第五話 狂乱の海原
「……村上だ。俺の名前は、村上航だ」
自分に言い聞かせるように呟いたが、その声は飛沫と怒号に一瞬でかき消された。
船首に立ち、改めて周囲を見渡した航は、ただただ圧倒されていた。
そこには、テレビや映画で見たような整然とした合戦の姿などない。視界を埋め尽くすのは、巨大な木の塊が水飛沫を上げて衝突し、男たちが獣のような声を上げて殺し合う、凄惨な現実だった。
「鶴姫様!大内勢が迫ってきております!」
「お頭! 何を呆けておられる! 敵の矢が来ますぞ!」
横から突き飛ばされるようにして、航は甲板に這いつくばった。その直後、先ほどまで彼が立っていた場所に、太い矢が何本も突き刺さった。乾いた木の割れる音が、耳元で恐ろしく響く。
「……何なんだ、これ……本当に何なんだよ!」
喉の奥からせり上がる吐き気を必死に抑え込む。
鼻を突くのは、焦げた火薬の臭いと、生々しい血の匂いだ。
足元の甲板は滑り、周囲では男たちが弓を引き、槍を構えている。それらすべてが、昨日まで自分がいた、冷房の効いたオフィスや静かな実家の縁側とは、あまりにもかけ離れすぎていた。
「安成様、伏せて! 離れてはなりませぬ!」
鶴姫が航の身体を抱き込むようにして庇う。彼女の小さな体からは、想像もつかないほどの力強さと、それ以上に激しい心臓の鼓動が伝わってきた。
――チリン
地獄のような戦場の中で、その鈴の音だけが、唯一の清流のように航の意識を繋ぎ止める。
「……俺は、安成じゃない。人違いだ……」
弱々しく否定するが、鶴姫はそれを聞き入れる余裕さえない。彼女は涙を浮かべた瞳で、真っ直ぐに航を見つめていた。
「いいえ、あなたは私の安成様です。あなたが倒れてしまえば、大三島の者たちは、誰を信じて戦えばよいのですか!」
航は、彼女の瞳に映る「自分」を見た。
そこには、疲れ果てて逃げ出した現代のサラリーマンではなく、一族の命運を背負わされた「越智安成」という名の武将の姿が投影されていた。
不意に、船が大きく傾いた。
敵船が横腹を突きにきたのだ。衝撃で船体が悲鳴を上げ、水夫たちが海へと投げ出される。
(死ぬ。ここにいたら、本当に死ぬんだ)
論理的な思考は完全に停止していた。ただ、生き延びたいという本能と、今も自分の手を握りしめて離さない少女の熱が、航を突き動かした。
「……舵を、舵を回せ! 潮に逆らうな!迂回して敵の横腹を突け!!!」
それが正しい指示なのかさえ分からない。ただ、目前に迫る巨大な船体から逃れたい一心で、航は叫んでいた。その声は、かつて都会で上司に殺されていた、彼の野性的な叫びだった。




