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第14章 ジュナの卑劣な微笑み

 水夕は宝石箱の底にある写真を取り出し、じっと見つめていた。

 先程から数分間、そこに立ち尽くしたまま彼女は動かない。


 写真の中では、安登間武浪が気取りの無い笑顔を見せている。その首には、あのペンダントが掛けられている。

 それは、安登間が会社を立ち上げた時に、水夕が記念としてプレゼントしたものだ。

 結婚して初めてのプレゼントが、それだった。

 決して高価な物ではない。会社設立のために資金が必要だったため、その当時の2人は贅沢と無縁の生活を送っていた。

 だが、安物でも、安登間はとても喜んだ。

 水夕の気持ちが嬉しかったのだ。



 あの日も、安登間はペンダントを身に着けていた。

 彼が水夕の前から姿を消した日だ。

 会社を奪われた安登間は、生気を失ったかのようになっていた。それほどまでに、彼は持っている情熱の全てを会社に懸けていたのだ。

 安登間がずっと家に引き篭もったまま、1週間が過ぎていった。

 そんな彼を水夕は励まし、そして慰めた。

 「また最初から始めればいいのよ。私も応援するわ」

 そんな風に声を掛け、あえて明るく振舞うことで安登間を元気付けようとした。


 「気分転換に、どこかへ出掛けましょうよ」

 その日、水夕はそう言って、半ば強引に安登間を連れ出した。

 安登間は何の表情も無いまま、水夕に付き従った。

 水夕は安登間と共に映画を観賞し、カフェでランチを食べ、水族館へ連れて行き、公園に出掛けた。食べながら、歩きながら、積極的に話し掛けた。

 そうすることで、安登間の閉じてしまった心を開かせようと懸命だった。

 だが、その夜、安登間は姿を消してしまった。

 水夕が入浴している間に、家を出て行ってしまったのだ。


 机の上に、水夕は印鑑が押された離婚届を見つけた。

 その横には、

 「すまない、俺は遠くへ行く。どこかで静かに生きていくつもりだ。探さないでくれ」

 と書かれた置き手紙が残されていた。

 もちろん水夕は必死に探し回ったし、警察にも捜索願を出した。

 だが、安登間の行方は分からなかった。そして、二度と戻らなかったのだ。



 (どうして彼は、自分の前から消えてしまったのだろう)

 水夕には、今でもハッキリとした理由が分からない。

 彼が強いショックを受けていたことは分かる。だが、そのことと、自分の前からいなくなることが、頭の中で上手く連結してくれない。

 いや、ひょっとすると、結び付けたくないのかもしれない。


 (あの時の自分の言動は、正しかったのだろうか)

 写真を見つめながら、そんなことを水夕は思う。

 それは、今になって初めて思ったことではない。彼が消えた直後から、ずっと思っていたことだ。

 明るく振舞った態度が、元気付けようとした励ましの言葉が、逆効果になって彼を追い詰めてしまったのかもしれない。自分が違う言動を取っていれば、彼は失踪しなかったかもしれない。

