第11話 限界の先へ
アルベルトが正面から突撃する。
アスタロトが迎え撃つ。
盾と腕が激しくぶつかり合った。
「ぐっ……!」
アルベルトが押し込まれる。
そこへアイリスが飛び込む。
「あなたの相手は私です!」
黄金のメイスを振り抜いた。
アスタロトが腕で受け止める。
「――っ!」
アイリスの腕が震える。
それでも踏み込む。
「まだです!」
もう一撃。
アスタロトが僅かに後退した。
「今だ、ガルドさん!」
「分かっている!」
ガルドが二人の脇を駆け抜ける。
狙うのはアスタロトではない。
その背後――。
壁面に走る巨大な亀裂。
ガルドの身体からオーラが立ち上る。
その力が腕を伝い、剣身を覆った。
「はああっ!」
オーラを纏った剣が、亀裂へ叩き込まれる。
岩壁が砕け、亀裂の一部が崩れた。
その瞬間――。
アスタロトの身体を覆う瘴気が大きく揺らいだ。
「亀裂の破壊が効いています!」
「瘴気の流れが弱くなりました!」
ダリアが叫ぶ。
「もう一度!」
ガルドが再び剣を構える。
だが――。
アスタロトが振り向いた。
「まずい!」
凄まじい速度でガルドへ迫る。
「行かせません!」
アイリスが割り込んだ。
メイスを横に構える。
直後。
轟音。
「ぐっ……!」
凄まじい衝撃が全身へ走る。
足元の岩が砕け、アイリスの身体が大きく後退した。
「アイリス!」
「大丈夫です!」
メイスを握り直す。
だが――。
重い。
腕が鉛のようだった。
「はぁ……はぁ……」
呼吸が荒い。
視界も僅かに揺れている。
魔力も体力も、すでに限界へ近い。
何度も重ねた筋力強化。
防御魔法。
戦闘中ずっとメイスへ流し続けている神力。
そのすべてが確実にアイリスを消耗させていた。
「アイリス、一度下がれ!」
アルベルトが叫ぶ。
「まだ……大丈夫です!」
アイリスは再び地面を蹴った。
アスタロトへ迫る。
メイスを振り上げる。
だが――。
僅かに遅かった。
「――っ!」
アスタロトの攻撃が先に来る。
咄嗟にメイスで受ける。
直後。
身体が宙へ投げ出された。
「きゃっ……!」
地面へ叩きつけられ、そのまま転がる。
「アイリス!」
リリーの叫び声が響いた。
だが――。
アイリスは動かなかった。
「アイリス!」
声が聞こえる。
遠い。
まるで水の中から聞いているようだった。
「アイリス! 返事して!」
リリーさん……?
身体が重い。
何も考えられない。
ほんの一瞬。
意識が途切れていた。
「……」
ゆっくりと目を開ける。
視界がぼやけている。
頭上には、白い聖光が浮かんでいる。
その光が滲んで見えた。
その向こうで、アルベルトとガルドがアスタロトを食い止めている。
ライラックとダリアが浄化術を放っている。
リリーがこちらへ駆け寄ろうとしていた。
「……だい、じょうぶ……です」
自分でも驚くほど弱い声だった。
「どこが大丈夫なのよ!」
リリーが叫ぶ。
アイリスは地面へ手をついた。
腕が震える。
力が入らない。
それでも。
身体を起こす。
「待って、アイリス!」
「……大丈夫です」
「だから大丈夫じゃないって!」
膝をつく。
一度、身体が傾く。
それでもメイスを支えにして――。
ゆっくり立ち上がった。
「まだ……戦えます」
「アイリス!」
リリーの制止を背に、アイリスは一歩踏み出す。
その時だった。
アイリスの身体を、ほんの僅かな光が包んだ。
あまりにも淡い光。
頭上に浮かぶ聖光とは違う。
外から照らされているのではない。
アイリス自身の内側から、滲み出すような光だった。
本人さえ気づいていないほどの、小さな輝き。
アイリスは地面を蹴る。
「はあっ!」
アスタロトへ飛び込み、メイスを振るう。
アスタロトが受け止める。
衝撃。
それでも止まらない。
もう一撃。
アスタロトが後退する。
「まだ……!」
三撃目。
だが、今度はアスタロトの反撃が来た。
「――っ!」
メイスで受ける。
しかし――。
耐えきれない。
「きゃあっ!」
再び身体が弾き飛ばされた。
岩壁へ背中を打ちつけ、そのまま地面へ崩れ落ちる。
「アイリス!」
