第11章 神に疎まれし野獣の咆哮
おぼろげな月が浮かぶ夜。
原田は考えを巡らせながら、帰路に就いていた。
廃校での事件に関しては、原田が予想した通り、王浄署の捜査が進展している気配は見られない。犯人が怪物だという考えに至らないからなのか、それとも何かしらの圧力でもあるのか。
原田も今回は、最初から怪物のことを語らなかった。たまたま私用で近くを通り掛かり、悲鳴が聞こえたので行ってみたら死体が転がっていたと嘘の証言をした。
自然な説明とは言い難いが、怪物がヤクザを殺したと語るよりはマシだろうと思ったのだ。
捜査が進展しようがしまいが、もはや原田にとってはどうでも良いことだった。仮に警察が動いたところで解決できるレベルに無いことを、既に原田は理解していた。
それに、彼が事件を追うのは、警察官としての使命感や正義感によるものではない。本人も明確には説明できないが、あえて言うならば心のわだかまりを晴らしたいのだ。
ガルティラーマに言われたように、命に危険が及ぶことがあるかもしれない。だが、なぜか手を引く気にはなれなかった。
(ひょっとすると俺は、あのガルティラーマという怪物に少なからずシンパシーを抱いているのかもしれない)
原田は、そんなことを思ったりする。
最初に遭遇した時に見た、哀切を感じさせる目。
そして、講堂での人間味を感じさせる言葉。
奴は、ただ凶暴なだけの怪物ではない。何か秘められたものがあるはずだ。
講堂で、ジュナという男が「愛する人のための自己犠牲」という言葉を口にした。
もしもガルティラーマが自分の意思に反して殺戮を続けているのならば、助けを必要としているのではないか。
そんなことを考えながらも、しかし具体的に何をどうすれば良いのかは分からないまま、いつの間にか原田は自宅のある通りに入っていた。
その時、彼の思考は、ドスッという鈍い音によって遮断された。
さほど大きな音ではなかったが、原田の耳はそれを鋭敏にキャッチした。
その音は、眼前の住宅建設予定地から聞こえてきた。
見ると、鉄の棒が土へと斜めに突き刺さっていた。
(どこからか落ちてきたのか?)
原田は不自然さを感じ、それとなく周囲を見渡した。
そして上に向けられた原田の視線は、ある方向でピタッと止まった。
彼の目は、遠方の情景に釘付けとなった。
「あれは……」
原田が緊迫の声を漏らす。
「ガルティラーマ……」
雑居ビルの屋上で、怪物が別の怪物と対峙していた。
***
水夕を眺めている時、ガルティラーマが原田に発見されることは、通常ならば有り得ない。
完璧に闇と同化しているし、大きな物音を立てることも絶対に無い。
今までは、全く気付かれずに水夕を観察してきたのだ。
だが、癒しと安らぎの場に、乱入者が現われた。
ジュナである。
突然、彼は背後に現れた。気配に気付き、ガルティラーマは振り向いた。腹這いだった彼は、中腰になって体を反転させた。
「何しに来た?」
ガルティラーマは抑制したトーンで尋ねた。
「もちろん、貴方に会いに来たのですよ」
楽しそうにジュナが言う。
「どうやって誘い出そうかと思っていたのですが、誘い出すまでもなく、ここに来れば簡単に会えたのですね」
「なぜ、ここが分かった?」
「処刑の標的がいる場所以外で、貴方が現れそうな人間界のポイントといえば、愛する女性の所かと思いましてね。確信があったわけではないのですが、試しに調べてみたところ、大当たりだったというわけです」
「俺を殺しに来たんだな」
ガルティラーマは、眼光鋭く敵を見据えた。
「残念ながら交渉が決裂しましたからね。こちらとしても、黙っているわけにはいかないのですよ」
「やはり俺が睨んだ通り、性根のドス黒い奴だったということか」
「私は清らかですよ。だから清らかさを守るために、ドス黒いものを排除したいのです」
「ほう」
ガルティラーマは半身の態勢を取り、相手の攻撃に備えた。
「いえいえ、私は戦いませんよ」
ジュナはガルティラーマの心を読み取り、微笑しながら首を振った。