 なぜ消えたのか安登間に問い質したい気持ちと、自分を責める気持ちが、水夕の中で深い濁流を形成していた。


 吐息を小さく吐き出し、水夕は写真を宝石箱にしまい込んだ。

 いつの間にか潤んでいた瞳を、彼女はそっと拭った。


 「女性の涙は美しいですね」

 突然、背後で男の声がした。

 パッと振り向く水夕。

 そこに、抹茶色の法衣を着たサングラスの男が立っていた。

 ジュナである。

 「だ、誰ですか?いつの間に、どこから入って来たんです?」

 水夕は顔を引きつらせ、硬直した。

 「悲しみであれ、喜びであれ、女性の涙は美しいものです」

 質問に答えず、自分の世界に陶酔しているかのようにジュナは言った。

 そして、そこまで言い終わると、彼は真っ直ぐに水夕の目を見つめた。

 水夕はゾクッとした。サングラスで相手の瞳は見えなかったが、吸い込まれるような気がした。

 だが、それは魅惑という類のものではない。暗黒に満ちた恐怖の渦に落ちていきそうな、そんな感覚だった。


 「あなたが水夕さんですね。間近で見ても、人間にしては相当の美しさだ」

 ジュナは、感嘆の言葉を漏らした。

 「あ、あの、どなたですか」

 声を震わせ、水夕は尋ねる。

 本当なら、今すぐにでも逃げ出したいぐらいだった。

 だが、体が固まって動けないのだ。

 「そうですね、自己紹介ぐらいはしておきましょうか」

 ジュナが穏やかに言う。

 「私はジュナ。貴方を迎えに来たのです」

 「迎えに……?」

 「ええ。私の周囲で、少し困ったことが起きていましてね。その問題を解決するために、貴方の助けが必要なのですよ」

 「それは、どういったことですか」

 必死に恐怖心を制御し、水夕は気丈に尋ねた。話している間に、少しずつ硬直も解け始め、体の自由が戻ってきた。


 「私には、ある場所で会いたい相手がいるのです。しかし、相手が無条件で来てくれるはずがない。そこで貴方に協力してもらい、その人物を呼び出そうというわけです」

 水夕は動揺で機能低下している脳を必死に回転させ、ジュナの抽象的な説明を読み取ろうとする。

 だが、冷静に考えようとすればするほど、逆に頭が混乱してしまう。

 水夕の焦る様子を見て取ったジュナは、艶然と微笑した。

 「可愛い人だ。では、もう少し分かりやすく言いましょうか」

 ジュナが説明を始めようとした時、玄関のインターホンが鳴った。

 「おや、もしかすると御主人が帰って来たのではありませんか」

 どこか嬉しそうに、ジュナが言った。


 水夕は逃げ出すように、廊下へ出ようとした。

 その途端、ジュナが立ちはだかり、フッと軽く息を吹き掛けた。

 「ひっ」

 水夕は小さな悲鳴を上げた。

 ジュナの吐息は、まるで氷点下のように冷たかった。

 息を受けた水夕は腰が抜け、その場にへたり込んでしまった。

 恐怖や驚きによるものではない。ジュナの吐息が持つ特殊な力が引き起こした現象だ。

 そのまま、水夕は立てなくなった。

 立ち上がろうとしても、体が言うことを聞かないのだ。


 ジュナは水夕に優しく語り掛けた。

 「大丈夫ですよ、貴方が行かなくても」

 そう言って、彼は左の人差し指を廊下に向けた。すると、指先から小さな虹色の玉が飛んだ。

 それは玄関へ辿り着き、ドアに当たった。その途端、ドアはパッと閃光を放ち、勝手に開いた。

 ドアの向こう側に、呆気に取られた様子の原田がいた。

 何が起きたのか分からず、彼はあんぐりと口を開けて立ち尽くしている。


 「原田さん、早く入って来てくれませんか。こちらにも都合がありますので」

 ジュナは、玄関に向かって呼び掛けた。

 弾かれるように、原田は我に返り、急いでリビングへ向かった。

 ジュナの姿を見て、原田の顔が強張った。

 「お前は!」

 水夕とジュナを交互に見て、原田の表情が怒りに変わる。

 「ここで何をしているんだ」

 原田はジュナの胸倉を掴んだ。

 ジュナは慌てず騒がず、スッと右手の人差し指で原田に触れた。

