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女子大生社長は、勝たない  作者: 久遠 睦


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25/52

第25章:完売のあとに残ったもの

完売という文字は、思っていたほど華やかではなかった。

販売管理画面には、森本食品と田宮農園の商品がどちらも完売したことが表示されている。

希望登録の数も、少しずつ増えていた。

けれど、星野紬の前に広がっている資料は、明るい成果報告書とは言いがたかった。

問い合わせ件数。

梱包作業時間。

食品流通部への確認件数。

倉庫での停止時間。

返品に備えた確認項目。

購入者の感想。

SNSでの反応。

取引先からの意見。

そのすべてが、机の上に並んでいる。

完売した。

でも、成功とはまだ言えない。

その言葉が、朝からずっと胸の中にあった。

午後一時。

本社七階の会議室には、テスト販売に関わったメンバーが集まっていた。

進藤。

加賀。

一ノ瀬。

美崎。

柚木。

松永。

相沢。

黒川。

そして紬。

机の中央には、分厚い振り返り資料が置かれている。

表紙には、美崎が整えた簡潔なタイトルがあった。

『地域共創型テスト販売 初回検証報告』

その下に、小さくこう書かれている。

『完売結果および運用負荷の確認』

柚木は、資料の表紙を見つめていた。

完売。

その二文字だけなら、きっと胸を張れた。

だが、その横に運用負荷という言葉が並んでいる。

それが、今回の販売の現実だった。

進藤が会議を始める。

「本日は、テスト販売の結果と課題を確認します。まず、柚木さんから販売実績をお願いします」

「はい」

柚木は立ち上がり、少し緊張した声で報告を始めた。

「森本食品の惣菜セット三十セット、田宮農園の野菜セット二十五セットは、どちらも販売期間内に完売しました。販売開始後、SNSからの流入が増え、特に田宮農園の商品ページへのアクセスが伸びました」

画面にグラフが表示される。

注文数。

アクセス数。

希望登録数。

購入者アンケートの回答数。

数字だけを見れば、悪くない。

むしろ、小さなテストとしては十分な手応えがある。

「購入者アンケートでは、味や説明文への評価が高く、特に“押しつけがましくない紹介だった”“普通に食べたいと思った”“作り手の事情が分かってよかった”という声がありました」

柚木の声が、少しだけ明るくなる。

「一方で、保存方法や調理方法についての質問が多く、販売ページと同梱案内の説明不足が見られました。ギフト対応、発送日指定、野菜の形の指定についても問い合わせがあり、事前表示の改善が必要です」

柚木は、そこで一度息を吸った。

「また、問い合わせ一次対応に想定以上の時間がかかりました。食品流通部への確認件数は、FAQ修正後に減りましたが、初日は相沢さんの通常業務を止める場面がありました」

相沢は、静かに資料を見ている。

責めるような表情ではない。

けれど、その疲れはまだ残っているように見えた。

柚木は、相沢の方を向いた。

「申し訳ありませんでした」

相沢は、小さく首を振った。

「謝罪は昨日受けました。今日は原因を見ましょう」

その言葉に、柚木は少しだけ目を見開いた。

それから、しっかり頷いた。

「はい」

次に、一ノ瀬が報告する。

画面には、売上と費用の表が表示された。

販売数は完売。

売上は想定通り。

しかし、利益はほとんど残っていない。

梱包資材費。

問い合わせ対応時間。

倉庫作業時間。

食品流通部確認時間。

販売ページ修正にかかった時間。

配送調整費。

それらを入れると、数字は一気に厳しくなる。

「売上だけ見れば、今回のテストは良好です」

一ノ瀬は淡々と言った。

「しかし、実際の対応時間と現場負荷を費用換算すると、利益はほぼ出ていません。拡大する場合、現行の運用では負担が先に増えます」

柚木の表情が少し曇る。

紬も、表の数字を見つめた。

完売したのに、利益は小さい。

売れたのに、余裕はない。

その現実は厳しかった。

一ノ瀬は続ける。

「ただし、検証としては有効です。需要があること、購入者の関心があること、問い合わせ内容、作業時間、現場負荷が見えました。次回に向けて改善すべき点も明確です」

「拡大はできますか」

柚木が尋ねた。

一ノ瀬は、少し間を置いてから答えた。

「すぐには難しいです」

その言葉に、会議室の空気が少し重くなる。

「数量を増やすなら、問い合わせ対応の仕組み、倉庫の保管場所、梱包作業の標準化、食品流通部への確認フローを整える必要があります。現状のまま数を増やせば、現場負荷が急増します」

