は、通勤客と学生で混み合っている。

つり革につかまりながら、スマートフォンで講義管理画面を開いた。

未提出の赤い文字が、妙に大きく見える。

会社では、完売を成功と言い切らない報告文を書いた。

現場負荷を隠さないと決めた。

取引先への返答も、銀行向け資料も、次に向けた改善案も、少しずつ整っている。

それなのに、大学では小レポートひとつ出せていない。

紬は、画面を閉じた。

窓の外に、流れていくビルの影が映る。

社長室では、誰も紬を大学生として扱わない。

けれど、大学では、紬はただの遅刻しそうな学生だった。

その落差に、胸がついていかない。

大学の最寄り駅に着いたのは、八時五十四分だった。

紬は駅前の横断歩道を駆け抜け、キャンパスへ向かった。

門をくぐると、空気が変わる。

スーツ姿の会社員も、配送トラックの音も、会議室の張り詰めた空気もない。

代わりに、リュックを背負った学生たちの笑い声。

キッチンカーの準備をする匂い。

掲示板の前で話し込むサークルの学生。

秋の光を受けたキャンパスの木々。

そこには、紬が少し前まで当たり前にいた世界があった。

けれど今は、その世界の方が遠く見えた。

一限の教室に入ると、すでに講義は始まる直前だった。

紬は後ろの席に滑り込む。

息が上がっている。

ノートパソコンを開く前に、教授が教室へ入ってきた。

地域経済論。

地方の商店街や小規模事業者、流通構造について扱う講義だった。

皮肉なほど、今の紬に近い内容だった。

教授は出席を取りながら、淡々と話し始める。

「今日は、地域産品の都市部流通について扱います。良いものを都市へ届ける、という言葉は聞こえがいい。しかし、その過程で誰がコストを負担するのかを見なければ、支援の名を借りた搾取になります」

紬の指が、キーボードの上で止まった。

支援の名を借りた搾取。

田宮の言葉が蘇る。

かわいそうな商品にしないでほしい。

森本の声も重なる。

懐かしさだけで続けているわけではありません。

教授は黒板に、三つの言葉を書いた。

供給量。

物流負荷。

情報の非対称性。

「地方の商品を扱う時、都市側はしばしば“物語”を求めます。作り手の苦労、土地の背景、昔ながらの手仕事。もちろん、それらは価値です。しかし、物語が強くなりすぎると、商品そのものや、作り手の現在の努力が見えなくなることがあります」

