第十一章
日が落ち闇の気配が辺りを包んでいた。
キング・ジムは煌々とした光を窓ガラスから外に放出していた。光に誘引される虫でも待っているかのようだった。
伊伏の車がビルの駐車場に止まると、幸都は助手席から飛び出した。
一刻を争う事態だ。凶人の伝染がこのジムから起こったとすれば、出入りした全ての人間に凶人への転化の可能性がある。
とにかく名簿を入手しなければならない。
自動扉の開く暇も惜しんで無理矢理ジム内に押し入った幸都は、受付の松平にくってかかる。
「名簿だ! このジムの名簿を押収する」
「名簿?」
相変わらず松平は、作り物の笑みを浮かべている。
「そんな物をどうするんです?」
幸都はジムの内部を見回す。
今の時間はすいているらしく、数人の女性が酒井の指導でダンスをしているだけだった。
「凶人伝染の可能性があるんだ。一刻を争う!」
「凶人? なんですかそれは?」
──だから凶人について発表すべきなんだ!
幸都は歯がみする。『凶人』の情報についてはまだ世の中に知られていない。公式に発表すれば深刻なパニックに陥るのが見えている。
『特務処理』係についても、存在を知る者は少ない。人権問題で弁護士達とやり合うのを避けているのだ。
だから先程、伊伏は目撃者の電子デバイスを取り上げた。ネットに画像をアップさせる訳にはいかない。まだ『人食いの凶人』を秘匿しなければならない。
「とにかく、名簿を渡して貰う」
「随分と強引ですね。刑事さん……」
いつの間にか酒井が幸都のすぐ近くにまで、やって来ていた。
「成る程」
遅れてジムに入った伊伏は、もう拳銃を抜いていた。
はっと幸都も気づく。嫌な雰囲気だ。
ギラギラとして明るい光が逆に白々しく、濃密な闇と同義に感じられた。
「お前たち……」
にかっと松平と酒井が白い歯を見せる。
「とっくに凶人に転化していたのか!」
幸都が拳銃に手を伸ばす前に、酒井が大きなダンベルを軽々と投げつける。
彼は屈んでそれをかわし、伊伏の方向から銃声が上がる。
「きゃあああ」何も知らなかったのだろう、若い女性達が叫び声を上げ逃げ惑い、キング・ジムは混乱の極みに陥った。
一般の客達がジムのあちこちを走り回り、勢いでフィットネスマシンが倒れていく。
松平と酒井の他にも凶人に転化した者がいたらしく、ショートカットの女性が他の女性に押し倒され、肩に齧りつかれていた。
その中で何とか拳銃を手にした幸都だが、筋肉の塊とも言い換えられる松平に、がしっと腕を掴まれた。
「へいっ! 刑事さん。筋肉に、一番良い食べ物を知っているかいっ?」
幸都の両手首を掴んだ松平は、かちかちと歯を鳴らす。
「人肉だよっ!」
二度銃声が鳴り、伊伏と対峙している酒井が踊るように彼の狙点から逃げていた。
「大衡、容赦するなっ!」
酒井がガラス扉をぶち破り外に出るが、伊伏は躊躇を見せず銃撃している。
幸都は構っていられない。
松平の白すぎる歯が、彼の肩まで届こうとしていた。
何とか逃れようと試みるが、幸都の力では松平の腕力を振りほどけそうになかった。
「くそっ!」
幸都は決心すると体を沈め、膝で松平の股間を蹴り上げた。
「ぐおっ」一瞬、松平の力が弱まる。
幸都は全力で拳銃を持つ右手首に絡みつく松平の手を引き離し、銃口を目前の凶人の鼻に向けた。
引き金を引く。
どがん、とSIG P226が振動し、9ミリの牙が発射された。
だが松平は首をふってその一撃をかわして、幸都に拳を突き出し、彼は背後に跳ぶ。
どがん、どがん、どがん。三発撃った。
松平は肩に一発受けたが怯まず、幸都に飛びかかる。拳銃が手から弾かれ、床でくるくる回った。
──まだある! もう一丁!
幸都が考えたのは腰のベルトにあるSIG P226だ。
凶人はとにかく危険な存在だ。だから常に『特務処理』官は二丁拳銃を下げている。
がつん、世界が揺れて歪む、松平に拳で殴られたのだ。
脳への衝撃に力が抜けた幸都の上に、松平が馬乗りになった。
「刑事を喰いたい……奈々ちゃんがよく言ってたな」
松平が唾液の糸を引いて口を開ける。酷い口臭に、幸都は吐き気を覚えた。
白すぎる松平の歯と、赤すぎる口腔が近づく。
──え? ここで喰い殺されるのか? 俺は……いやだ! 助けて恵麻っ!
幸都は一瞬、妻の美貌を思い出した。
「え、恵麻……」