黒川が、静かに頷いた。

「倉庫側も同じ意見です」

進藤が黒川を見る。

「お願いします」

黒川は、手元の作業記録表を開いた。

「今回、大きな事故や誤出荷はありませんでした。それは良かった点です」

柚木の肩が、わずかに下がる。

黒川は続けた。

「ただし、梱包作業時間は当初想定より四割増えました。途中で案内文を修正したため、作業停止も発生しています。北側区画の棚一段は、今回の数量ではぎりぎり回りましたが、これ以上増やすなら保管場所を再検討する必要があります」

紬は、メモを取る。

ぎりぎり。

その言葉は重い。

「通常業務を止めないという約束は守られました」

黒川は、紬を見た。

「そこは評価します」

紬は、思わず背筋を伸ばした。

「ありがとうございます」

「ただし、次回も同じようにできるとは限りません。数量、時期、曜日によって負担は変わります。売れたから増やす、ではなく、回せる形を先に決めてください」

「はい」

「それから」

黒川は、手元の紙を一枚差し出した。

「返品対応の記録です。今回は返品はありませんでしたが、問い合わせの内容から、返品が発生した場合の判断基準はまだ粗いです」

紬は、その紙を受け取った。

以前、女性作業員からもらったメモに似ていた。

だが、今回は実際の販売を踏まえたものになっている。

保存状態の確認。

開封後の問い合わせ。

配送中の破損。

受け取り遅れ。

食品期限。

どれも、次に向けて見ておかなければならない。

「現場の方が作ってくださったんですか」

「はい」

黒川は短く答えた。

「次にやるなら、先に決めておいた方がいいと」

その言葉に、紬は胸が熱くなった。

次にやるなら。

そこには、拒絶ではなく、条件付きの前進がある。

「必ず確認します」

紬は言った。

黒川は、それ以上何も言わなかった。

次に、松永が口を開いた。

「取引先の反応を共有します」

画面には、森本食品と田宮農園からのコメントが表示された。

森本食品。

『販売ページの表現は、概ねこちらの意図に近かったです。購入者から“懐かしさだけではない”という感想があったのはありがたいです。ただ、次回行う場合は、従業員にもページを見せてから判断したいです。繁忙期は避けたいので、時期は相談させてください。』

田宮農園。

『料理写真を見られたのは良かったです。形が悪いことを面白がるだけではなく、ちゃんと食べてもらえた感じがしました。ただ、出せる量は今回程度が限界です。次があるなら、天候と収穫量を見てから考えます。』

会議室が静かになる。

森本も田宮も、完全に前向きというわけではない。

けれど、閉じてはいない。

次の話をする余地は残っている。

松永は言った。

「森本さんは、次回の販売ページを社内で共有したいそうです。社長だけではなく、現場の従業員にも確認してもらう必要があります」

紬は頷いた。

「分かりました」

「田宮さんは、購入者の声には興味を持っています。ただし、量を増やすことには慎重です。こちらから追加を前提に話を進めるのは避けてください」

「はい」

相沢が続けた。

「購入者アンケートから、レシピや保存方法の情報をもっと出せば問い合わせは減らせると思います。ただ、それを食品流通部だけで作るのは難しいです」

「どうすればいいでしょうか」

柚木が尋ねる。

相沢は、資料の端を指で押さえながら言った。

「次回やるなら、販売前に取引先、食品流通部、広報で一緒にFAQを作った方がいいです。販売が始まってから直すと、どうしても後手になります」

柚木は、すぐにメモを取った。

「事前FAQ作成会」

「それから、購入者に返す情報だけではなく、取引先に返す情報も整理してください。どういう質問が多かったのか。どの商品説明が読まれたのか。どんな写真が反応されたのか」

「はい」

「売れました、だけでは、次に活かせません」

柚木は、大きく頷いた。

「分かりました」

美崎は、SNS反応の整理を報告した。

「好意的反応は、商品そのもの、説明文の誠実さ、料理写真に関するものが多く見られました。一方で、批判的反応としては、大企業が地方の小規模事業者を利用しているのではないか、規格外野菜を美談化しているのではないか、女子大生社長の話題づくりではないか、という声がありました」

紬の胸が、また少し痛んだ。

美崎は続ける。

「公式発信では、購入者の声を過度に拡散せず、完売についても控えめな表現にしました。その点は、炎上を避けるうえでは適切だったと思います。ただし、次回以降は、取り組みの意図をもう少し丁寧に伝える必要があります」