 「うっ」

 原田の顔が苦痛に歪み、その場にヘナヘナと崩れ落ちた。

 尻餅を突いた体勢のまま、彼は金縛りに遭ったように動けなくなった。


 「俺に何をした?」

 原田は脂汗をかきながら、強気に尋ねた。

 「少しの間、おとなしくしてもらいたいと思いましてね。今は、水夕さんに大切な話をしているところですから」

 「俺に捜査をやめさせたいのか。そのために、こんなことまでするのか」

 「捜査?何を愚かなことを」

 ジュナは嘲笑した。

 「貴方の捜査など、止める価値もありません。いや、貴方そのものに価値が無いのです。私が必要としているのは、貴方の奥様ですから」

 「水夕が必要?」

 「そうです。今も説明の途中だったのですが、ある場所に標的を誘い出す計画を立てているのですよ」

 「その標的とは、ガルティラーマのことか」

 原田が鋭い口調で聞いた。

 「ええ、そうです」

 ジュナはうなずいた。


 「そこで彼女には、囮になってもらいたいのですよ」

 「えっ?」

 「つまり、人質ですね」

 何食わぬ顔でジュナは言った。

 「おい、ふざけるなよ。そんなことは絶対に許さんぞ」

 「許可を得るつもりはありませんよ。勝手にやらせていただきます」

 「させてたまるか。俺の妻には指一本触れさせないぞ」

 「勇敢な言葉ですが、行動は伴いませんね」

 見下したようにジュナが言う。

 「くそっ、こいつめ」

 必死に力を入れて立ち上がろうとする原田だが、無駄な足掻きだった。


 「だが、なぜだ。なぜ水夕なんだ」

 原田が疑問を投げ掛けた。

 「何も知らないのですか、ガルティラーマと水夕さんの関係を」

 「いったい、何の話なの?私が何かしたの」

 水夕は全く事情が把握できず、困惑した表情を浮かべた。

 「奴と水夕に、どんな関係があるというんだ」

 原田はジュナを睨み付けた。そこには強い怒りがあったが、わずかながらも別の感情が混じっていた。

 それは、気になっていた謎が解き明かされるという期待感だ。

 「いいでしょう、教えて差し上げましょう」

 ジュナは、サングラスのフレームを指でなぞりながら告げる。

 「あの男は……」


 言い終わる前に、部屋の隅で異変が生じた。

 ジュナは言葉を中断し、そちらを向いた。原田と水夕も、視線を向けた。そこには黒い穴が出現し、一気に膨張した。

 暗黒の中から、ガルティラーマがヌウッと現われた。

 瘤の様に膨れ上がった肩から、蒸気が放出されている。

 黒い穴を消し、彼はジュナを見据えた。

 「この夫婦に、手を出すな」

 重厚な口調で、ガルティラーマが言った。


 「ちょうど良いところへ来てくれました」

 ジュナは平然とした態度を崩さない。

 「いっそのこと、自分の口から言ってあげたらどうですか。貴方と水夕さんの関係を」

 「……関係など、何も無い」

 あえて水夕と目を合わさないようにしながら、ガルティラーマは言った。

 水夕は初めて見る怪物の姿に、ただ呆然としていた。

 だが、ジュナを見た時と違い、不思議と恐怖心は感じていなかった。自分でも、なぜなのかは分からなかった。


 「ほう、無関係だと言い張りますか」

 口の端を歪め、ジュナが嫌味っぽく微笑した。

 「この夫婦は何の関係も無いはずだ。巻き込むな。これは俺とお前の戦いだ」

 「確実に勝利するためには、私が有利になる場所に貴方を誘う必要がありましてね。それには、彼女の協力が必要だと思ったものですから」

 「手を出すな。この人達は自由にしてやれ。そうすれば、お前の望む場所に無条件で行ってやる。それでいいだろう?」

 「そうですか、それは有り難い申し出です」

 ジュナは、満足そうにうなずいた。

 「貴方が来てくれるのでしたら、人質は要りません。でしたら、この夫婦は解放してあげましょう」

 そう言って、ジュナは額の前で指をパチンと鳴らした。すると、原田と水夕の体に自由が戻った。

 2人は体を見回し、呪縛が解けたことを自覚した。