「貴方は弱くはありませんが、私が出るほどのこともないでしょう。そこで、ペットのシンバンドゥーを連れて来ました」
「シンバンドゥー?」
低く言ったガルティラーマの目の前で、ジュナは右手の人差し指と親指をシュッと擦り合わせた。
すると指先から銀色の煙が発生し、たちまちジュナとガルティラーマの間で膨張した。
ジュナが右手を振り下ろすと、煙は消え、そこには一匹の野獣が出現していた。
ガルティラーマは、パッと後ろへ飛び退いた。
「私のペット、シンバンドゥーです」
ジュナは、野獣の背中を優しく撫でた。
シンバンドゥーは、身長が約2メートル50センチ、二足歩行の獣だ。丸々と太った体で、見るからに脂肪でブヨブヨしている。
その肥満体の上に、牛のような頭が乗っている。ただし角は2本ではなく、頭頂部から真っ直ぐなものが1本生えている。
また、口からは鋭い牙が覗いている。腕は丸太のように太く、3本の肉厚な指を持っている。右手の指先からは、長い鉤爪が伸びている。
尻尾は牛のように細いものではなく、鰐のように太くて長い。体の色は深緑で、皮膚はザラザラしている。
ガルティラーマは、ジュナがシンバンドゥーを「ペット」と称したことに引っ掛かりを覚えた。見た目は全く異なるものの、大まかには同類だと思えたからだ。
「そいつは手下や仲間ではなく、ペットなのか」
ガルティラーマは確認の問いを投げた。
「そうですよ。人間が牛や馬などの家畜を手下とは呼ばないでしょう。それと同じようなことですよ。ねえ、シンバンドゥー」
ジュナが野獣に目をやる。
シンバンドゥーは鼻から息を吐き、フシュルルルと音を発した。それから威嚇のつもりか、あるいは準備運動なのか、鉄柵に近付いて左手で握った。
すると、いとも簡単に1本の鉄棒がポキリと折れた。
シンバンドゥーは、その鉄棒をガルティラーマに放り投げた。ガルティラーマは、わずかに首を移動させて避けた。
鉄棒は宙を舞い、地上へと落下していった。
それが地面に突き刺さった音を、原田が聞いたのだ。
「シンバンドゥーは言葉も話せないし、知能も低い。だが、それだけではありません。こいつは何より、とても醜い。だからペットなのです」
ジュナが粛々と述べた。
「スカーヴァティーってのは、面白い基準で飼い主とペットの分類が決まるんだな」
ガルティラーマは嫌味を込めて言った。
「ええ、面白い場所ですよ。貴方も来られれば良かったのですが、もう無理ですね」
「地獄の住み心地が良いとは言えないが、お前のような奴がいる場所に行きたいとも思わないな」
「そうですか、それは良かった。心置きなく始末することが出来る。ではガルティラーマ、このシンバンドゥーと存分に戦って、そして殺されてください」
ジュナはニヤリと笑い、光を呼んだ。
あっという間に輝きが彼を包み、その姿が消えた。
後に残ったシンバンドゥーは、吊り上がった目でガルティラーマを見据えた。大きく口を開き、歯茎を剥き出して威嚇してきた。口内から伸びた舌先が2つに割れ、チロチロと揺れた。
「御主人様は去ったぞ。お前も後を追わなくていいのか」
ガルティラーマは神経を集中させたまま言い、一歩前に出た。
するとシンバンドゥーはウウウッと低く唸り、いきなり頭から突進してきた。
ガルティラーマは、ひらりと体を捻ってかわす。
シンバンドゥーは床を強く踏み込んでブレーキを掛けると、ガルティラーマに背中を向けたまま高くジャンプした。
肥満体の見た目からは想像も付かないほど、シンバンドゥーは身軽で素早い。
シンバンドゥーは空中で後方回転し、ガルティラーマの頭を両足の裏で踏み付けようとした。
ガルティラーマはスッと右に移動し、落下する肥満弾を避けた。するとシンバンドゥーは、まるで重力を無視したかのように、ほとんど音も立てずに着地した。そして着地するや否や、その体はゴムボールのように跳ねた。
シンバンドゥーは斜めに飛び、ガルティラーマに腹から突っ込んで来た。
思わぬ動きに、慌ててガルティラーマは胸の前で両腕を交差させる。