紬は、慌ててノートを取った。

これは、そのまま会社で考えなければならないことだった。

物語が、現在の努力を隠す。

その一文を打ち込んだ瞬間、スマートフォンが震える。

今度は加賀からだった。

『黒川さんから。次回やるなら箱サイズの見直し必須。今日中に一度確認したいとのこと』

紬は、画面を裏返した。

今は講義中だ。

分かっている。

でも、黒川の確認は後回しにしたくない。

箱サイズを見落とせば、倉庫の負担になる。

田宮や森本への次の提案にも関わる。

紬は、教室の前を見た。

教授が話している。

「良い企画ほど、現場に負担を押しつけることがあります。企画者は、つい消費者の反応を見る。しかし、流通の途中で動く手を見落とす」

心臓が、少し強く鳴った。

会社から来る通知と、目の前の講義内容が重なっていく。

どちらも、同じことを言っている。

逃げずに聞くべきことだった。

紬は、スマートフォンをバッグの中へ入れた。

まず、講義を聞く。

そう決めた。

けれど、決めたそばから不安が押し寄せる。

返信が遅れたらどうなるか。

黒川は待ってくれるだろうか。

柚木は判断に迷っていないだろうか。

一ノ瀬の資料確認は十一時までだ。

社長が講義中だから、という理由で会社は止まらない。

その一方で、会社が忙しいから、という理由で大学の単位はもらえない。

講義が終わる頃には、紬のノートはいつもよりずっと密になっていた。

ただし、それは学生としての勉強なのか、社長としての仕事なのか、自分でも分からなかった。

教室を出ようとした時、背後から声がした。

「紬」

振り向くと、マイが立っていた。

その隣にカナもいる。

二人とも、少し気まずそうな顔をしていた。

「久しぶり」

紬が言うと、マイは笑った。

「うん。ほんとに久しぶり」

その言葉は、何気ない。

けれど、少し刺さった。

「最近、全然見ないからさ」

カナが言った。

「ニュースとかSNSでは見るけど」

紬は、どう答えればいいか分からなかった。

「ごめん。ちょっと会社のことで」

言いかけて、自分の言葉がひどく遠く聞こえた。

会社のこと。

その一言で済ませるには、あまりに大きすぎる。

でも、説明しようとすれば、どこから話せばいいか分からない。

総会。

倉庫。

食品流通部。

テスト販売。

完売。

現場負荷。

銀行。

取引先。

どれも、大学の廊下で軽く話すには重すぎた。

マイは、少しだけ目を伏せた。

「忙しいのは分かるよ。すごいことしてるんだろうし」

「すごいかどうかは、まだ分からない」

紬は反射的に答えた。

マイが、少し驚いた顔をする。

紬は慌てて続けた。

「ごめん。そういう意味じゃなくて」

「ううん」

カナが、紬のバッグを見た。

「なんか、前より荷物増えたね」

「え?」

「資料とか。いつもそんなに持ってたっけ」

紬は、自分のバッグを見下ろした。

ノートパソコン。

会社の資料。

大学の教科書。

取引先への報告文。

銀行向け資料。

講義ノート。

全部が同じバッグに入っている。

重いはずだ。

「増えたかも」

紬が笑うと、カナも少しだけ笑った。

けれど、以前のような軽さは戻らなかった。

マイが、少し迷ってから言った。

「ゼミ、今週発表あるよ。紬の担当、まだ残ってる」

紬は息を呑んだ。

「発表……」

忘れてはいなかった。

ただ、遠くへ押しやっていた。

「先生、何も言ってないけど、たぶん気にしてる」

「そっか」

「忙しいなら、担当変えることもできると思うけど」

その言葉に、紬は胸が痛んだ。

気遣いだと分かる。

でも、同時に、自分がすでにゼミの中で「いないかもしれない人」として扱われ始めていることも分かった。

「やる」

紬は言った。

「発表、やる」

マイは、少し目を見開いた。

「大丈夫?」

「大丈夫かは分からない。でも、やる」

カナが、眉を寄せた。

「無理してない?」

「してると思う」

紬は、正直に言った。

「でも、無理してるからって全部やめたら、何のために大学に来てるのか分からなくなる」

二人は、しばらく黙っていた。

その沈黙に、紬は少し怖くなる。

変なことを言ったかもしれない。

社長みたいなことを言ってしまったかもしれない。

けれど、マイは小さく息を吐いて言った。

「じゃあ、今日の昼、少しゼミ資料見ようよ」

「いいの?」

「いいよ。久しぶりに学食で」

カナも頷いた。

「会社の話ばっかりじゃなくて、ちゃんとゼミの話ね」

その言い方に、ほんの少しだけ以前の空気が戻った。

紬は、胸の奥が温かくなるのを感じた。

「ありがとう」