 「では、この扉を通って来てください」

 ジュナは右手を壁に向かってかざした。すると、そこに長方形の穴が出現した。

 穴はまばゆい輝きを放っており、向こう側は全く見えない。

 「それではガルティラーマ、私は先に行って待っています。貴方は、その女性に別れの挨拶でもしてはいかがですか。私に殺されて、二度と会えなくなるでしょうからね」

 不敵な笑みを浮かべ、ジュナは光の扉をくぐって消えた。


 後に残った3人の中で、最初に声を発したのは原田だった。

 「すまんな、ガルティラーマ。また助けてもらった」

 原田は頭を下げた。

 「お前のおかげで、水夕も無事に済んだ」

 「いや、礼は要らない」

 ガルティラーマは首を横に振った。

 「むしろ、こちらが謝るべきだ。俺のせいで巻き添えにしてしまった」

 「あの……」

 ためらいがちに、水夕が声を発した。

 彼女は立ち上がり、ガルティラーマに一歩近付いた。

 ガルティラーマは、意識的に目を逸らした。


 「貴方は……誰?」

 静かに、水夕が尋ねた。

 だが、真っ直ぐな問い掛けに、ガルティラーマは何も答えようとはしなかった。

 「もう行かねば」

 まるで逃げるように、ガルティラーマは光の扉へ歩み寄ろうとした。

 それを見た原田が、大きな声で呼び止めた。

 「待て、待ってくれ」

 彼の中では、ある推察が確信に近付いていた。信じ難い答えではあるが、そこから心が離れない。原田は、それを確かめようとした。

 「もしかして、お前の正体は安登間……」

 「言うな!」

 哀しみの目を持つ怪物は、遮るように叫んだ。

 そして彼は、静かに言い添えた。

 「俺の名は、ガルティラーマだ」

 それは、彼が初めて怪物としての呼称を自ら名乗った瞬間だった。


 「だったら、あのペンダントはどういうことだ」

 原田が納得せず、問い詰める。

 「お前が持っていたのは、安登間武浪のペンダントだろう」

 「……安登間武浪は、もう死んだ」

 「えっ?」

 水夕が驚きの声を漏らした。

 「俺が奴を殺した。もう安登間武浪という男は、この世には存在しない。死んだのだ」

 ガルティラーマが、感情を殺して言った。

 ある意味では、間違っていない言葉だ。


 「殺した……死んだ……」

 当惑と動揺の中で、水夕がつぶやいた。

 ガルティラーマは水夕に背中を向け、吹っ切るように言った。

 「もう安登間武浪のことは忘れるんだな。奴は既に地獄の住人となったのだ。恨みたければ、存分に俺を恨むがいい。俺は残酷な殺人者だ」

 それからガルティラーマは、何か言いたげにしている原田へと近寄った。

 そして耳元で、そっと囁いた。

 「彼女を幸せにしてやれ」

 原田の表情が、ハッと変わる。

 「しかし、お前は」

 「俺には、やるべきことがある」

 言い終わると同時に、ガルティラーマは光の扉に飛び込んだ。

 彼の体が光に包まれ、扉はスッと消滅した。

 しばしの沈黙が、後に残された。



 ガルティラーマを見送った原田と水夕は、どちらからともなく顔を見合わせた。

 「あのガルティラーマという人を、前から知っていたの?」

 先に、水夕が口を開いた。

 抑揚に欠けた、静かな口調だった。

 「……ああ」

 いかめしい表情で、原田は短く答えた。

 「武浪さんを殺したって、言っていたわ」

 水夕の言葉は、愁いを帯びていた。

 「……そうだな」

 「じゃあ、悪い人なのね」

 「そういうことに、なるかもな」

 原田は痛切の思いで、そう答えた。

 ガルティラーマの意思を汲むためには、本当のことを言うべきではないと考えたのだ。


 すまんな。

 心の中で、原田は詫びた。

 お前の気持ちは、しっかりと受け止めた。俺は必ず水夕を幸せにする。

 だから死ぬなよ、ガルティラーマ。

 いや、安登間武浪よ。


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