だが、それは防御としては不完全だった。
シンバンドゥーの体当たりは、予想を遥かに超える強烈な衝撃をガルティラーマに与えた。
ガルティラーマは勢いを受け止め切れず、ビルの屋上から闇夜の空へと吹き飛ばされた。
「ぬおっ」
小さく呻き、ガルティラーマは崩れたバランスを空中で立て直した。
地面が近付き、ガルティラーマは道路に両手を付いて着地した。
そこは水夕の家の近くだった。
そして、真っ直ぐな通りの先には原田がいた。
「ガルティラーマ!」
原田が叫んだ。
立ち上がろうとしたガルティラーマは、パッと後ろを振り返る。
「ええい、厄介な所に」
ガルティラーマは小さく言い、舌打ちした。
すぐに、シンバンドゥーが迫って来た。ビルの屋上から大きく跳躍し、ひとっ飛びでガルティラーマの眼前に来る。またも静かに、羽毛のように降り立つ。
グルルッと喉を鳴らし、シンバンドゥーが道路を蹴って空に舞った。ガルティラーマの頭上から、右手の爪を立てて振り下ろしてきた。
ガルティラーマは動きを捉え、敵の右肘をガッと左手で掴み止めた。
まだシンバンドゥーの体が浮いた状態で、その腹に右ストレートを思い切り叩き込んだ。
ガルティラーマの拳が、贅肉で覆われたシンバンドゥーの腹部にズブリとめり込む。
だが、まるで手応えは無かった。
厚い脂肪が衝撃を吸収し、シンバンドゥーは全くダメージを受けていない。
「何っ」
小さな動揺が、ガルティラーマの顔に浮かんだ。
シンバンドゥーはガアッと口を開き、その牙でガルティラーマの顔面に噛み付こうとした。反射的に顔をのけぞらせたガルティラーマの鼻先をかすめ、牙は目標物を捕らえることに失敗した。
だが、シンバンドゥーの牙は、ペンダントのチェーンを噛み切った。
ガルティラーマの胸元から、ペンダントが地面に落ちた。それは街灯に照らされ、キラリと光った。
「くそっ」
ガルティラーマはシンバンドゥーの腹から右腕を引き抜き、ペンダントを拾い上げた。
その間に敵は次の攻撃に移り、いわゆるラリアットのような形で左腕を叩き込んできた。
ガルティラーマは防御行動を取れず、胸部への強烈な打撃を食らった。
「ぐわっ」
激しく後方へ弾き飛ばされるガルティラーマ。
そのまま塀に激突しそうになったが、彼は右足で地面を捕まえて踏ん張った。しかし攻撃の勢いで、ペンダントが手から弾け飛んだ。
シンバンドゥーに注意しながらも、ガルティラーマはペンダントを探そうと見回す。
それは、十数メートルの距離に縮まった原田の足元に転がっていた。
原田がペンダントを拾い上げるのを、ガルティラーマは目の端で確認した。
「おい、大丈夫か」
原田が駆け寄ってきた。
「来るなっ」
ダメージを受けた胸を押さえながら、ガルティラーマは鋭く叫んだ。
叫びながらガルティラーマは、角を立てて頭から突進して来るシンバンドゥーを視線に捉えた。
彼には、それをかわすだけの時間的余裕はあった。だが、自分がかわせば、そのルートに原田がいることも彼は把握していた。
ガルティラーマは、野獣の弾丸に向かって身構えた。
受け止めるつもりなのだ。
彼は全身の筋肉に力を込めた。腕の肉が、脚の肉が、グイッと盛り上がった。
ガルティラーマは、敵の角に全神経を集中した。
シンバンドゥーは滑るように地面を駆け、直線的な動きで迫った。
ブウォーッと鋭い風音が立つ。
しかし標的の心臓まで残り30センチの地点で、その突進は止まった。
ガルティラーマが、両手で角をガシッと掴み止めたのだ。
必死の形相で、ガルティラーマは歯を食いしばって耐えていた。
踏ん張った両足はズズッと後ろへ滑り、脈が切れるかと思うほど力の入った両腕がプルプルと震えた。
角を握り締めた両の掌から、そしてキリキリと軋む歯の間から、青紫色の血がポタポタと地面に垂れ落ちた。
「むぅっ……」
低く唸ったガルティラーマのすぐ後ろで、原田が腰を抜かして倒れ込んでいた。
「は、早く家に帰れ」
ガルティラーマは、かすれ気味の声で告げた。
「あ……うむ……」
