第24章:追加販売の誘惑
田宮農園の野菜セットが完売したのは、翌日の午前十時四十三分だった。
販売管理画面に表示された残数が、二から一になり、しばらくしてゼロになった。
柚木は、その瞬間を社長室で見ていた。
画面の前で息を止め、それから小さく両手を握った。
「完売……しました」
その声は、喜びを抑えようとして、それでも抑えきれていなかった。
星野紬も、画面を見つめたまま胸の奥が熱くなるのを感じた。
田宮の畑で見た、少し曲がった大根。
土のついた人参。
「かわいそうな商品にはしないでほしい」と言った田宮の声。
それが、誰かの食卓へ届く。
その事実が、ただ嬉しかった。
「森本食品は?」
紬が尋ねると、柚木はすぐに画面を切り替えた。
「残り二セットです」
「問い合わせは?」
「累計二十八件です。FAQ修正後は、食品流通部への確認件数は減っています」
「倉庫の作業時間は?」
一ノ瀬が、社長室の端でノートパソコンを見ながら答えた。
「初日より改善しています。ただし、当初想定より一五パーセント増です」
「中止条件には?」
「達していません」
その言葉に、柚木の表情がさらに明るくなった。
販売数は上限に近づき、問い合わせは多いものの改善傾向にある。
倉庫の作業時間もまだ重いが、中止基準には届いていない。
数字だけを見れば、悪くない。
いや、かなり良い。
紬の胸にも、小さな高揚が広がった。
その時、美崎が社長室へ入ってきた。
手にはタブレットを持っている。
「星野さん。メディアから問い合わせが来ています」
紬は顔を上げた。
「メディア?」
「はい。地方商品を扱うウェブメディアと、ビジネス系ニュースサイトです。SNSでの反応を見て、今回のテスト販売について取材したいとのことです」
柚木の目が大きくなる。
「取材……」
一ノ瀬も画面から顔を上げた。
美崎は続けた。
「まだ大きな媒体ではありません。ただ、今受ければ、藤堂物産が再建に向けて動いていることを外へ示す材料にはなります」
その言葉に、社長室の空気が変わった。
再建に向けて動いていることを示す材料。
銀行が求めているもの。
社員が欲しがっている希望。
取引先が見ている継続可能性。
そこへ、この小さなテスト販売を示せるかもしれない。
「取材を受ける場合、森本さんと田宮さんの了承が必要です」
美崎はすぐに付け加えた。
「また、取引先を前面に出しすぎる形は避けるべきです。今回は、販売の結果よりも、現場と取引先の声を聞きながら小さく試しているという姿勢を伝える程度が安全です」
柚木は、タブレットを胸に抱えた。
「でも、今取り上げられたら、次に繋がりますよね」
その声には、抑えきれない期待があった。
「森本さんの商品ももうすぐ完売です。田宮さんの野菜も、もっと欲しいという声が来ています。追加販売を少しだけでもできたら、反応をもっと取れます」
紬は、柚木を見た。
彼女の気持ちは分かった。
自分が作り直し、現場に怒られ、取引先に直され、何度も削った案。
それがようやく届き始めている。
もっと届けたい。
もっと見てもらいたい。
それは自然な気持ちだった。
一ノ瀬が、静かに口を開いた。
「数字面だけで言えば、追加販売には検討価値があります」
その一言で、柚木が顔を上げる。
「現在の販売速度なら、上限を少し増やしても一定数は売れる可能性があります。銀行に対しても、需要の存在を示す材料になります」
紬の胸が揺れた。
銀行の冷たい椅子。
追加融資の条件。
具体的な売上見通し。
返済原資。
そのすべてが頭に浮かぶ。
今、追加販売ができれば。
数字を少しでも積めれば。
藤堂物産には可能性があると示せるかもしれない。
社員にも、ただ不安を我慢してもらうだけではなく、前へ進んでいるものを見せられるかもしれない。
「ただし」
一ノ瀬は続けた。