「もうやめろ!」
アルベルト。
ガルド。
リリー。
いくつもの声が聞こえる。
けれど――。
「……大丈夫です」
アイリスは、また地面へ手をついた。
「アイリス……?」
リリーが息を呑む。
ゆっくり。
本当にゆっくりと。
アイリスが立ち上がる。
先ほどまで微かだった光が、今度ははっきりと見えるほど強くなっていた。
淡い光が肩を覆う。
腕を伝う。
脚を包む。
そして――。
アイリスの全身を巡っていく。
洞窟を照らす白い光の中でも、それがアイリス自身から放たれていることは明らかだった。
「……あれは」
ライラックが目を見開いた。
これまでアイリスが神力を使う時、その力が集まる場所は決まっていた。
武器だ。
身体から流れ出した神力を、黄金のメイスへ纏わせる。
それがアイリスの戦い方だった。
だが、今は違う。
「神力が……」
ライラックが呟く。
「アイリスさんの身体を巡っている……?」
「え?」
ダリアもアイリスを見る。
淡い光はメイスだけではない。
腕。
脚。
胴体。
アイリス自身を包み込むように、神力が全身を循環していた。
「そんな使い方……」
ダリアの表情が変わる。
「アイリスさん! 止まってください!」
だが、アイリスは振り返らない。
「まだ……動けます」
同じ言葉を繰り返す。
意識はまだぼんやりしている。
自分の身体に何が起きているのかも分かっていない。
ただ、一つだけ分かることがあった。
身体が動く。
さっきまで立ち上がることすら難しかったはずなのに。
腕が上がる。
脚が前へ出る。
まだ、メイスを振るえる。
だから――。
「まだ……戦えます」
アイリスはメイスを構えた。
「違う!」
ライラックが叫ぶ。
「回復しているわけじゃありません!」
「え……?」
リリーが振り返る。
「神力で身体を無理やり動かしているんです!」
「無理やり……?」
「今のアイリスさんは、消耗した身体を神力で支えているだけです! このまま続ければ――」
ライラックは言葉を詰まらせる。
身体にどれほどの負担が掛かっているのか。
誰にも分からない。
なぜなら――。
こんな神力の使い方をする聖職者など、見たことがなかったからだ。
「アイリス! もういい、下がれ!」
アルベルトが叫ぶ。
「まだ……終わっていません」
アイリスは小さく答える。
そして、アスタロトを見る。
アスタロトもまた、アイリスを見ていた。
先ほどまでとは違う。
その金色の瞳が、淡い光を纏う少女を明確に捉えている。
アイリスが一歩踏み出す。
さらに一歩。
光が強くなる。
メイスだけではない。
全身を包む神力が、呼吸するように明滅している。
「……行きます」
地面を蹴った。
神力に支えられた脚が、再びアイリスの身体を前へ運ぶ。
アスタロトが迎え撃つ。
メイスと腕が激突した。
轟音。
「――っ!」
アイリスの腕が軋む。
身体が悲鳴を上げている。
それでも――止まらない。
神力が身体を支えている。
「まだ……です!」
もう一度。
メイスを振るう。
アスタロトが受け止める。
三撃目。
四撃目。
何度弾かれても、アイリスは踏み込む。
「アイリス!」
リリーの声が聞こえる。
それでもアイリスは止まらない。
今、自分が止まれば。
アスタロトの攻撃が仲間へ向かう。
だから――。
「私が……止めます!」
メイスを振り抜いた。
アスタロトの身体が大きく後退する。
「今です!」
アルベルトが即座に叫ぶ。
「ガルドさん!」
「分かっている!」
ガルドがアスタロトの横を駆け抜ける。
狙うのは壁の亀裂。
「はああっ!」
剣を叩き込む。
岩壁が大きく崩れた。
黒紫色の瘴気の流れが目に見えて弱まる。
「効いています!」
ダリアが叫ぶ。
「もう一度!」
「任せろ!」
ガルドが再び亀裂へ斬り込む。
岩壁が崩れる。
瘴気の流れがさらに細くなった。
アスタロトが振り向こうとする。
「行かせません!」
アイリスが立ち塞がる。
アスタロトの一撃。
メイスで受け止める。
足元の岩盤が砕ける。
「ぐっ……!」
だが――。
今度は弾き飛ばされない。
「……まだです!」