「取引先を前に出しすぎずに、ですか」

紬が尋ねると、美崎は頷いた。

「はい。私たちが何を学んでいるのか、何を検証しているのかを伝える方がよいと思います。地方を助ける、ではなく、流通のあり方を一緒に試している、という姿勢です」

柚木が小さく呟いた。

「一緒に試している……」

「その方が近いですね」

相沢が言った。

「現場としても、助けられているという言い方は違和感があります」

松永も頷く。

「取引先も同じだと思います」

紬は、メモ帳に書いた。

『助けるではなく、一緒に試す』

その言葉は、今回の販売を通してようやく見えてきたものだった。

会議は二時間以上続いた。

完売を喜ぶ時間よりも、課題を確認する時間の方がずっと長かった。

柚木の資料には、また赤字が増えていく。

だが、その表情は暗くなかった。

むしろ、最初の頃よりもずっと落ち着いている。

「柚木さん」

進藤が声をかけた。

「次回案の方向性はありますか」

柚木は、ゆっくりと顔を上げた。

「はい」

彼女は、新しいページを開いた。

そこにあったのは、大きな拡大案ではなかった。

『第二回テスト販売に向けた改善案』

その下に、いくつかの項目が並んでいる。

数量は今回と同程度、または微増に留める。

販売前にFAQ作成会を行う。

倉庫作業の標準手順を作る。

問い合わせ対応の担当時間を明確にする。

取引先へ購入者の声を返す。

SNS発信は商品と使われ方中心にする。

追加販売は事前合意がある場合のみ検討。

一ノ瀬が、少しだけ目を細めた。

「拡大案ではないんですね」

「はい」

柚木は答えた。

「前なら、完売したので次は三倍にしましょう、と言っていたと思います」

加賀が笑う。

「言いそうだな」

柚木も少し笑った。

「でも、今はそれをやると壊れると思います。次は、今回見えた穴を埋めながら、もう一度小さく試したいです」

黒川が、黙って資料を見ている。

松永も、相沢も、すぐに反対しなかった。

それだけで、柚木には十分だったのかもしれない。

彼女の表情が少し柔らかくなる。

紬は、その姿を見ながら胸が温かくなった。

柚木の未来図は、もう空中に浮かんでいない。

現場の床に足をつけ始めている。

進藤が、最後に紬を見た。

「星野さん。今回の結果について、社内向けにどう伝えますか」

会議室の視線が、紬へ集まる。

完売しました。

好評でした。

次へつなげます。

そう言うことは簡単だった。

きっと社員の中には、明るい言葉を待っている人もいる。

不安ばかりの会社に、小さな成功を見せてほしい人もいる。

だが、完売だけを成果として出せば、また見えない負担が消えてしまう。

紬は、ゆっくりと立ち上がった。

「完売したことは伝えます」

声は、会議室の奥まで静かに届いた。

「でも、成功したとはまだ言いません」

柚木が、紬を見る。

一ノ瀬も、黒川も、松永も、静かに聞いている。

「今回分かったのは、売れる可能性と、壊れる可能性の両方です」

紬は、手元の資料に目を落とした。

「購入者の方から良い声をいただきました。取引先にも、次の話をしていただける余地が残りました。それは大きな前進です」

言葉を切る。

「でも、問い合わせは想定より多く、倉庫の作業時間も増えました。食品流通部の通常業務を止めた場面もあります。利益もほとんど出ていません。すぐに拡大できる状態ではありません」

会議室の空気は重い。

だが、紬は続けた。

「それでも、私は今回の販売を意味のある一歩だったと思っています。完売したからではありません。止まる条件を守り、追加販売をせず、取引先と現場の声を残したまま終われたからです」

