第13章 心を侵食していく疑惑
澄み切った青空が広がる、気持ちの良い朝だった。
だが、原田の心は一向に晴れなかった。
彼の家にも、彼と水夕がいるダイニングにも、晴れやかな朝は訪れていた。
だが、原田の心にだけは届いていなかった。
テーブルの向かいに座った水夕は、朝食のハニートーストを口に運んでいる。
そんな彼女の顔を見つめたまま、原田はしばらく動きが止まっていた。
「どうしたの?」
「えっ?」
水夕に声を掛けられ、原田はハッと我に返った。
「私の顔に何か付いてる?」
「いや、なんでもない。少し考え事をしていただけだ」
原田は取り繕うように、グラスに入ったオレンジジュースをグビグビと飲んだ。
「それならいいけど」
そう水夕は言ったが、彼女は原田が嘘をついていると見抜いていた。
きっと何かあるのだ。
ここ最近、原田の様子がおかしいことには気付いていたが、2日ほど前からは気に掛かる態度が増した。
それまでは自分の中で何かを抱え込んでいる様子だったが、何か言いたそうにする素振りが見えるようになった。だが、結局は何も話そうとしなかった。
そして今朝もまた、同じような態度だ。
しかし水夕は、無闇に詮索することを避けた。本当は相談して欲しかったが、それが仕事の問題であれ、私的な悩みであれ、原田が自主的に話してくれるまで待とうと思った。
どちらかと言えば原田は寡黙なタイプだが、自分だけで抱え切れなくなった時は、必ず打ち明けてくれると彼女は信じていた。
原田はグラスを置き、口からこぼれそうになったオレンジジュースを拭った。
本当のところ、原田には今すぐ水夕に尋ねたいことがあった。
それは、彼女の別れた夫のことだ。
原田は水夕から、かつて夫がいたことは聞かされていた。だが、その男の詳細や別れた経緯などについては、何も聞いていなかった。名前さえも知らなかった。
「もう終わったことだから、気にしないで」
と水夕が言い、話したがらなかったのだ。
そして原田も、深く追及することは無かった。過去は過去、自分達に大切なのは未来だと思ったからだ。また、惚れた女の過去をほじくり返すのは、あまり格好の良い行為ではないという考えも彼の中にはあった。
だから今までは、そのことを考えないよう努めてきた。
水夕の元夫について、全く気にならなかったといえば嘘になる。愛する女のことを知りたいという気持ちはあったし、少なからず嫉妬心もあっただろう。
その気になれば、調べることは難しくなかった。
何しろ、原田は刑事なのだ。
だが、本人が言わない過去を、職業を利用して調べることは、彼女に対する裏切り行為になると原田は思った。その誘惑にかられたこともあったが、しっかりと自制心が働いた。
しかしペンダントの一件があってから、自制心は急激に弱まった。
原田は役職を利用し、水夕の別れた夫について調査した。
彼は罪悪感を消すために、
(これは彼女の過去を探る行為じゃない。事件や怪物を調べるために必要なんだ)
と心の中で自己弁護した。
すぐにデータは得られた。
水夕の元夫は安登間武浪。5年前までITベンチャー企業で社長を務めていたが、部下によるクーデターのような形で解任されている。その後は行方不明となっており、現在の消息は分からない。
原田は得られたデータから、推理を組み立てようとした。
ガルティラーマは、安登間武浪の物と思われるペンダントを持っていた。ということは、あの怪物と安登間には何か接点があるということだ。
接点の中身について、最初に原田が考えたのは、ガルティラーマが安登間を殺害し、戦利品としてペンダントを奪ったという可能性だった。
だが、その推理は、心に浮かんですぐに消去された。ガルティラーマが、殺した相手の所有物を強奪するような輩には思えなかったのだ。彼は強奪が目的ではなく、別の理由で殺しを続けているはずだ。
原田は、別の推論に辿り着こうとした。ガルティラーマと安登間は、何かの仲間なのかもしれない。常人の想像を超えた恐るべき組織が存在し、そこにガルティラーマと安登間が属しているのか。もしくは、ガルティラーマを動かしているのが安登間なのか。
しかし、どれだけ頭脳を回転させても、しっくり来るような推論には至らなかった。
考えに考えた結果、安登間という男の存在が頭の中で大きくなっただけだった。
(いったい安登間武浪とは、どういう人物なんだ?)