次の空き時間、紬は教授の研究室へ向かった。

小レポート未提出のことを謝るためだった。

ドアをノックすると、中から低い声が返ってくる。

「どうぞ」

地域経済論の教授は、書類の山の中で眼鏡をかけ直した。

「星野さんですね」

「はい」

紬は深く頭を下げた。

「小レポートの提出が遅れました。申し訳ありません」

教授は、怒鳴らなかった。

ただ、静かに紬を見た。

「理由は?」

「会社の仕事を優先してしまいました」

言い訳に聞こえるだろうか。

紬は唇を結んだ。

だが、嘘をつくことはできなかった。

教授は、しばらく黙ってから言った。

「正直ですね」

「すみません」

「謝罪は受け取ります。ただし、大学の課題は、会社の都合では消えません」

「はい」

その言葉は当たり前だった。

けれど、改めて言われると重かった。

「星野さんが今、特別な状況にいることは知っています。報道も見ました。ですが、この大学では、あなたは学生です」

「はい」

「学生である以上、学ぶ義務があります」

紬は、深く頷いた。

「分かっています」

「本当に分かっていますか」

その問いに、紬は顔を上げた。

教授の目は厳しかった。

「社長業に大学の学びを利用することはできます。むしろ、現場を持つ学生として、あなたにしか見えないものもあるでしょう」

紬は、息を止める。

「しかし、大学をただ会社のための資料置き場にしてはいけません。ここは、すでに持っている答えを補強する場所ではありません。問いを持ち直す場所です」

問いを持ち直す場所。

その言葉が、胸に残った。

教授は続ける。

「あなたは今、会社で多くの判断をしているのでしょう。ですが、判断する立場に立つほど、自分の答えに酔いやすくなります」

紬は、藤堂会長の言葉を思い出した。

勝つことに酔ってはいけない。

「大学では、答えを急がないでください。社長として急がなければならない時ほど、学生として立ち止まる時間を持ちなさい」

紬の喉が熱くなる。

今朝、講義中に会社の通知を見て、心が二つに裂けそうだった。

どちらかを選ばなければいけないと思っていた。

会社か、大学か。

社長か、学生か。

でも、教授の言葉は違った。

学生であることは、社長業の邪魔ではない。

判断を急ぐ自分を、立ち止まらせる場所なのかもしれない。

「先生」

紬は言った。

「私は、大学を続けてもいいんでしょうか」

教授は、少しだけ目を細めた。

「それは私が許可することではありません。あなたが決めることです」

「はい」

「ただ、続けるなら、中途半端にしないことです」

胸が痛む。

中途半端。

今の自分に、一番刺さる言葉だった。

教授は、未提出のレポートについて言った。

「今回のレポートは、遅延扱いで受け取ります。ただし、減点します」

「はい。ありがとうございます」

「テーマを変えても構いません。今日の講義を踏まえて、地域産品の流通における“物語化”と“負担の所在”について書いてください」

紬は、思わず顔を上げた。

「それは……」

「あなたが今、一番考えるべきことではありませんか」

教授の声は静かだった。

紬は、深く頭を下げた。

「書きます」

研究室を出たあと、紬は廊下の端でしばらく立ち止まった。

大学の窓から、中庭が見える。

学生たちがベンチで昼食をとっている。

その光景は、会社の会議室とはあまりにも違う。

けれど、そこにも確かに現実があった。

学費を払い、単位を取り、卒業を考え、就職を考える学生たちの現実。

紬も、その中の一人だった。

社長になったからといって、その現実から抜け出したわけではない。

昼休み。

学食の片隅で、紬はマイとカナと向かい合っていた。

久しぶりの学食のカレーは、少しぬるかった。

けれど、妙に懐かしい味がした。

「で、ゼミ発表だけど」

マイがノートを広げる。

「テーマ、地域流通でいいんだよね」

「うん」

紬はノートパソコンを開いた。

「地方の商品が都市に届く時、何が見えなくなるのか、みたいな方向で考えてる」

カナが頷く。

「紬の会社の話、そのまま使うの?」

「使うけど、そのまま自慢みたいにはしたくない」

「自慢?」

「完売しました、みたいな話じゃなくて」

紬は、少し言葉を探した。

「売れたことで、現場の手間が増えた話とか。商品の物語を作る時に、作り手を勝手に飾りにしないこととか。そういう話にしたい」

マイは、しばらく黙っていた。

それから言った。

「それなら、聞きたいかも」

紬は、少し驚いた。

「本当?」

「うん。ニュースで見ると、女子大生社長がすごいことしてるって感じだけど、そういう裏側なら、私たちにも関係ある気がする」

