第八話 鈴音の鳴る庭で
大戦からさらに数日が経ち、大三島には束の間の平穏が戻っていた。
越智安成としての生活は、驚くほど規則正しい。夜明けとともに大山祇神社の境内の掃除を手伝い、午前は水軍の練兵を検分し、午後は鶴姫の身辺の守りに就く。
「安成様、また難しい顔をしていらっしゃいますね」
回廊を歩いていた航の背中に、涼やかな声がかけられた。
振り返ると、そこには籠を抱えた鶴姫が立っていた。
戦場での凛々しい姿とは打却して、今の彼女は、どこにでもいる年相応の少女のような、柔らかな空気を纏っている。
「……ああ、いや。この島の人たちが、あまりに普通に暮らしているのが不思議でね」
「普通、でございますか?」
「うん。あんなに激しい戦いの後なのに、みんな笑って、耕して、祈っている。……俺がいた場所じゃ、考えられないことだと思って」
航は、都会の駅で死んだ魚のような目をしていた自分や同僚たちを思い出し、自嘲気味に呟いた。対する鶴姫は、籠の中から真っ赤に熟した野いちごを一粒摘み取ると、航の手のひらに乗せた。
「ほら、食べてみてください。泥にまみれても、命はこうして甘い実をつけます。私たちは、この『普通』を守るために戦っているのです。戦うことそのものが目的ではございません」
航は渡された実を口に放り込んだ。野生の、刺すような甘酸っぱさが広がる。
(……これが、命の味、か)
理屈ではなく、生きるということにこれほど真っ直ぐな言葉を、航はこれまでの人生で聞いたことがなかった。
「安成様、少しあちらの木陰で休みましょう。今日は安舎兄上も神事に忙しく、私を呼び出す者はおりませんから」
二人は大楠の根元に腰を下ろした。鶴姫は籠から不恰好な握り飯を取り出し、一つを航に差し出す。
「形はともかく美味しそうだ」
「もう!形はともかくは余計です」
鶴姫は頬をふくらませる。
「以前の安成様は、私の料理など見向きもされませんでしたが……今のあなたは、少しだけ、優しくなられましたね」
「……そう、かな」
航は言葉を濁し、握り飯を頬張った。
隣に座る彼女から、微かに潮の香りと、清涼な鈴の音が漂ってくる。自分を「右腕」として疑わず、信頼の眼差しを向けてくる彼女に対し、航は申し訳なさにも似た、落ち着かない感情を抱いていた。
(この子は、俺じゃない『安成』を見ている。……でも、その安成が命を懸けて守ろうとしたのは、この少女なんだな)
鶴姫が、ふと海の方を見つめる。
「安成様のいた未来には争いは無くなっていますか?」
「ああ、時には辛いこともあるけど、みんな幸せに暮らしているよ」
「そうなのですね。私はね、安成様。いつかこの海から争いがなくなったら、ただの巫女として、この大楠の下で一生を終えたいと思っているのです。……安房兄上の分まで、この島を見守って」
一瞬、嬉しそうな彼女の瞳に寂しげな陰が差した。それは、身内を亡くし、若くして軍を率いる役割を背負わされた、十七歳の少女の素顔だった。
現代で「仕事」という役割に潰された航にとって、彼女の背負う「宿命」はあまりに重く、そして尊く見えた。
好意というよりは、畏怖に近い感情。そして、自分を救ってくれたこの平穏を壊したくないという切実な願い。
「……俺に、何ができるかは分からないけど」
航は、自分の手を見つめて言った。
「君の右腕として、隣にいる。今はそれしか言えないけど……その役割だけは、放り出さないつもりだ」
「……安成様」
鶴姫は驚いたように航を見つめ、それから鈴を転がすように小さく笑った。
「十分でございます。あなたがそこにいてくださるだけで、私は……」
彼女が何を言おうとしたのか、風が吹き抜けて聞き取れなかった。
ただ、大楠の葉音に混じって響く鈴の音が、今の航にはひどく脆く、守るべきもののように感じられた。