原田の脳内に、その謎が張り付いた。
ただの会社経営者が、どうやって異形の怪物と接点を持ったのか。どれだけ安登間について調べても、その繋がりは見えなかった。きっと失踪してから現在までの間に何かあったのだろうと、原田は思った。だが、その「何か」の具体的な内容は全く分からない。
安登間について、原田は水夕に質問したかった。どういう男だったのか、怪奇現象などに興味は無かったか、何か不可思議な行動は見せなかったか、交友関係で怪しげなことは無かったか。色々なことを聞きたかった。
だが、それは聞くべきことだろうか。本当に、聞いていいのだろうか。そのことが、夫婦関係に微妙な影を落とす結果に繋がらないだろうか。
原田は葛藤した。怪物に対する探究心と、水夕との幸せな生活を持続させたい気持ちが、激しくぶつかった。
グラスを置いた原田の手は、また動かなくなっていた。
「あのな、水夕」
ためらいながらも、原田は口を開いた。
思い切って尋ねてみようと、決意を固めたのだ。
「何?」
水夕が顔を向ける。
何も疑うことの無い純真な瞳が、原田を見つめた。
原田は心の中で、激しく動揺した。彼は逡巡した。そんな彼女に、本当に安登間のことを質問すべきなのだろうか。それが彼女を傷付けることにならないだろうか。
決意は、あっさりと崩壊した。
「その……今、幸せか?」
原田の口を突いて出たのは、そんな言葉だった。
なぜそんなことを言ったのか、自分でも分からなかった。
「いやだ、急に変なこと言わないでよ」
水夕はプッと吹き出した。
「どうしたの、冗談なんて言うタイプじゃないのに、珍しいわね」
「いや、それは……」
上手い言い訳が見つからず原田が困っていると、水夕が言った。
「ええ、幸せよ」
一片の曇りも無い、ハッキリとした言葉だった。
水夕は、屈託の無い笑顔を原田に向けた。
その顔を見て、もう原田は何も聞けなくなった。
***
俺は最近、不安に襲われている。
それは、スカーヴァティーとの戦いにおける不安ではない。
水夕とも関係が無い。
不安の中身は、自分自身のことだ。
長くガルティラーマとして行動している内に、俺は怪物であることに慣れつつある。ガルティラーマと呼ばれても、非人間扱いされても、特に何も感じなくなってきているのだ。
いつしか、俺は自分が人間だということを忘れてしまうのではないか。
人間の魂を失ってしまうのではないか。
それを、俺はひどく恐れている。
俺の名前は安登間武浪。
安登間武浪、安登間武浪、安登間武浪。
心の中で、俺は唱えた。
安登間武浪、それが俺の名前だ。忘れるな、絶対に忘れるな。俺は人間だ。
今までは、ペンダントが自分の魂を人間に繋ぎ止めるための役割を果たしていた。いわば、お守りのような存在だった。だが、それは失われてしまった。
わざわざ原田の元へ行って、取り戻すつもりは無い。それは適切な行動とは思えない。
取り戻しに行けば、それが俺にとって大切なものだと奴は確信するだろう。原田が水夕からペンダントのことを聞いていたら、そこから勘繰りが入る可能性が高い。下手をすると、俺の正体に気付かれてしまうかもしれない。
そんなことは、絶対に避けねばならない。
きっと、あのペンダントは俺の手元から離れる運命だったのだ。これは、俺に与えられた試練なのだ。そのように俺は考えることにした。
ペンダントが無くなっても人間の魂を忘れてしまわないかどうか、それを試されているのだと。
俺は大丈夫だ、そんなものに頼らなくても、人間であり続けることは出来る。
そうだ、大丈夫だ。
「何をブツブツと言っているんだ?」
ダクーラが薄笑いを浮かべながら、住処に現れた。
「なんでもない」
俺はぶっきらぼうに言った。
「まあ別にいいが。しかし、さすがだな。もう傷が癒えたか」
ダクーラは、俺の体を舐め回すように眺めながら言った。
彼の言う通りで、シンバンドゥーとの戦いで負傷した肉体は、もう完全に回復していた。人間では有り得ない回復力の早さだ。
認めたくはないが、それに関しては怪物の肉体に感謝せねばなるまい。
「ところで、ヤマ殿下と会ってきたぞ。お前のことで、色々と話をしてきた」
ダクーラが話題を変えた。
「どんな話だ?」
「無論、スカーヴァティーとの問題についてだ。今度はジュナが自ら乗り出してくるのだから、厳しい戦いになるだろう」
「それがどうした。どうせ戦うのは俺で、お前やヤマラージャには無関係だ」
「そんな言い方をするな。我々だって、心配はしているのだ。場合によっては、後方支援もあるとヤマ殿下はおっしゃって下さった」
「……」
俺は沈黙のまま、ダクーラを凝視した。その言葉に嘘が無いかを見抜こうとしたのだ。だが、相変わらず腹の読めない男だった。
「どんな後方支援かは知らないが、あまり期待せずにいるとしよう」
俺は視線を外した。
「しかし、ジュナはどんな手を使ってくるのか。さすがに本気で掛かってきているだけあって、向こうの動きが全く掴めないな」