眼前の衝撃に心を持って行かれた原田の返答は、言葉になっていなかった。
シンバンドゥーは角を引き抜き、軽やかなバック転で距離を取った。
「こっちへ来い、シンバンドゥー。俺達の戦場は、ここじゃない」
ガルティラーマは肉体の軋みに耐え、素早く鷲のように跳躍した。
彼は闇に舞い、民家の屋根へと飛び乗った。
ガルティラーマは振り返り、シンバンドゥーを手招きした。それから彼は再びジャンプし、最初にいたビルの屋上に着地する。
すぐに次の跳躍に移り、どんどん遠くへと飛び移っていく。
ウガッと短く吠えて、シンバンドゥーは後を追った。見た目は鈍重だが、ひょいひょいと忍者顔負けの敏捷性で、屋根やビルを飛び移っていく。
ガルティラーマはチラチラと振り返って敵との距離を確かめながら、市街地を脱出した。
彼が向かったのは、転神市の南東部にある大蓮山だ。山とは呼ばれているが、少し大きめの丘と解釈した方がいいだろう。
山菜が豊富に繁殖しているわけでもなければ、珍しい昆虫が生息しているわけでもない。
特に面白味も無い凡庸な場所であり、昼間でも登ってくる人は稀だ。夜中ともなれば、当然の如く無人となる。
ガルティラーマはシンバンドゥーに追いつかれることなく、大蓮山に入った。
単純なスピード勝負なら、ガルティラーマの方が能力は上だということだろう。
しかしシンバンドゥーには肉体に装備されている角や鉤爪といった武器があり、驚異的なパワーがあり、そして打撃のダメージを吸収してしまう脂肪の鎧がある。
果たして、ガルティラーマはどのように戦えば、勝利を収めることが出来るのか。
ガルティラーマが口元の血を拭っていると、シンバンドゥーが飛来した。
いきなり、敵はガルティラーマの頭上から右の爪を振り下ろしてきた。
ガルティラーマは左腕を突き上げ、相手の手首に裏拳を打ち込む。盾を作って防御するのではなく、攻撃によって向こうの動きに対抗する方法を取ったのだ。
シンバンドゥーの手首とガルティラーマの手の甲が激突し、反発するように弾けた。
すかさずガルティラーマは、打ち下ろすような角度で右のローキックを敵の左足に放った。脛の外側がビシッと小気味良い音を発し、シンバンドゥーの顔が歪んだ。
野獣は思わず左足を引き、2連続のバック転で距離を取った。
「どうやら脂肪の多い腹部以外は、それほどダメージを吸収できないようだな」
ガルティラーマは左足を前に出し、半身の体勢でシンバンドゥーを見据える。
傷を負いながらも、ガルティラーマは冷静に敵を分析していたのだ。
「ウギィィッ!」
雄叫びを上げ、シンバンドゥーが両手を掲げて怒りを表現した。彼はダッシュし、爪を真横に振るってきた。ガルティラーマは体を屈めてかわす。頭の上でブンッと爪が唸り、突風が起きた。
ガルティラーマはしゃがんだまま、水面蹴りを放った。揃った両足を刈り取られ、シンバンドゥーは後ろへ倒れ込んだ。
足での着地と違い、そういう場合は体重のゼロ化が出来ないらしく、野獣は後頭部を地面に強く打ち付けた。
ズシャッという鈍い音。
ガルティラーマは仰向けのシンバンドゥーに飛び乗った。馬乗りの状態から、ガルティラーマは拳を打ち下ろそうとした。
その途端、シンバンドゥーの腹がペコンと凹んだ。それはシンバンドゥーが意図的にやったことだった。
フンッと息を吐くと、その腹部がポンッと一気に膨らみ、ガルティラーマを真上に低く投げ上げた。
「何っ?」
敵が見せた想定外の攻撃に、ガルティラーマは思わず声を上げる。
シンバンドゥーはガルティラーマが落ちてくるタイミングに合わせて、クルッとうつ伏せに回転し、勢いを付けて尻尾を振った。
鞭のようにしなった尻尾が、ガルティラーマの腰骨を襲った。ガルティラーマは地面に叩き落とされ、胸を打ち付けた。
「ぐっ」
腕を立てて体勢を起こし、ガルティラーマは噛んだ砂を唾と共にペッと吐いた。
ガルティラーマが前を向くと、既にシンバンドゥーは次の攻撃に入っていた。野獣はピンと体を一直線にして、弾丸のようにビュンッと飛んで来た。
