第17話 ただのアリア
アリアが初めて店に来てから、数週間。
彼女はすっかりコナラギカフェの常連になっていた。
光の精霊術で速めた聖堂の馬車を使い、忙しい合間を縫ってふらりと現れては、タロウと戯れ、新作の焼き菓子を味見し、最後にはだいたいデーゼの暗黒パフェで締めていく。
聖女という肩書きからは想像しにくいくらい、うちの店に馴染んでいた。
そして今日。
コナラギカフェは、開店以来、いちばん慌ただしい昼だった。
「オーダー! アイスティー三つ!」
「主よ、まだ暗黒パフェの盛りつけが終わらん。そちらは任せる」
「えぇ!? ちょっとデーゼ!」
私はホールからキッチンへ声を飛ばしながら、紅茶のポットとグラスを同時に抱える。
定休日明けの昼は、予想以上に混む。
しかも今日は、マルタさんはミシャちゃんの用事で遅れ、トマスさんは港の荷受け、ガランさんは寄り合いで不在だった。
ほんの一時間だけなのに、見事に人手が足りない。
「すみません、お冷おかわり!」
「店主さん、こっち注文いいかい?」
「おねえちゃん、おみずまだー?」
あっちでもこっちでも声が上がる。
カウンターでは焼きたてのタルトを切り分けたそばから皿が消え、紅茶は一つ淹れれば次のオーダーが飛んできた。
「ああ、もうっ。猫の手も借りたいわ!」
その時、入口のベルが鳴った。
「こんにちはー、席空いてますか?」
「噂のジュエル・フルーツタルト、まだあるか?」
続けて二組の客が入ってくる。
まずい。
さすがに一気に来られると厳しい。
お冷を出して、注文を取って、厨房へ通して、紅茶を淹れて――と頭の中で手順を組み立てていたら、すっと横から声がした。
「フランシスカさん。私、お水をお持ちしてもいいですか?」
振り向くと、アリアが立ち上がっていた。
「こういうの、少し慣れてるんです。教会でも来客のお茶出しを手伝うことがありますから」
「でも、お客様にそんなこと――」
反射的に断りかけて、私は息を止めた。
前みたいに、全部一人で抱え込むのは違う。
この店は、もう私一人で無理をして回す場所じゃないのだ。
「……じゃあ、お水だけお願いしてもいい?」
「はい!」
アリアは嬉しそうに頷くと、すぐに水差しを手に取った。
歩き方に無駄がなく、声のかけ方も丁寧だ。
「お待たせしました。お冷です」
「ありがとう、お嬢さん」
その言葉に、アリアが一瞬だけ目を丸くする。
けれど、すぐに柔らかく微笑んだ。
「ご注文は、店主さんがすぐに伺いますね」
私は厨房でタルトを切り分けながら、そっと彼女の様子を見た。
アリアは、驚くほど自然に店に溶け込んでいた。
ふわふわして見えるのに、案外しっかりしている。
……いや。
きっと、人に何かをしてあげることに慣れているのだろう。
誰かのために動くことが、もう身体に馴染んでいるのだ。
「主よ、待たせたな。次の皿だ」
「はいはい、今行くわ!」
「ワフッ」
タロウが足元を動き回りながら応援しているのか邪魔しているのか分からない様子を見せ、私は思わず苦笑した。
なんとか波を乗り切った頃には、昼の喧騒もようやく落ち着いていた。
「もう大丈夫。ありがとう、アリア。ここからは座って」
「はい」
アリアは素直に頷き、少しだけ名残惜しそうに水差しを置いて席へ戻った。
私はようやく一つ息をついて、最後の注文を片づけに向かった。
***
少し遅いティータイムになってから、私はアリアの向かいに紅茶を置いた。
「さっきは助かったわ。ありがとう」
「いえ! こちらこそ、ちょっと楽しかったです」
アリアはカップを両手で包み込み、ほっと息をつく。
窓の外では、海が陽を受けてきらきら光っていた。