全身を覆う淡い光が、さらに強くなる。
「アイリス!」
リリーが叫ぶ。
光が強くなるほど、アイリスの身体は動く。
だが、それは回復しているからではない。
本来なら動けない身体を、神力で無理やり動かしている。
限界を超えて。
さらに、その先へ。
「ガルドさん!」
「ああ!」
アイリスがアスタロトを押し留める。
その隙にガルドが三度、亀裂へ剣を叩き込んだ。
轟音。
壁の一部が大きく崩れ落ちる。
そして――。
瘴気の流れが、ほとんど止まった。
「今です!」
ライラックが叫ぶ。
「供給が途切れています!」
「残っている瘴気を浄化します!」
ダリアとライラックが、残された力で浄化術を展開する。
白い光がアスタロトを包み込んだ。
その身体を覆っていた黒紫色の瘴気が、白い光に触れた端から薄れていく。
これまでなら――。
浄化しても、壁の亀裂から新たな瘴気が流れ込み、すぐにその身を覆っていた。
だが、今は違う。
新たな瘴気は流れ込んでこない。
「戻ってこない……!」
リリーが声を上げる。
「ええ!」
ダリアが応じる。
「このままなら、アスタロトを覆っている瘴気を剥がせます!」
ライラックとダリアが、さらに浄化を重ねる。
白い光が強まる。
アスタロトを覆っていた黒紫色の霧が、少しずつ消えていく。
その姿が、これまでよりもはっきりと露わになった。
「瘴気の防護が弱まっています!」
ライラックが叫ぶ。
「今なら本体に攻撃が通ります!」
「アイリス! もういい、下がれ!」
アルベルトが叫ぶ。
「アイリス! 聞こえてる!?」
リリーの声も重なる。
だが――。
アイリスは答えない。
声は聞こえている。
けれど、遠い。
何を言っているのか、うまく頭に入ってこない。
ただ――。
目の前にいるアスタロトだけは見えていた。
まだ、倒れていない。
なら――。
「……まだ、です」
アイリスはメイスを構える。
「駄目! もう戦わないで!」
リリーが叫ぶ。
その声もまた、アイリスの耳には遠く響くだけだった。
「くそっ……!」
アルベルトが歯を食いしばる。
このままでは、アイリスが先に倒れる。
だが、アスタロトを前にして無理に連れ戻す余裕はない。
「ガルドさん!」
「ああ!」
「終わらせるぞ!」
アルベルトが盾を構える。
「これ以上、アイリスさんを戦わせるわけにはいかない!」
ガルドも剣を構えた。
二人の視線がアスタロトへ向く。
アルベルトが正面から突撃した。
「おおおおっ!」
盾がアスタロトへ叩き込まれる。
アスタロトが反撃する。
アルベルトの盾が大きく軋む。
「ぐっ……!」
それでも退かない。
「ガルドさん!」
「任せろ!」
横からガルドが斬り込む。
アスタロトがその攻撃を受け止めようと腕を動かす。
その一瞬。
正面を押さえるアルベルトと、横から斬り込むガルド。
二方向からの攻撃に、アスタロトの体勢が崩れた。
その間にも――。
ライラックとダリアの浄化術は止まらない。
アスタロトを覆っていた瘴気が、急速に薄れていく。
もう、先ほどまでのような濃密な瘴気の防護はない。
「今よ、アイリス!」
リリーが叫びかけて――。
言葉を止めた。
違う。
もう戦わせてはいけない。
「アイリス、下がって!」
けれど――。
アイリスには、その言葉の意味までは届かなかった。
ただ一つ。
アスタロトの体勢が崩れたことだけは分かった。
アイリスはメイスを握り直す。
腕は震えている。
呼吸も荒い。
身体の感覚さえ、ほとんど残っていない。
それでも。
神力だけが、全身を巡っている。
今なら。
終わらせられる。
「これで……」
メイスへ神力を集める。
全身を巡っていた淡い光が、少しずつ黄金の十字架へ流れ込んでいく。
身体を支える力まで削りながら。
最後の一撃へ。
「アイリス!」
リリーの声が聞こえた。
けれど。
その声が何を伝えようとしているのか、もう分からない。
自分が何をしようとしているのか。
アイリス自身にも、分かってはいなかった。
ただ――。
全身を巡る神力が、黄金の十字架へと集まっていく。
「これで……終わりです」