黒川が、わずかに視線を上げた。

松永も、静かに頷いた。

「社員の皆さんには、良い結果だけではなく、増えた手間も伝えます。そして、次に進むなら、その手間をどう減らすかを一緒に考えたいと伝えます」

進藤が、穏やかに頷いた。

「分かりました。美崎さん、社内向け文案をお願いします」

「はい」

美崎がすぐにメモを取る。

「完売を成果として伝えつつ、検証結果と課題を併記します。現場負荷を隠さない形にします」

「お願いします」

会議が終わる頃、外は夕暮れになっていた。

出席者たちは、それぞれ資料を抱えて部屋を出ていく。

黒川は、扉の前で紬に声をかけた。

「社長」

「はい」

「次にやるなら、返品対応の基準を先に詰めてください」

「はい」

「それから、箱のサイズも見直した方がいいです」

「分かりました」

黒川は、少しだけ間を置いた。

「今回、通常業務は止まりませんでした」

「はい」

「それは、よかったです」

その言葉だけを残して、黒川は出ていった。

松永も、鞄を持って立ち止まる。

「森本さんと田宮さんへの報告資料、できたら先に見せてください」

「もちろんです」

「良い声だけでまとめないでください」

「はい」

「でも、良い声もちゃんと入れてください。取引先にとっては励みになります」

紬は、少しだけ笑った。

「分かりました」

相沢は、柚木に向かって言った。

「FAQ作成会、やるなら早めに声をかけてください」

柚木が、ぱっと顔を上げる。

「参加していただけますか」

「必要なら」

「お願いします」

相沢は、少しだけ肩をすくめた。

「次に食品流通部への確認件数を減らすためです」

その言い方は素っ気なかった。

けれど、拒絶ではなかった。

柚木は深く頭を下げた。

「ありがとうございます」

会議室に最後まで残ったのは、紬と柚木だった。

机の上には、赤字だらけの資料が残っている。

完売した商品の資料なのに、まるで失敗報告書のようにも見えた。

でも、紬にはそれが誇らしかった。

失敗を隠さずに書ける資料。

手間を消さずに残せる資料。

取引先の言葉を、そのまま入れられる資料。

それは、今の藤堂物産にとって必要なものだった。

柚木が、ぽつりと言った。

「完売したら、もっと嬉しいだけだと思っていました」

「私もです」

「でも、課題ばっかりですね」

「はい」

「それでも、次を考えられるんですね」

紬は、資料の最後のページを見た。

そこには、購入者の感想がいくつか並んでいる。

『届いた野菜で煮物を作りました。形は違っても、味がしっかりしていました。』

『森本食品の惣菜、説明文を読んで買いました。派手ではないけれど、ちゃんと作っている感じが伝わりました。』

『次があるなら、また買いたいです。』

その声の横には、批判的な反応も残してある。

『地方の商品を使った話題づくりに見える。』

『規格外野菜を売るなら、価格や農家への還元をもっと見せてほしい。』

どちらも消さなかった。

どちらも、次に必要な声だった。

「次を考えられるのは、今回で全部終わりにしなかったからだと思います」

紬は言った。

「売れた時に約束を破らなかったから、まだ話せる相手が残っているんだと思います」

柚木は、静かに頷いた。

「次は、もっと良くしたいです」

「はい」

「でも、もっと大きく、じゃなくて」

柚木は少し考え、言葉を選んだ。

「もっと壊れにくくしたいです」

その言葉に、紬は深く頷いた。

社長室へ戻ると、机の上には完売後の資料が積まれていた。

販売報告。

問い合わせ一覧。

作業時間表。

SNS反応まとめ。

取引先コメント。

次回改善案。

紬は、その一番上に、黒川から受け取った返品対応の記録を置いた。

その横には、軍手がある。

紙の名札も、まだ紙のままだ。

『星野 紬』

紬は、その名札を見つめた。

完売しても、名札は重くならない。

一度売れたくらいで、社長になれるわけではない。

けれど、その横に置かれた資料の重さは、少しずつ増えている。

それは、紬が見なければならない現実の重さだった。

スマートフォンが震えた。

松永からだった。

『田宮さんからです。購入者の料理写真を見て、「ちゃんと食べてもらえたなら、次も少しだけ考えてもいい」とのことです』

紬は、その一文を何度も読んだ。

次も少しだけ考えてもいい。

それは、承諾ではない。

約束でもない。

けれど、扉は閉じていない。

続いて、もう一件メッセージが届いた。

『森本さんからも返事が来ました。「次は、従業員にも販売ページを見せてから決めたい」とのことです』

紬は、スマートフォンを両手で持ったまま、しばらく動けなかった。

大成功ではない。

利益も小さい。

課題は山ほどある。

でも、次の話ができる。

そのことが、完売よりもずっと大きく感じられた。

信頼とは、一度で得るものではない。

拍手でも、称賛でも、完売の文字でもない。

次も話していい。

そう思ってもらえる余地を残すことなのかもしれない。

紬は、メモ帳を開いた。

『完売より、次も話せること』

そう書いた。

そして、少し考えてから、その下にもう一文加えた。

『成功は、広げる前に振り返れること』

窓の外には、夜の街が広がっていた。

藤堂物産を救うには、まだ何も足りない。

銀行に示す数字も、社員を安心させる材料も、まだ小さい。

けれど、紬はその小ささを、もう恥ずかしいとは思わなかった。

小さく始めたから、止まることができた。

止まることができたから、次の話が残った。

その事実だけは、確かだった。

紬は、完売報告書の表紙に手を置いた。

派手な勝利ではない。

でも、消してはいけない一歩だった。

その一歩を、次につなげるために。

紬は、もう一度ペンを取った。

社内向けの報告文の最初に、こう書いた。

『今回のテスト販売は完売しました。しかし、私たちはこれを成功と断言する前に、見えた負担と課題を共有します。』

書きながら、胸の奥に静かな緊張が戻ってくる。

それでいい。

喜びだけで終わらせない。

苦さも、手間も、不安も、次へ持っていく。

それが、今の紬にできる、社長としての小さな仕事だった。


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