慌ててガルティラーマは身をかわした。轟音と共に、野獣の肉弾が顔の右側をかすめて通過した。頬に裂傷が生じ、ツーッと青紫の血が一筋の線を作った。
そのまま木に向かって飛んだシンバンドゥーは、ぶつかる寸前で競泳のターンのように体を捻った。
そして両膝をバネのように使って木を蹴り、再び肉弾をガルティラーマ目掛けて発射した。
ガルティラーマは頭を下げ、特攻から逃れた。
シンバンドゥーの体が頭上を通過する。
だが、シンバンドゥーは両足でガルティラーマの頭をガッと挟み込んだ。
後ろに重心を持って行かれ、グッと踏ん張って耐えるガルティラーマ。
するとシンバンドゥーは、それをブレーキにして、ガルティラーマの背後の地面に両手を付いた。そして野獣はシュッと細く息を吸い、両足に全ての力を凝縮させた。
ウオッと気合いを吐き出し、シンバンドゥーは両足を跳ね上げた。恐るべき脚力で、ガルティラーマの体を天高くへと投げ飛ばしたのだ。
欠けた月を目指すかのように、ガルティラーマは闇夜に打ち上げられた。
ガルティラーマは不規則な回転に翻弄されながら、何とか着地に向けて体勢を整えようとする。
地上ではシンバンドゥーが空を仰ぎ見て、次なる行動に移った。野獣は地面を蹴り、ガルティラーマを追うように真上に跳躍した。角を突き出し、ガルティラーマを空中で串刺しにするつもりだった。
上昇が終了して下降に入ろうとした地点で、ガルティラーマは敵の動きを察知した。
猛スピードで迫るシンバンドゥー。
大きくかわすことは不可能だった。そのままだと心臓付近に命中する。
ガルティラーマは体を強引に捻った。
直撃は免れたものの、敵の角は脇腹の肉を無残に抉り取った。
「ぐはっ」
苦痛がガルティラーマの頬を震わせる。
ガルティラーマは歯を食いしばり、落下しながらシンバンドゥーの顔面を蹴った。
それは攻撃のためではなく、敵と空中での距離を取るための行動だ。
シンバンドゥーが先に着地し、離れた場所にガルティラーマも着地した。負傷箇所を押さえて片膝を付き、ガルティラーマは荒くなった息を整えようとする。脇腹に当てた手の間から、血がドクドクと溢れ出た。
ウホッウホッと、悦に入ったかのようにシンバンドゥーが鳴いた。仁王立ちしてガルティラーマを見る態度は、明らかに勝ち誇っていた。
だが、まだ決着が付いたわけではない。
ガルティラーマは傷付きながらも、敵が余裕を見せたことで隙が生じたと分析していた。
シンバンドゥーは歓喜の咆哮を上げ、ダダッと勢い良く走った。距離を詰めながら右爪を振り、大きなフックで襲ってきた。
ガルティラーマは左の前蹴りを放ち、敵の右腕を跳ね返した。激しい動きに、脇腹の血がパッと飛び散る。
攻撃を受けたシンバンドゥーの体勢が、やや崩れた。
その隙を逃さず、ガルティラーマは右のハイキックを放った。ただのハイキックではなく、途中でモーションの変化する蹴りだ。
右脚は柔らかくしなり、シンバンドゥーの左側頭部を捉えた。
脳を揺らされ、シンバンドゥーの腰がガクッと落ちた。しかし野獣はフラつきながらも、右の鉤爪をアッパーのようにガルティラーマの顎に突き上げようとした。
ガルティラーマは、敵の腕が伸びたタイミングに合わせて体をのけぞらせた。すんでのところで攻撃を避けた彼は、ほぼ同時に敵の右腕を両手で絡め取った。
素早くシンバンドゥーのサイドに回り込んだ彼は、右腕を自分の左脇に挟み込み、同時に足を刈り取った。
バタンッと音を立てて、シンバンドゥーは前に倒れ込んだ。
ガルティラーマは脇を支点に敵の腕を背中側へ反らせ、肩と肘を極めて一気に力を入れた。
グギッと嫌な音が肉の中で響いた。
「バヒィッ!」
甲高い悲鳴がシンバンドゥーの口を突いた。
肩の関節を破壊されたのだ。
ガルティラーマが腕を放すと、シンバンドゥーは地面をゴロゴロと転げ回った。ガルティラーマは体を起こし、獲物を狙う目でその様子を伺う。
ガアッと自分を奮い立たせるように叫び、シンバンドゥーは立ち上がった。その右腕は力を失い、ブランブランと所在無さげに揺れた。