そして。
「――セイクリッド・プロヴィデンス」
アイリスは黄金のメイスを振り下ろした。
黄金の十字架が、アスタロトを真正面から捉えた。
轟音。
地下空間全体が震えた。
衝撃が大地を走る。
アスタロトを包んでいた僅かな瘴気が、一気に弾け飛んだ。
黒紫色の霧が消えていく。
アスタロトの姿もまた、徐々に薄れていった。
最後までアイリスを見つめ――。
やがて、その姿は完全に消滅した。
同時に、地下空間を満たしていた瘴気も急速に薄れていく。
これまで瘴気に遮られていた聖光の光が、再び洞窟全体へ広がった。
「……終わった?」
リリーが呟く。
ライラックが周囲を確認する。
「瘴気の流れが……止まりました」
ダリアも術式の反応を確かめる。
「アスタロトの反応もありません」
アルベルトが大きく息を吐いた。
「なら……俺たちの勝ちだ」
「ああ」
ガルドも剣を下ろす。
そして――。
「アイリス!」
リリーが叫んだ。
アイリスの身体を覆っていた光が消える。
頭上には聖光だけが残っている。
「……あ」
途端に。
全身から力が抜けた。
メイスが手から滑り落ちる。
そのまま、アイリスの身体が前へ傾いた。
「アイリス!」
リリーが駆け寄り、倒れる身体を受け止める。
「ちょっと! アイリス!」
「……」
「アイリス!」
呼びかけても返事がない。
「ライラック!」
「診ます!」
ライラックがすぐに駆け寄る。
アイリスの状態を確認し――。
小さく息を吐いた。
「……大丈夫です。意識を失っているだけです」
「本当に?」
「はい。ただ……」
ライラックは眠るように目を閉じているアイリスを見る。
「完全に限界を超えています。しばらくは動かさない方がいい」
「まったく……」
リリーは安堵したように息を吐く。
そして、腕の中のアイリスを見下ろした。
「何が『大丈夫です』よ……」
返事はない。
先ほどまでアイリスの全身を覆っていた光も、すでに消えていた。
ただ――。
ライラックだけは、その姿を険しい表情で見つめていた。
神力を武器へ纏わせるのではなく。
自らの肉体へ巡らせ、限界を迎えた身体を動かす。
少なくとも、ライラックはそんな神力の使い方を知らない。
「……今のは、一体……」
その問いに答えられる者は、ここにはいなかった。
だが――。
直後。
天井から小石が落ちた。
聖光に照らされ、小さな石片が地面へ転がる。
「……ん?」
アルベルトが顔を上げる。
次の瞬間。
バキッ――。
天井に大きな亀裂が走った。
「まずい!」
洞窟全体が大きく揺れる。
先ほどまでの激しい戦闘。
さらに、瘴気の流入経路となっていた壁面を大きく破壊したことで、地下空間そのものが崩れ始めていた。
「ここは崩れる! 急いで脱出するぞ!」
「でも、アイリスが!」
「俺が背負う!」
アルベルトは大盾をその場へ投げ捨てると、リリーからアイリスを受け取り、その小さな身体を背負った。
「ガルドさん!」
「ああ!」
ガルドが自分の剣を収める。
そして地面へ転がった黄金の十字架型メイスへ手を伸ばした。
「……相変わらず、とんでもない武器だな」
両手で持ち上げ、肩へ担ぐ。
「行くぞ!」
アルベルトがアイリスを背負ったまま走り出す。
ガルドもメイスを担いで続く。
リリー、ライラック、ダリアも後を追った。
頭上の二つの聖光も、一行を追うように通路を移動する。
白い光が揺れる洞窟の中を、六人は全力で駆けた。
背後で岩盤が崩れ始める。
轟音が通路を追いかけてくる。
「急いで!」
ダリアが叫ぶ。
「前方はまだ通れます!」
ライラックが周囲を確認しながら走る。
アルベルトは背中のアイリスを片腕で支えながら進む。
「アイリス、起きて!」
隣を走るリリーが声を掛ける。
「……」
返事はない。
「もう、本当に……!」
「説教は後にしろ!」
ガルドが黄金のメイスを担いだまま叫ぶ。
「分かってる!」
さらに大きな揺れ。
天井から岩が崩れ落ちる。
「前!」
ライラックが叫ぶ。
全員が咄嗟に足を止め、飛び退く。
直後、大岩が通路へ落下した。
「塞がれた!」
