エピソード5服従と復讐
これは作者の実体験をもとにした半分フィクションのお話...
カフェでの出来事から間もなく、二人の関係は物理的な輪郭を失い、より深く、湿り気のある泥沼へと沈んでいった。
目に見える傷や破裂音といった分かりやすい惨劇は息を潜め、代わりに周囲を満たしたのは、逃げ場のない不快な熱気と粘着質な沈黙だった。
雨がしとしとと降り続く平日の深夜、俺のアパートのドアベルが静かに鳴った。
覗き窓を通さずとも誰だかは分かっていた。鍵を開けると、傘もささずにやってきた頼人が立っていた。薄いシャツが肌にへばりつき、不気味に濡れている。
「……山中」
部屋に招き入れると、頼人は力の抜けた人形のように床へ崩れ落ちた。
差し出したタオルにも触れず、ただ自らの指先を強く擦り合わせている。爪が皮膚に食い込み、白く変色していく。
「玲明がね、僕の呼吸の回数まで数えてるんだ」
ポツリと漏らされた声は、掠れて聞き取りにくかった。
「今日、どの花を買って帰るかで一分迷ったら、彼女は僕の目を見て『誰のことを考えてたの?』って聞くんだ。僕の頭の中を全部解体して、隅々まで暴こうとする。……すごく怖くて、全身の血が冷たくなる。でもね、山中」
頼人はゆっくりと顔を上げた。その瞳には、底の知れない暗い悦びがどろりと濁っていた。
「僕の全部を侵食してくれているんだ。僕という存在の隙間を、玲明の恐怖と支配で塗り潰してくれている。僕が少しでも違う方を向くと、彼女は泣きそうな顔で僕を追いつめるんだよ。……愛されてると思わないか?」
俺は喉の奥が引き攣るのを感じた。
打撃などの直接的な痛みよりも遥かに重く、不潔な愛憎の執着。頼人は痛みに耐えているのではない。相手の歪んだ精神そのものを飲み込み、自分自身を溶かしていくことに陶酔しているのだ。
その時、机の上の俺のスマホが静かに震えた。
画面には『玲明』の二文字。
頼人はその画面を盗み見ると、口元を歪めて浅く息を吐いた。
「出なよ。きっと、僕がここにいることなんて、最初から分かってて電話してきてるんだ」
恐る恐る通話ボタンを押し、耳に当てた。
スピーカーからは、吐息のような玲明の声が流れてきた。雨の音に混じって、ぞっとするほど静かな声だった。
『……ねえ、裕人』
「……なんだ」
『頼人がそこにいるんでしょ。服、濡れてるでしょ』
俺は絶句した。位置情報なのか、あるいはどこかで見張っていたのか。彼女の影が、この部屋のすぐ外まで伸びているような錯覚に囚われる。
『頼人はね、裕人の前でしか見せない顔があるの。私にどれだけ追い詰められても絶対に見せてくれない情けない顔を、裕人に見せに行ってるの。ねえ……裕人は、私から頼人を奪いたいの? それとも、私の代わりに頼人を壊したいの?』
「……そんなわけないだろ」
『ふふ、嘘つき。裕人だって、頼人が私に壊されていくのを楽しんでる癖に。自分の部屋に匿って、正義の味方の顔をして、私達のドロドロしたところを一番近くで舐めてるんでしょう?』
電話の向こうで、玲明がくすくすと嬉しそうに笑う。
隣でその声を聞いていた頼人が、嫉妬と恍惚の混ざった複雑な眼差しで俺を見つめていた。頼人の唇がかすかに動く。
(僕の玲明に、触らないで)
そう言いたげな、暗く重い殺意にも似た眼差しだった。
玲明の狂気の執着。頼人の異常な従属と嫉妬。そして、それらを拒絶しながらも、どこかで観察者としての優越感にしがみついている俺。
二人を繋ぐ糸は、いつの間にか俺の首にも幾重にも巻き付き、強く締め上げられていた。誰一人としてこの泥沼から抜け出す気などないのだと、暗闇の中で悟っていた。