ガルティラーマは野獣に向かって駆け出した。地を蹴りながら右腕を引き付け、正拳突きの準備行動に入った。
迎え撃つシンバンドゥーは距離を測って体を勢い良く回転させ、尻尾を繰り出した。その武器でガルティラーマの足を払おうとした。
だが、尻尾はブンと音を立てて空を切る。
ガルティラーマは命中の寸前、ジャンプしたのだ。
そのまま、ガルティラーマはシンバンドゥーの頭に飛び膝蹴りを放った。
尻尾を振ったことで、シンバンドゥーは体を捻って背中向きになっていた。後頭部にガルティラーマの右膝が突き刺さった。
グシャッという音を立て、頭蓋骨が陥没した。
シンバンドゥーの巨体がグラッと揺れ、バタリと顔から倒れ込む。
ガルティラーマは敵の背中に飛び乗り、両腕を首に回してフックした。そのままグイグイと首を締め上げる。ガルティラーマの上腕筋が膨れ上がった。
シンバンドゥーは逃れようと必死に暴れるが、ガルティラーマの腕は離れない。野獣の目は充血し、眼球は飛び出しそうになった。
「グキュウゥゥゥ……」
シンバンドゥーは苦しそうに口をパクパクさせ、そこから小さな泡粒が漏れ出した。
抵抗の力は次第に弱くなっていき、既に使い物にならなくなっていた右腕だけでなく、左腕もダラリと垂れ下がった。
眼光が鈍くなり、やがてシンバンドゥーの両目が閉じられた。
そして、全身の力が完全に失われた。
ガルティラーマは相手の絶命を察知し、立ち上がってシンバンドゥーから離れた。
力を入れ続けたせいで、両腕の筋肉がパンパンに張れていた。脇腹の血は未だ止まらず、地面に斑点を作り続ける。
ガルティラーマはシンバンドゥーを見下ろしたまま、呼吸を落ち着かせようとした。
その時、シンバンドゥーの死体の後ろに、光の筋が発生した。
光は太くなり、そして一瞬にして消えた。
その後には、ジュナが出現していた。
「驚きましたよ、まさかシンバンドゥーを倒すとはね」
ガルティラーマを見ながら、感服するようにジュナが言った。
「少し甘く見ていたのかもしれませんね」
「それで、次は貴様がやるのか」
ガルティラーマは戦闘体勢を取った。
「そうですね、そうしましょうか。ただし、今はやめておきます」
ペットの骸をチラッと見やり、ジュナは穏やかに言った。
「怖気付いたのか」
「とんでもない」
ジュナは失笑した。
「普通にやっても、貴方と私では力の差が歴然としている。おまけに、貴方は深手を負っている。おそらく、私が圧倒的な勝利を収めることでしょう」
「そこまで自信があるなら、掛かって来い」
ガルティラーマは挑発するように言う。全身に痛みがあったが、アドレナリンの放出が戦闘意欲を促進していた。
「それはそうなのですが、私の明晰な頭脳が、貴方に負ける0.1パーセントの確率を弾き出してしまったのですよ。負ける確率が万に一つも無い状況、絶対に勝てるという状況でなければ、私は戦いたくないのです。何しろ臆病者なのでね」
すまし顔で話すジュナ。
「ですから、戦うのは後日ということで。今回は、シンバンドゥーを連れておとなしく帰りますよ。それでは、また」
ジュナはしゃがみ込み、シンバンドゥーの体にそっと触れた。
光が神徒と野獣を包み込む。
すぐに光はフッと消え失せ、ジュナとシンバンドゥーはいなくなっていた。
ガルティラーマは、ようやく全身の緊張を解いた。ドッと疲れが押し寄せた。彼は膝を付き、その場にへたり込んだ。
ハアハアと大きく呼吸すると、それによってズキズキと体中が痛んだ。肉の削げ落ちた脇腹が風にさらされ、ビクッと痙攣した。緊張を解いたことによって痛みが増すという、皮肉な現象が起きていた。
ふと、ガルティラーマはペンダントのことを思い出した。
きっと原田は、もう帰宅していることだろう。
今さら、取り返しに戻るわけにもいくまい。
(水夕には見せないでくれ。気付かれないでくれ)
それだけを、ガルティラーマは祈った。