「いや、横を抜けられる!」
アルベルトが指差す。
聖光が照らした先。
僅かに残った隙間が見える。
一人ずつなら通れる。
「先に行け!」
ライラック。
ダリア。
リリー。
次々と隙間を抜ける。
続いてガルドが、黄金のメイスを先に通してから身体を横にして抜ける。
最後にアルベルトが、背負ったアイリスを庇いながら慎重に通過した。
直後――。
背後の岩盤が完全に崩れた。
「危なかった……!」
「止まるな!」
さらに走る。
そして――。
暗い通路の先。
聖光とは違う光が見えた。
「出口です!」
ダリアが叫ぶ。
自然の光。
洞窟の外から差し込む陽光だった。
全員が最後の力を振り絞って駆ける。
光が近づく。
洞窟の入口。
「外へ!」
一人。
また一人。
全員が洞窟の外へ飛び出した。
地上へ脱出した直後。
背後から轟音が響いた。
洞窟の入口が崩れ、大量の土煙が空へ舞い上がる。
全員がその場からさらに距離を取った。
しばらくして――。
揺れが収まる。
静寂が戻った。
役目を終えた二つの聖光も、やがて静かに消えていった。
「……終わったか」
アルベルトが大きく息を吐く。
「ああ……たぶんな」
ガルドも黄金のメイスを地面へ下ろした。
アルベルトはゆっくりと膝をつく。
背負っていたアイリスを慎重に地面へ下ろした。
リリーがすぐに駆け寄る。
「アイリス」
「……」
まだ意識は戻らない。
だが、呼吸は落ち着いている。
「本当に大丈夫なのよね?」
「ええ」
ライラックが再び状態を確認する。
「今すぐ命に関わるような状態ではありません。ただし、王都へ戻ったら必ず詳しく診てもらうべきです」
「当然よ」
リリーはアイリスの額へ掛かった髪をそっと払う。
「こんな無茶して……」
アルベルトが崩れた洞窟を見る。
「瘴気は?」
ダリアが目を閉じ、周囲の気配を探る。
しばらくして――。
「……ありません」
「完全に?」
「少なくとも、この周囲からは感じません」
ライラックも頷く。
「アスタロトの反応も消えています」
「なら、本当に終わったんだな」
ガルドが息を吐く。
だが――。
ライラックの表情は晴れなかった。
「……問題は残っています」
「卵のことか」
アルベルトが尋ねる。
「それもあります」
ライラックは崩れた祭祀遺跡を見つめる。
「なぜ、あの卵がここにあったのか」
「自然にできたものではない……?」
「少なくとも、私はそう考えています」
ダリアも険しい顔をする。
「誰かが持ち込んだ可能性が高いと?」
「断定はできません。ただ……」
ライラックは言葉を切った。
「偶然で片付けるには、不自然すぎます」
誰が卵をそこへ持ち込んだのか。
何のために、瘴気を集めていたのか。
そして――。
なぜアイリスは、あれほど自然に神力を身体へ巡らせることができたのか。
答えは、まだない。
アルベルトが眠ったままのアイリスを見る。
「とにかく、今は王都へ戻ろう」
「ああ」
ガルドが頷く。
「詳しい話は、それからだ」
リリーも立ち上がる。
「アイリスが起きたら、まず説教ね」
その言葉に、ダリアが僅かに笑った。
「かなり長くなりそうですね」
「当然」
リリーは即答した。
だが、その表情には安堵が浮かんでいた。
王都から遠く離れた場所。
光の届かない、暗い地下室。
いくつもの黒い結晶が、脈動するように淡く光っていた。
その一つが――。
ふっと、光を失う。
「……また浄化されたか」
闇の中で、誰かが呟いた。
「想定より早い」
その人物は、光を失った結晶へ手を伸ばす。
指先が触れた瞬間。
結晶は音もなく崩れ、黒い塵となった。
「だが……まだ問題ない」
周囲には、まだいくつもの結晶が残されている。
その一つ一つから、微かな瘴気が滲み出していた。
「一度に広げる必要はない」
瘴気が床へ落ちる。
そして――。
まるで水が土へ染み込むように、ゆっくりと地面の奥へ消えていく。
「少しずつでいい」
暗闇の中。
口元だけが僅かに歪む。
「この世界に、馴染ませればいい」
そして――。
残された黒い結晶の一つが。
赤黒く、脈打つように輝いた。




