第六話 宿命の覚醒
「舵を戻せ! 敵の隙間を突くぞ!」
航の口から飛び出したのは、自分でも驚くほど迷いのない怒号だった。
なぜそんな言葉が出たのか、自分でも分からない。ただ、荒れ狂う海面を見つめていると、潮のわずかな揺らぎや波の高さ、風の向きが、まるで手に取るように「視えて」しまったのだ。
「安成様に続け! 安成様が立たれたぞッ!」
沈みかけていた男たちの士気が、一気に跳ね上がる。航の指示通り、三島水軍の小早船は大内軍の巨艦の死角へと滑り込んだ。
火矢が放たれ、敵の帆が炎に包める。航は混乱の中にありながら、無意識に刀を抜き、迫りくる敵を退けていた。その動きは、都会でキーボードを叩いていた男のそれではない。まるで何十年もこの海で戦ってきたかのような、血に刻まれた身体の記憶だった。
やがて、大内氏の船団が瀬戸内海の急流に抗えず撤退を始める。
勝ち鬨が、海を震わせた。
「……勝った。本当に、勝ったのか……」
航は返り血を浴びたまま、甲板に膝をついた。
刀を握る手の震えが止まらない。しかし、その震えは恐怖だけではなく、身体の奥底から湧き上がる、奇妙な高揚感を伴っていた。
「安成様!」
鶴姫が駆け寄り、航の身体を強く抱きしめる。「チリン」と、勝利を祝うかのように鈴の音が優しく響いた。
島に戻った軍勢は、大三島の玄関口である宮浦へと上陸した。
(まるで違うけど、見慣れた景色だ…ここは本当に大三島なんだ)
「安成様、行きましょう」
しばらく歩くと、青々とした葉を湛えた巨大大楠と古き歴史が刻まれた大社にたどり着いた。
「ここは、大山祇神社…」
日本総鎮守――大山祇神社
そこは現代の大山祇神社と変わらず、厳かな空気に包まれていた。
ただ現代と違うのは、鶴姫の父・大祝安用の後を継ぎ、大祝職として神事を司る長兄・安舎が待つ、三島水軍の本拠でもあった。
屋敷の一室。開け放たれた障子の向こうには、あの巨大な大楠が見える。
「安房…武運つたなく力尽きたか……」
大祝安舎が無念の表情を浮かべる。
「ひとまず大内勢は撃退しましたが、欲深い大内義隆はまた軍勢を差し向けて来るでしょう」
「しかし、越智殿、鶴、そなたたちが無事で何よりだ」
「兄上、これより私が陣代となり三島水軍を束ねてまいります。安房兄上の無念を晴らしてみせます」
「相分かった。かねてより、鶴の武勇は目を見張るものがあった。しかし鶴、そなたはまだ十七、女人でもある。越智殿、どうか鶴を助けてやってはくれまいか」
「は、はい…」
航は戸惑いながらもそう答える他なかった。
航は鶴姫の自室へ案内される。
鶴姫は静かに、そして悲痛な面持ちで語り始めた。
「安成様、無理もございません……。安房兄上が討ち死にされ、あなたはご自身を責めておられた。それが、あなたの心を閉ざしてしまったのでしょう」
航の中に安成の記憶が流れ込む。
越智安成は、戦死した次兄・安房の右腕として、共に戦場を駆けてきた男だった。
長兄・安舎が大祝として神域を護る一方で、武の要であった安房の死は、三島水軍にとって、そして安成にとってあまりに大きな傷跡を残していた。
「ですが安成様、あなたは今日、再び立ち上がってくださいました。大祝を継がれた安舎兄上も、あなたの無事を喜んでおられます。あなたが私の右腕としていてくださらなければ、私は……」
「……越智安成。それが、ここでの俺の名前で、俺の居場所なんだな」
航は、庭に立つ大楠を見つめた。
現代では、九年の仕事でボロボロになり、居場所を失った「村上航」だった。しかし今、この時代では、戦死した安房の遺志を継ぎ、鶴姫を支え、大祝家を守護する「右腕」としての使命が彼を待っている。
「分かりました。俺が安成だというのなら、そうあろうと思います。あなたの右腕として、この島を護るために」
航は静かに、その運命を受け入れた。
今この瞬間に感じている鶴姫の体温と、潮の匂いだけは、東京で過ごしたどの毎日よりも鮮烈な現実だった。
「しかし……安成様。以前よりも、どこか雰囲気が柔らかくなりましたね」
鶴姫が、今日初めて戦う者の顔を崩し、年相応の少女のような笑みを浮かべた。
明日からの生活がどうなるかは分からない。だが、今はただ、この静かな風の中で、彼女と過ごす日常が始まろうとしていた。