***
ガルティラーマとシンバンドゥーが去った後、原田は呆けたように座り込んでいた。目の前で怪物と野獣が戦っていた残像が、体を硬直化させていた。
しばらくして、ようやく原田は正気を取り戻した。
体に自由が戻り、原田は握り締めた右手を開いた。いつの間にか、掌が汗ぐっしょりになっている。
そこには、あのペンダントがあった。
原田は立ち上がり、ペンダントを上着のポケットに突っ込んだ。右手の汗をズボンで拭き取り、家に向かって歩き出した。
彼は考える。ガルティラーマのことを考える。
あの怪物は、口で俺を死なせたくないと言うだけではなかった。自分が盾になってまで、俺を助けようとした。やはり、奴は単なる凶悪な殺人者ではないのだ。
しかし、他の人間に対しても、同じように気にしているのか。それとも俺だけが特別扱いなのか。だとすれば、なぜなんだ。
それに、このペンダントだ。奴は戦いの最中でも、これを気にしていた。このペンダントはガルティラーマにとって、どんな意味を持つのだろうか。奴の謎を解く鍵になってくれるのか。
原田は再びポケットからペンダントを取り出し、それを見つめた。
疑問は次々に浮かぶが、何一つとして答えは見つけ出せない。
重い足取りで、原田は家に辿り着いた。
インターホンを押しながら、まだ思考は続いている。
玄関のドアが開き、水夕が笑顔で迎えた。
「お帰りなさい」
「ただいま」
「雰囲気が暗いわね。何かあったの?」
「いや、特に何も」
原田は平静を取り繕い、そっけない返事をした。
「それは?」
水夕は目ざとく、原田の右手に何かが握られているのを見つけた。
「ああ、これか」
何気無く、原田は右手を開いてペンダントを見せた。
すると急に、水夕が目を大きく見開いた。
「それは……」
「どうした、このペンダントに見覚えでもあるのか」
「このペンダントを、どこで?」
水夕が早口で尋ねた。
「拾ったんだが、それがどうかしたのか」
その質問には答えず、水夕はいきなりペンダントを掴み、まじまじと見つめた。
ペンダントトップを裏返した彼女は、悲しいような、安堵したような、複雑な表情を見せた。
「なあ、何か見覚えがあるのか?」
原田が質問を重ねた。水夕はハッと我に返ったかのようになり、慌ててペンダントを原田の手に戻した。
「知らないわ、何も知らない」
まるで逃げるように、水夕はリビングへと走っていった。
「教えてくれ、水夕。どんな小さなことでもいい。大切なことだ」
原田は玄関から声を張り上げた。靴を乱雑に脱ぎ散らかして、後を追った。
水夕は背中を向け、リビングの窓際に立っていた。
「あなたが追っている事件と、何か関係があるの?」
ボソッとつぶやくように、水夕が言う。
「分からん」
リビングに入ろうとして、原田は立ち止まった。
無神経に近付いてはならないような空気を、水夕に感じ取ったのだ。
「まだ分からんが、関係があるかもしれない。だから、何かあるなら教えてほしい」
「……前の夫も、同じペンダントをしていたの」
「えっ?」
原田の声が大きくなった。
「それと同じ物を、私がプレゼントしたの。だから、それを見て、びっくりしたのよ」
そう言いながら、水夕は顔だけを原田に向けた。
「それじゃあ、これは……」
「ううん、違ったわ」
水夕は首を横に振った。
「彼の物なら、ペンダントトップの裏側にT・Aってイニシャルを刻んだコインが付いているの。でも、それには何も付いていなかった。考えてみれば、そんなペンダント、たくさんあるわね」
「そうか。それなら関係が無いな」
原田は表情を変えずに言った。
「そうでしょ。だから、気にしないで。突然だったから、ちょっと驚いただけ」
「ああ、そうだな」
「それじゃあ私、お風呂の用意をしてくるわ」
そう言って水夕は、風呂場へと向かった。
彼女がリビングを去った後、原田はポケットに手を入れ、ある物を取り出した。
それは、T・Aの文字が刻まれたコインだった。
地面に激しくぶつかった衝撃で、ペンダントから外れていたのだ。
硬い表情で、原田はコインをポケットに戻した。