ダクーラは腕を組んで言う。
「どんな手を使って来ようが、戦うことに変わりは無いんだ。どうだっていいさ」
そこで言葉を区切り、俺は再びダクーラを見やった。
「それよりも、気になっていることがある」
「なんだ、言ってみろ」
「凶悪犯と認定されない人間は、死んだらスカーヴァティーに行くんだな?」
「ああ、今のところは、そうなっている」
「それならば、水夕が寿命を迎えて死んだ後は、スカーヴァティーへ行くことになる」
「その通りだ」
「だが、ジュナのような糞野郎や、奴を従えているアミターバがいるような場所に行くことが、本当に幸せなのか。死んだ人間の行き先として、他の選択肢は無いのか」
「そんなことを気にしていたのか」
ダクーラは、取るに足らないことだといった表情を見せた。
「ジュナやアミターバ様がどうであろうと、スカーヴァティーが平穏で健やかに暮らせる場所であることは間違いない。統治者に問題があっても、あそこは幸福の土地だ。心配するな」
「その言葉、信じていいのか?」
「私を信じるかどうかは、こちらの問題ではなく、お前の問題だ」
下駄を預けられて、俺はしばし黙り込んだ。
だが、真偽を確かめる方法が無い以上、信じるしかない。死んだ人間の行き先が2つしか無いのなら、地獄が恐ろしい場所なのだから、対極にあるスカーヴァティーは幸せの土地なのだと信じよう。
「心配事が無くなったか。これで、何も気にせずジュナとの戦いに挑むことが出来るな」
「……いや、もう1つ心配事がある」
俺は静かに言った。
どうしても、ダクーラに言っておかねばならないことがあった。
「まだあるのか」
「俺はジュナとの戦いで、殺されるかもしれない」
「勝つ自信が無いのか」
「あるとは言えない」
俺は正直に吐露した。
シンバンドゥーが相手でも、かなりの苦戦を強いられた。その上に立つ存在なのだから、ジュナはもっと強いはずだ。
そんな相手に必ず勝てると考えるほど、俺は自信家ではない。そして負けるということは、すなわち死を意味する。
「それで、ジュナに殺されることが心配なのか」
「いや、そうじゃない」
俺は首を横に振った。
「心配なのは、死んだ後のことだ」
「死んだ後?」
「だからダクーラ、頼みがある」
「言ってみろ」
「もしも俺が死んでも、水夕に関する契約を守り続けてくれないか。水夕に病気を戻さないでほしいんだ」
「なるほど、そういう頼みか」
ダクーラは納得したようにうなずいた。
「だが、契約は基本的に、相手が死んだ時点で無効となるものだ」
「そこを曲げて頼んでいる。俺は今まで、お前の指示に従って任務を遂行してきた。スカーヴァティーとの戦いにも立ち向かっている。それ相応の仕事はしてきたつもりだ」
「ああ、お前は良くやってくれている」
「ジュナと戦って死んだとしても、お前やヤマラージャの希望に従って行動した結果だ。だから、契約は続行してくれ。頼む」
俺は頭を下げ、懇願した。
「その頼みは、受け入れられないな」
ダクーラは淡白に言った。
「まあジュナと相討ちで死んだ場合は、例外として契約続行を考えてやらなくもないが。しかし基本的に、お前が殺された時点で契約は打ち切りだ」
「俺がここまで頼んでも、駄目なのか」
「それを承諾したら、お前は戦いに際して手を抜く可能性がある。もう自分は死んでも構わない、こんな姿で処刑係を続けるぐらいなら死んだ方がマシだと考え、わざと負けるかもしれない」
「そんなことはない」
俺はキッパリと言った。
「本当に、そうかな?」
ダクーラは含むように笑った。俺の言葉に嘘があると思っているのだろう。
その読みは、完全に外れているわけではなかった。心のどこかに、今後も契約が守られるなら死んでも構わないという気持ちがあることを、全否定は出来ない。
「何を言っても、俺の頼みは承知してもらえないのか」
俺は、改めて尋ねた。
「くどいな。頼みは却下する。死んだら契約も終わりだと思えば、お前も必死になって戦うだろう。そうすれば、意外と良い結果が出るかもしれんぞ」
「くっ……」
俺は歯軋りをした。
怒りはあるが、どうしようもない。向こうの方が立場的には強いのだ。こちらは、お願いして何とかしてもらう他に無い。そして、それが却下されたら、もう諦めるしかない。
「俺はな、ガルティラーマ、お前に期待しているんだよ」
ダクーラは、やや弾むような口調で言う。
「予想以上に、お前は優れた能力を発揮している。だから、ジュナに勝てるチャンスは充分にあると思っているのだ」
「お前の期待など、何の後押しにもならん」
「そう言うな、ガルティラーマ」
「俺の名前は安登間武浪だ!」
怒りを放出し、俺は声を荒げた。
だが、ダクーラがどう思おうと、ともかくジュナと戦い、そして勝たねばならないということだ。
やってやるさ。
それしか無いのなら、やってやる。
俺は腹を括った。