店の中には、焼き菓子と紅茶のやさしい香りが残っている。
「ここ、不思議なお店ですね」
「不思議?」
「はい。なんだか……息がしやすいんです」
その言葉に、私は少しだけ目を瞬いた。
「さっきも、『聖女様』じゃなくて『お嬢さん』って呼ばれて。ああいうの、なんだか少しだけ、ほっとしたんです」
アリアは紅茶の表面を見つめたまま、静かに続ける。
「王都にいると、どうしても『聖女』として見られることが多いんです。もちろん、それが嫌なわけじゃありません。私にできることがあるならやりたいと思っていますし、そのための役目だとも思っています」
そこで彼女は、少しだけ困ったように笑った。
「でも、聖女って、祈るだけじゃないんですよ。調停の場に呼ばれたり、資格や立場で誰かの前に立たなきゃいけなかったり……最近は特に、精霊契約とか、国外へ渡った契約者をどう扱うかみたいな、どうして今それをそんなに細かく確かめるんだろうって思うような話まで増えていて」
「国外へ渡った契約者を、どう扱うか……?」
聞き返しかけて、私はやめた。
アリア自身も、その話題になると少しだけ疲れた顔をしたからだ。
けれど、その言葉だけは、紅茶の香りの中に小さな棘みたいに残った。
「肩書きって、誰かを守る盾になることもあるけれど、ずっと着ていると苦しい鎧みたいだなって」
私は、すぐには返事ができなかった。
軽やかに見える彼女も、ちゃんとその重さを知っているのだ。
「でも、ここでは違うでしょう?」
「……まあ、今日はタルト代しか求めてないわね」
「ふふっ、そうですね」
アリアが笑う。
「だから、ここに来ているあいだは、ただのアリアでいられる気がするんです。甘いものが好きで、美味しい紅茶が好きで、素敵なお店を見つけると嬉しくなる、ただの女の子として」
私はしばらく、何も言えなかった。
ヒロインでも、聖女でもない。
ただのアリア。
それは少しだけ、悪役令嬢でも元婚約者でもなく、この店のフランシスカでいたい私にも似ていた。
「……そっか」
肩の力が抜ける。
「じゃあ、うちでは聖女様じゃなくて、アリアとして歓迎するわ。もちろん、常連さんとしてもね」
「はい!」
アリアの顔が明るくなった。
「今度はもっとたくさん来ます。暗黒パフェも食べたいですし、新作の焼き菓子も気になりますし、できれば季節のジャムも――」
「欲張りね」
「甘いものには本気なんです」
妙に真剣な言い方に、私はとうとう吹き出してしまった。
ヒロインが来た、と聞けば、もっと厄介なことを想像していた。
けれど実際にやってきたのは、暗黒パフェに目を輝かせて、少しだけ息をつきに来る、ただの甘党の女の子だった。
――悪くない。
そう思えた時点で、私はもう、過去の物語から少し自由になれていたのかもしれない。
アリアが帰る頃には、空はやわらかな夕焼けに染まっていた。
「また来ますね、フランシスカさん」
「ええ。またおいで、アリア」
店先で手を振る彼女の背中を見送りながら、私は小さく息を吐く。
この店は、村の人たちだけの場所じゃないのかもしれない。
誰かが肩書きを下ろして、少しだけ息をつくための場所。
――たぶん、私自身にとっても。
アリアが扉をくぐると、ドアベルが小さく鳴った。
その軽やかな音は、まるで新しい縁の始まりみたいに、やさしく耳に残る。
だが、アリアが何気なくこぼした「国外へ渡った契約者」という言葉だけは、夕焼けの中でも妙に冷たく胸に残っていた。
この店は、肩書きを下ろして息をつける場所になりつつある。
だからこそ、それを肩書きで奪おうとするものが、もう近づいているなんて――この時の私は、まだ知らなかった。