「検証条件を途中で変えることになります。追加するなら、森本さん、田宮さん、倉庫、食品流通部の了承が必要です。現場負荷を再計算し、中止条件も更新しなければなりません」
加賀が、壁際で腕を組んだ。
「それを今やるのか?」
声は低かった。
「完売しそうだから、取材が来たから、銀行に見せたいから。そうやって最初に決めた上限を動かすなら、現場はまた思うぞ。結局、上が都合よく増やすんだってな」
柚木の表情が少し曇る。
「でも、加賀さん。全部止める必要はないと思います。少しだけなら」
「少しだけ、が一番危ねえんだよ」
加賀の声に、少しだけ熱が入った。
「現場は、その少しだけを何度も飲み込んできた。少しだけ残業。少しだけ確認。少しだけ追加。少しだけ我慢。その少しが積もって、人が潰れる」
柚木は、言葉を失った。
紬も、何も言えなかった。
黒川の倉庫。
相沢の通常業務。
松永が守ってきた取引先。
森本の工場。
田宮の畑。
そのすべてに、少しだけの負担を積み増すことになる。
美崎が静かに言った。
「広報面でも、追加販売は慎重にすべきです。SNSで反応が出た直後に増やすと、話題性に乗って広げたように見えます」
「実際、話題性はあります」
柚木が小さく言った。
「あります」
美崎は頷いた。
「だからこそ、危険です。取引先の確認なしに広げれば、批判的な声が強くなる可能性があります。地方企業や農家を利用しているという見方に、材料を与えてしまいます」
社長室に、重い沈黙が落ちた。
進藤は、机の端に立ったまま、全員の言葉を聞いていた。
そして、紬を見た。
「星野さん」
「はい」
「選択肢は三つです」
進藤の声は、いつも通り静かだった。
「一つ。追加販売を行う。数字と反応は取れますが、現場と取引先への負担が増えます」
紬は頷いた。
「二つ。追加販売を完全に見送る。約束は守れますが、販売機会と数字の材料は失います」
柚木が、唇を噛む。
「三つ。追加販売はせず、次回検討のための希望登録だけ受け付ける。需要の把握はできますが、売上にはなりません」
「希望登録……」
紬は、その言葉を繰り返した。
「はい。購入希望者に、次回販売が決まった場合の案内を受け取れるよう登録していただく形です。ただし、次回販売を約束するものではないと明記します」
一ノ瀬がすぐに反応した。
「需要データとしては使えます。売上にはなりませんが、銀行向けには一定の関心があると示せる可能性があります」
美崎も頷く。
「広報的にも、追加販売を煽るよりは安全です。ただし、“次回販売予定”と誤解されないよう、文言には注意が必要です」
柚木は、まだ悔しそうだった。
「でも、それだと、今買いたい人には届けられません」
加賀が言った。
「全部の声に応えようとすると、最初に約束した相手を裏切ることになる」
柚木は、黙った。
その横顔には、葛藤がはっきり出ていた。
紬は、販売管理画面を見た。
田宮農園、完売。
森本食品、残り一。
アクセス数は増えている。
SNSでは、料理写真が少しずつ広がっている。
メディアから取材の話も来ている。
ここで動けば、もっと大きくできる。
胸の奥で、そんな声がした。
今がチャンスだ。
注目があるうちに。
数字を作れるうちに。
銀行に示せるうちに。
社員に希望を見せられるうちに。
その声は、甘かった。
けれど、その甘さの下に、別の声があった。
売れたら、増やしたくなるでしょう。
田宮の声。
販売時期は、先方の製造スケジュールを最優先にしてください。
森本の声。
通常業務を止めないという約束です。
黒川の声。
売れた数ではなく、増えた手間を見てください。
倉庫の記録表。
これ、一次対応で止めるって話でしたよね。
相沢の疲れた声。
最初に決めた上限を守ること。それができないなら協力できません。
松永の言葉。
紬は、ゆっくりと息を吸った。
「追加販売はしません」
声は大きくなかった。
しかし、社長室の空気がはっきり変わった。
柚木が、こちらを見る。
