第七話 大楠の守り人
大山祇神社の奥に位置する屋敷では、戦の喧騒が嘘のような静寂が流れていた。
航――今は安成と呼ばれている彼は、鶴姫に促されるまま、奥の間に腰を下ろした。
「……鶴姫様、驚かずに聞いてほしい。俺は、君たちが知っている安成じゃないんだ」
「え……?」
茶を注ごうとしていた鶴姫の手が止まる。航は真っ直ぐに彼女を見つめた。
「俺の名前は村上航。何百年も先の未来から来た人間なんだ。気づいたら、越智安成になっていた。信じられないかもしれないが……これが真実だ」
鶴姫は目を丸くした。だが、航の真剣な面持ちに、次第にその表情が強張っていく。今の彼の妙に丁寧な言葉遣い。自分を見る、何も知らない真っ新な目。
「ま、まさか……。安成様、戦の疲れで頭がおかしくなったのではございませぬか? 未来だなんて……そんなお伽話、信じられませぬ!」
鶴姫は思わず身を乗り出し、航の袖をぎゅっと掴んだ。その瞳には、少女らしい動揺と恐怖がはっきりと浮かんでいる。
「本当に、安成様ではないのですか……? では、本物の安成様はどこへ……っ」
「分からない…」
航が静かに答えると、鶴姫は唇を噛んで黙り込んだ。
信じたくない。けれど、目の前の男の目は絶対に嘘を吐いていない。それに、これまでの戦での頼もしさに比べ、今の彼は……なんだか酷く優しくて、少し頼りない。
鶴姫はゆっくり手を離すと、ふいっと顔を背け、少しだけ頬を膨らませた。
「……やはり、俄には信じられませぬ。信じられませぬ、けれど……あなたの目は、嘘を吐いているようには見えませぬから」
まだ納得のいかない戸惑いを顔に残しながらも、鶴姫はどこか自分に言い聞かせるように、再び航の目をしっかりと見据えた。
「しかし、安成様、大山積大神の加護が、あなたを現世に繋ぎ止めてくださったのです」
鶴姫は、安堵したように茶を差し出した。
彼女が語る言葉から、航はこの世界の輪郭を少しずつ掴んでいった。
ここは戦国。大内氏という巨大な勢力が瀬戸内の覇権を狙い、幾度となくこの大三島へ押し寄せていること。そして、神職の家系である大祝家を筆頭に、大三島の民が一致団結してこの聖域を護っていること。
「俺たちが護っているのは、単なる島じゃない。この神域そのものなんだな」
航の言葉に、鶴姫は深く頷いた。
「左様にございます。私たちは三島水軍。海の神、戦の神の御前で、この海を汚す者を許しはいたしません」
それからの数日間、航は「安成」としての日常を過ごすことになった。
現代の会社員時代、朝は缶コーヒーと満員電車で始まっていた。だが、ここでは夜明けとともに聞こえる鶏の声と、神社の境内で響く武芸の稽古の音で目が覚める。
ある朝、航は境内の巨大な大楠の下にいた。
現代で見た時よりも、樹勢は遥かに力強く、その枝葉は空を覆い尽くさんばかりに広がっている。
「安成様、今日もここで物思いですか?」
背後から、鈴の音とともに鶴姫が現れた。今日は戦装束ではなく、柔らかな白衣に緋袴の巫女姿だ。
「……ああ。この木を見ていると、不思議と心が落ち着くんだ」
「この大楠は、私たちの魂の拠り所ですから。安成様が正体を失われていた時、私もこの木の方へ向って祈り続けました」
鶴姫は航の隣に並び、太い幹にそっと手を触れた。
「不思議ですね。かつての安成様は、もっと……そう、隙のない武人のようでしたが。今のあなたは、まるで遠くからこの島を見守っている神様のような、穏やかな目をしていらっしゃいます」
「そうかな。……ただ、この島の空気や、流れる時間が、自分の中にゆっくり染み込んでくるのを感じてるんだ」
都会での仕事は、常に「数字」と「期限」に追われるものだった。だが、この大三島で鶴姫と過ごす時間は、潮の満ち引きのようにゆったりとしていて、それでいて確かな生命の鼓動があった。
不意に、風が大楠の葉を揺らした。
ザワザワという葉音に混じって、鶴姫が小さく笑う。
「さあ、安成様。今日は浜で、三島の衆が新しい舟の進水式を行います。お頭として、顔を出してやってください」
「ああ、分かった」
混乱していた航の心は、この神聖な島での、何気ない、けれど贅沢な日常の中に、少しずつ自分の「居場所」を見出し始めていた。




