第九話 神の島の「お姫様」
大三島での朝は、都会の目覚まし時計よりもずっと騒がしかった。
「安成様! いつまで寝ておいでですか! ほら、安舎様がお呼びですよ!」
襖を乱暴に開けたのは、身の回りの世話を焼く老婆・カメだった。彼女は航(安成)が記憶を失っていることなどお構いなしに、畳の上に水の入った桶をドスンと置く。
「……う、あと五分……」
「何を寝ぼけたことを。ほら、顔を洗いなされ!」
強引に絞った冷たい手ぬぐいを顔に押し付けられ、航は完全に目が覚めた。
外に出れば、境内の掃除をしている若い兵たちが「安成様、おはようございます!」「昨日の太刀筋、見事でした!」と屈託のない声をかけてくる。
彼らにとって、安成は恐ろしい上官というよりは、少し年の離れた、共に飯を食う兄貴分といった風情だ。
「おーい、越智殿、こっちへ来てくれ」
声をかけてきたのは、大祝安舎だった。彼は神職らしい厳かな衣を纏っているが、航を見る目はどこか呆れたような、身内特有の苦笑が混じっている。
「鶴がまた朝からいなくなった。どうせ裏の浜だろう。連れ戻してやってくれないか。あいつは一度没頭すると、潮が満ちるのも忘れるからな」
「……分かりました。鶴姫様を連れ戻して参ります」
航が裏の入り江へ向かうと、そこには案の定、波打ち際で屈み込んでいる少女の姿があった。
鶴姫だ。昨日の凛とした巫女姿ではなく、裾を膝まで捲り上げ、泥にまみれて何かを探している。
「鶴姫様。……何をしておいでですか、そんなところで」
声をかけると、彼女はビクッとして肩を揺らし、獲物(?)を背中に隠した。
「あ、安成様……。別に、何もしておりません。大三島の海に異常がないか、検分していただけです」
「検分って……顔に泥がついていますよ、お姫様」
航が指差すと、彼女は慌てて袖で顔を拭ったが、余計に泥が広がった。
「……それ、見せてくれないか」
航が背後に回ろうとすると、彼女は「ああっ、ダメです!」と逃げ回る。
結局、根負けした彼女が差し出した手のひらには、小さな、形の良い桜貝がいくつか乗っていた。
「……貝殻?」
「……安房兄様が、昔教えてくれたのです。この浜には、願いが叶う貝が落ちているって。……笑わないでください。子どもっぽいのは分かっています。でも、安房兄様が死んでから、この貝がちっとも見つからなくて……。今日、やっと見つけたのです」
さっきまでの強がりはどこへやら、彼女は少しだけ鼻を啜り、貝殻を愛おしそうに見つめている。
戦場では兵を鼓舞し、神前では冷徹なまでに気高く振る舞う彼女の、これが十七歳の素顔だった。
「笑わないよ。……安舎様が呼んでる。さあ、戻ろう」
「……はい。あ、安成様、このことは安舎兄様には内緒ですよ? また『大祝の娘がはしたない』と説教されてしまいますから」
鶴姫はそう言うと、泥だらけの足で砂浜を駆け出した。
「ほら、安成様! 早くしないと置いていきますよ!」
「おい……、鶴! 走ると危ない!」
航は「鶴」とつい呼び捨てにしてしてしまった。
鶴姫は少し頬を赤らめ、嬉しそうに鈴を鳴らしながら走って行く。
鈴の音を響かせながら笑う彼女の後ろ姿を見ながら、航はふと思った。
彼女は、大人びているのではない。大人びた「フリ」をしなければ、この島を守れないのだ。
(……この子が、普通に貝殻を拾って笑っていられる場所。……それを作るのが、俺の仕事なのかもしれないな)
現代の会社で、誰のために役立っているか分からなかった膨大な書類。それに比べれば、目の前で泥だらけになって笑う少女を守るという目的は、今の航にとって、あまりにシンプルだった。