一ノ瀬は表情を変えない。
加賀は腕を組んだまま、わずかに目を細めた。
美崎は、すぐにメモを取り始めた。
紬は続けた。
「田宮さんにも、森本さんにも、倉庫にも、食品流通部にも、上限を守ると約束しました。売れたことを理由に、その約束を軽くしたくありません」
柚木の手が、タブレットの端を握りしめる。
「今、追加すれば数字は増えるかもしれません。でも、その数字のために、最初に話を聞いてくれた人たちの信頼を削るなら、それは再建の数字ではないと思います」
一ノ瀬が、ゆっくりと頷いた。
「では、希望登録の案で進めますか」
「はい」
紬は答えた。
「完売した商品には、追加販売ではなく、こう表示してください」
美崎がペンを構える。
紬は、言葉を選びながら言った。
「今回分は完売しました。次回販売については、取引先、現場、配送体制の検証を行ったうえで判断します。ご希望の方には、次回のご案内が可能になった場合のみお知らせします」
美崎が素早く書き留める。
「“次回販売をお約束するものではありません”も入れます」
「お願いします」
柚木が、小さく息を吐いた。
「悔しいです」
その声は、正直だった。
紬は、柚木を見た。
「私もです」
「本当に、今広げたいです」
「私も広げたいです」
「でも、増やさないんですよね」
「はい」
柚木は、しばらく画面を見つめていた。
森本食品、残り一。
その一件も、数分後には売れるかもしれない。
それでも、追加はしない。
柚木は目元を押さえ、それから顔を上げた。
「分かりました」
その声には、まだ悔しさが残っている。
けれど、逃げてはいなかった。
「希望登録のページ、すぐ作ります。ただ、次回販売を煽らないようにします」
美崎が頷く。
「一緒に文言を確認します」
一ノ瀬が言った。
「需要データとして登録数を記録します。銀行向け資料には、完売数と希望登録数を分けて記載します」
加賀は、短く言った。
「現場には俺から伝える」
紬は頷いた。
「お願いします」
進藤が、静かに言った。
「良い判断だと思います」
紬は、少し驚いて進藤を見た。
「ただし、難しい判断はここからも続きます。止まる判断をした以上、その理由を全員に説明してください。数字を逃したことに納得しない人もいます」
「はい」
「特に銀行には、売上機会を逃したように見える可能性があります」
「分かっています」
「それでも守る価値がある約束だったと、説明できるようにしてください」
紬は、背筋を伸ばした。
「説明します」
夕方、森本食品の商品も完売した。
柚木は、完売表示を出したあと、しばらく画面を見つめていた。
そこには、美崎と整えた文章が表示されている。
『今回分は完売しました。次回販売については、取引先、現場、配送体制の検証を行ったうえで判断いたします。次回販売をお約束するものではありませんが、ご案内が可能になった場合にお知らせを希望される方は、以下よりご登録ください。』
派手な完売御礼ではない。
追加販売決定でもない。
慎重で、少し硬い言葉だった。
けれど、紬にはそれでよかった。
完売したからこそ、軽くしない。
その姿勢を示す言葉だった。
まもなく、希望登録が入り始めた。
一件。
三件。
七件。
十件。
柚木は、今度は声を上げなかった。
ただ、静かに数字を記録していた。
「これ、売上じゃないんですよね」
柚木が言った。
「はい」
紬は頷いた。
「でも、声です」
柚木は、画面を見たまま少し笑った。
「声、ですか」
「次を考えるための声です」
その頃、加賀から連絡が入った。
黒川が、追加販売しない判断を聞いてこう言ったという。
『止まれるなら、次も話はできます』
その一文を見た瞬間、紬は胸の奥が熱くなるのを感じた。
派手な称賛ではない。
信頼されたわけでもない。
けれど、次も話ができる。
それは、今の藤堂物産にとって何より大切な言葉だった。
続いて、松永からも短いメッセージが届いた。