カナも頷いた。

「SNSで地方の商品買うことあるしね。作ってる人のこと、分かってるようで分かってないかも」

その言葉に、紬は胸の奥が少し軽くなった。

大学で話す意味が、少し見えた気がした。

会社の宣伝ではない。

社長としての成果発表でもない。

学生として、自分が今まさに迷っている問いを持ち込む。

それなら、ここにいる意味がある。

午後のゼミまでの時間、三人で資料を整理した。

マイは、発表の構成を手伝ってくれた。

カナは、学生が聞いて分かりやすい言葉に直してくれた。

「“物流負荷”って言うと硬いから、“届くまでに誰の手が動くのか”って言えば?」

「“物語化”は、“いい話にしすぎること”でいいんじゃない?」

「完売って言葉は最初に出さない方がいいかも。そこから入ると成功談に聞こえる」

その指摘は、どれも鋭かった。

紬は、二人を見ながら思った。

会社の会議室では出てこない言葉がある。

大学の友人だから見える距離がある。

学生の視点が、会社の言葉を少しだけ柔らかくする。

「ありがとう」

紬が言うと、マイは軽く笑った。

「なんか、久しぶりに紬の課題手伝ってる感じ」

カナも笑う。

「前は、紬が一番先に終わらせてたのにね」

「今は一番遅れてます」

紬が言うと、三人で少し笑った。

その笑いに、紬は救われた。

夕方、ゼミが終わったあと、紬はキャンパスのベンチに座っていた。

スマートフォンには、未読の通知が溜まっている。

柚木から、アンケート整理の更新。

美崎から、社内向け報告文の修正版。

一ノ瀬から、銀行資料の確認催促。

加賀から、黒川との箱サイズ確認の日程。

進藤から、明日の朝会の予定。

どれも放っておけない。

けれど、バッグの中には、教授から出されたレポート課題もある。

地域産品の流通における物語化と負担の所在。

紬は、空を見上げた。

社長になったから、大学を捨てる。

そうした方が分かりやすいのかもしれない。

会社に集中できる。

周囲にも本気だと示せる。

銀行にも、社員にも、取引先にも、学生気分ではないと言えるかもしれない。

でも、それは本当に強さなのだろうか。

学ぶ場所を捨てることで、社長らしく見せるだけではないのか。

紬は、学生証を取り出した。

小さなプラスチックのカードに、自分の顔写真と名前がある。

星野紬。

その名前は、社長室の紙の名札と同じだった。

どちらかが本物で、どちらかが仮の姿ではない。

どちらも今の自分だった。

スマートフォンが震える。

進藤からのメッセージだった。

『本日中に社内向け報告文の最終確認をお願いします。無理のない範囲で』

無理のない範囲で。

進藤らしくないほど、少し柔らかい言葉だった。

紬は、しばらく画面を見つめてから返信した。

『大学のレポート提出後に確認します。二十一時までに返します』

送信してから、少し怖くなった。

会社の仕事を後回しにした。

それでも、これを言えなければ両方を続けることはできない。

すぐに既読がついた。

返信は短かった。

『承知しました』

それだけだった。

けれど、紬には十分だった。

社長として逃げない。

学生としても逃げない。

その両方を完璧にやることは、きっとできない。

遅れることもある。

謝ることも増える。

誰かに迷惑をかけることもある。

それでも、どちらかを捨てて強く見せるより、弱いまま両方に立つ方を選びたい。

紬は、ベンチの上でノートパソコンを開いた。

レポートのタイトルを打ち込む。

『地域産品の流通における物語化と負担の所在』

最初の一文で、指が止まる。

少し考えてから、紬はこう書いた。

『地方の商品を都市へ届ける時、私たちはしばしば、良い物語を添えようとする。しかし、その物語が美しくなるほど、誰の手間が見えなくなるのかを考えなければならない。』

打ち終えた時、夕方のキャンパスにチャイムが鳴った。

学生たちが、次の教室へ向かって歩いていく。

紬も、その中にいた。

社長室ではなく、大学のベンチで、会社の未来にもつながる問いを書いている。

その不格好さが、今の自分にはちょうどいい気がした。

紬は、学生証をノートパソコンの横に置いた。

その小さなカードが、今日は少しだけ重く見えた。

社長になるために、女子大生を捨てるのではない。

学び続けるからこそ、聞き続けられることがある。

紬は、もう一度キーボードに指を置いた。

夜までに、レポートを書き上げる。

そのあとで、社内向け報告文を見る。

どちらも、今の紬の仕事だった。


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