第十章
夕暮れ近くの街は混んでいた。帰路につく学生やらと何度もすれ違う。
七月のぬるい大気にまとわりつかれながら、幸都は走った。
逃げた方向はベランダから確認していたし、裸足でガラス片を踏んだ故の血の跡が点々と、奈々の逃げた先を雄弁に語っていた。
血の足跡は住宅街の裏路地に続いている。
拳銃を抜いている幸都は、それが電柱の影でしばらく足踏みしたと見て取り、辺りを見回す。
民家とコンクリート壁、静脈色のアスファルトの車道。
近い、彼の本能が赤く点滅している。
──どこだ? どこに潜んでいる?
伊伏が連絡したのだろう、遠くからパトカーのサイレンが近づいて来る。
「うわぁっ!」
どこかで悲鳴が上がり、幸都は地を蹴る。
奈々は意外と近くにいたらしい。すぐ横手の道路で数人の人だかりが出来ていた。
電信柱を背にした奈々が、高校生らしい少年の首を腕で捉え、包丁を突きつけている。
幸都は茫としている人々の間に分け入り、彼女に拳銃を向けた。
「きゃあっ」と彼の存在に気づいた者が、左右に離れる。
「人質を離せ」
銃口の先の小川奈々は柔らかく笑って、暴れる制服姿の少年を抑えている。
「いやよ、殺されちゃうわ」
奈々は華奢で小柄な女性だ。だが彼女により首もとに腕を回されている男子高校生が、どんなに抗ってもびくともしていない。
凶人の特徴の一つだ。
異常な身体的能力を発揮し、普通の人間を圧倒する。だから、『特務処理』係には『拳銃』が渡されている。
凶人との殴り合いは一方的に不利なのだ。
「離せ!」
奈々が男子高校生に何か囁いている。
──やばい、『伝染』させようとしているっ!
幸都は歯を食いしばる。どうやら奈々は彼を凶人にしようと『説得』しているらしい。
人質の顔から生気が抜け出すのを、幸都は感じた。すぐにでも辞めさせないと、『人食い』が一人増える。
だが彼女は油断なく、彼に人質の体の正面を向けていた。
幸都は迷った。人質を無視するか……どうやっても奈々だけを狙える射撃の腕は彼にはない。
銃声が轟いた。
奈々の腿に赤い穴が穿たれ、彼女は顔をしかめて傾ぎ、その瞬間を逃さず男子高校生は戒めから脱する。
幸都は盾がいなくなった奈々の驚愕した顔面を狙い、二回引き金を引いた。
奈々の頭部が弾け、くたりと体は青黒いアスファルトに沈む。
「きゃぁぁぁぁー」
誰かが叫んで辺りは騒然となるが、そこに折良くパトカーが到着する。
はあはあ、と荒い呼吸を吐きながら振り返ると、拳銃を抜いた伊伏がいた。
彼が奈々の脚を撃ち抜いたのだ。
「ここにいる全員を拘束しろ」
伊伏が拳銃をしまいながら警官達に命令し、幸都は怒りを閉じこめて問う。
「……人質に当たったらどうするつもりだったんだよ?」
「狙ったのは脚だ、命までは大丈夫だったさ」
伊伏は硬い表情で答えると、困惑している警官達に告げる。
「全員のスマホ、携帯を没収しろ。画像や動画を残すな……それと」
奈々の人質だった少年は、腰を抜かしたように座り込んでいる。
「彼に精神検査を……精神共感の兆候があれば隔離して入院させろ」
「……なんで分かったんだ? 小川奈々が怪しいと」
警官達が現場を目撃した人々を集合させている間に、幸都が伊伏に尋ねた。
「お前が上げた情報の時間だ。用事もないのに午後4時過ぎまで幼稚園に預けっぱなしはおかしい。そこから小川夏雄の勤務先を聞いて確認した」
幸都はここで胸の中にある苦痛に気づいた。
心の深奥が締めつけられているような感覚だ。
小川奈々は倒れている。
頭を幸都の9ミリ弾が吹っ飛ばした……彼女の死体の下には血と脳漿が飛び散っている。
──そうか……小川奈々を撃ったんだ……。
人を殺した。
「気にすることはない。これが仕事だ」
まだ拳銃の把を握り続けている幸都に、伊伏が言う。
「お前は間違っていない。小川奈々は凶人だ。ここで射殺するしかなかった」
だが幸都は、冷たい拳銃の感触を、どうしても手離せない。
──本当に、殺すしかなかったのか?
ここでもう一台パトカーが到着し、数人の制服警官と不機嫌そうな富永が降りる。
「おいおい、やっちまったのか? ダーティ・ハリー」
富永は警官達の前で大仰に肩をすくめた。
「お前らを逮捕するのがデカの役目だと、俺は思うんだが?」
「ボディ・カメラの映像を警部補殿に渡せ」
伊伏の凍りついた声に、幸都は胸ポケットのカメラからメモリー・スティックを抜く。
「富永警部補。証拠品としてこれを提出します」
富永は顔を赤と白に点滅させていたが、幸都の手からそれを引ったくった。
「不備があったら俺がワッパをかけてやる」
「なかったらあんたも『特務処理』係に来い」
伊伏の挑発に、富永の頬がぴくぴく痙攣した。
空気に一触即発の火薬が混じる。
「伊伏! 今はここでこんな事をしている場合じゃないっ!」と四肢に麻酔がかかったようなふわふわとした感覚に耐え、幸都は拳銃をホルスターに戻した。
「キング・ジムだ……被害者はキング・ジムで凶人と出くわしたんだ。すぐに行かないと……会員名簿を手に入れなければ」
幸都は胸のカメラに新しいメモリー・スティックを入れながら、目の前にある伊伏の覆面パトカーに乗った。
「加東にも連絡する……小川奈々の家周りも捜査する必要がある」
伊伏は片手に無線機を持ちながら黒塗りのレクサスを発車させ、怒りに目を見開く富永と、小川奈々の死体周りの騒ぎが一瞬で遠ざかった。