『森本さん、田宮さんにはこちらから完売と追加なしの方針を伝えました。二人とも了承しています。振り返りの日程を調整します』
紬は、そのメッセージを何度も読み返した。
了承。
それだけの言葉が、こんなに重いとは思わなかった。
夜、本社の小会議室で、簡単な共有が行われた。
柚木は完売数と希望登録数を報告し、美崎はSNSとメディア対応の状況を説明した。
一ノ瀬は、売上と作業負荷、問い合わせ対応時間を並べた速報値を出した。
加賀は、現場の反応を伝えた。
「黒川さんは、追加がないなら予定通り振り返れると言ってる。相沢は、FAQ修正後に食品流通部へ回る件数が減った点は評価してる。ただ、問い合わせそのものは多いから、次回やるならもっと準備がいる」
「はい」
柚木が、メモを取る。
「森本さんと田宮さんは?」
紬が尋ねると、松永がオンラインで答えた。
『完売は喜んでいました。ただ、二人ともすぐ次をやりたいという反応ではありません。まず、どんな声が届いたのか見たいとのことです』
「分かりました」
『田宮さんは、購入者の料理写真に興味を持っていました。森本さんは、説明文への反応を知りたいそうです』
美崎が頷く。
「感想を整理します。良い声だけでなく、批判的反応も含めて見せます」
松永は短く答えた。
『お願いします』
会議の最後に、一ノ瀬が言った。
「数字だけ見れば、追加販売しなかったことで売上機会を逃しました」
その言葉に、柚木が少し顔を伏せる。
一ノ瀬は続けた。
「ただし、検証としては条件を守った。作業負荷と問い合わせ件数も記録できた。希望登録という需要データも取れた。銀行向けには、慎重に進めていることを説明できます」
紬は、一ノ瀬を見た。
「ありがとうございます」
「評価はしていません。整理しただけです」
いつもの言い方だった。
けれど、紬には少しだけ柔らかく聞こえた。
会議が終わったあと、柚木が紬の横に立った。
「星野さん」
「はい」
「私、今日、追加したいって思いました。正直、かなり強く」
「はい」
「止められて、悔しかったです」
「私もです」
「でも、黒川さんの言葉を聞いて、少し分かりました。止まれるなら、次も話せるって」
柚木は、販売ページの完売表示を見ながら言った。
「次は、追加できる準備をしてから始めたいです。現場にも、取引先にも、ちゃんと相談して」
紬は頷いた。
「その時は、広げるための準備だけじゃなく、また止まる条件も一緒に作りましょう」
柚木は、少し笑った。
「はい」
社長室へ戻ると、外はもう暗かった。
販売管理画面には、森本食品も田宮農園も完売と表示されている。
その下に、希望登録の数字が静かに増えていた。
完売。
その二文字は、以前の紬なら勝利のように見えたかもしれない。
けれど今は、まだ途中の印にしか見えなかった。
売れた。
でも、現場は疲れた。
問い合わせは増えた。
SNSでは誤解も出た。
取引先は、次をすぐ決められる状態ではない。
銀行に出せる数字も、まだ小さい。
それでも、約束は守った。
上限を超えなかった。
勝手に話を大きくしなかった。
紬は、机の上の軍手に手を触れた。
汚れた布の感触が、指先に残る。
売れたことを理由に、約束を軽くしない。
その判断が正しかったのかは、まだ分からない。
けれど少なくとも、次も話はできる。
その小さな余地を残せたことだけは、確かだった。
紬は、メモ帳を開いた。
『売れた時ほど、約束を守る』
そう書いた。
そして、少し考えてから、その下にもう一文を加えた。
『数字より先に、次も話せる関係を残す』
ペンを置く。
窓の外には、夜の街が広がっている。
藤堂物産の再建は、まだ遠い。
けれど、完売の画面の向こうに、ほんの小さな道が見えた気がした。
その道は、勢いよく駆け抜けるものではない。
立ち止まりながら、振り返りながら、約束を確かめながら歩く道だった。




