第十話 月下の静寂
大三島に夜が訪れる。
都会の夜のように街灯が景色を塗りつぶすことはない。そこにあるのは、吸い込まれるような闇と、それを照らす圧倒的な星々の輝きだけだった。
航は、慣れない鎧の手入れを終え、寝所に就く前に少し風に当たろうと縁側に出た。
すると、境内の外れにある石段に、一人で腰掛けている影を見つけた。
「鶴……?」
声をかけると、影が小さく跳ねた。
振り返ったのは、月光を浴びて透き通るような肌をした鶴姫だった。彼女の膝の上には、昼間拾っていたあの桜貝の貝殻が並べられている。
「安成様。……あなたも、眠れないのですか?」
「ああ、少し。……隣、いいかな?」
航が静かに隣に座ると、潮の香りと、彼女の纏う清涼な香木のような匂いが混じり合って鼻をくすぐった。
昼間の泥だらけの姿とは違う、月下の彼女はどこか浮世離れした美しさを放っている。
「安成様。……怖いのです」
ぽつりと、彼女が漏らした。
「戦場では、迷う暇などありません。けれど、こうして静かな夜になると……次に大内の船が水平線に見えた時、私は安房兄上のように兵を鼓舞できるだろうか、と。安房兄上のように、大三島の民を守って死ねるだろうか、と」
彼女の指先が、貝殻をそっとなぞる。
その横顔は、昼間の「子どもっぽさ」とも、戦場の「お頭」とも違う、震えるような孤独に満ちていた。
現代社会に押しつぶされた航には、その重圧は想像できない。彼女が背負っているのは、単なる仕事の責任ではない。数千という民の命と、数百年続く神域の歴史だ。
「……鶴。あなたは、一人で背負いすぎている」
航は、自分でも驚くほど自然に、彼女の震える肩に手を置いた。
「俺は……安舎様からあなたの右腕になってくれと言われた。俺もそうなりたいと思っている。なら、あなたの恐怖も半分、俺に預けて欲しい」
「安成様……」
「俺は、立派な武士のようなことは言えない。でも、あなたが明日も笑えるように、あなたが貝殻を拾って遊べる島を守るために、俺の命を使いたい。……そう、心から思っているんだ」
鶴姫が、ゆっくりとこちらを向いた。
月光に照らされた彼女の瞳に、航の姿が映り込む。彼女の瞳が潤み、一筋の涙が頬を伝った。
「安成様。……あなたは、変わられましたね」
彼女は小さく、けれど確かな温もりを伴って、航の腕にそっと頭を預けてきた。
「チリン」と、微かな鈴の音が耳元で鳴る。
その瞬間、航の胸の奥で、何かが静かに、けれど激しく音を立てて崩れた。
今まで「自分ではない誰か」の居場所を守っていると思っていた。だが、今、この腕の中にいる少女の体温を感じた瞬間、彼は悟った。
(……俺は、この子を守るためにここにいるんだ)
現代の村上航としての過去も、どうでもよくなった。
ただ、この少女を、この笑顔を、この涙を守りたい。
それは、かつての忙殺された日常では決して味わえなかった、魂が震えるような「恋」という名の覚醒だった。
「そうだ!」
航は何かを思いつき部屋の奥へ入る。
しばらくして戻って来た航は、鶴姫の膝の上の桜貝から穴の空いたものをいくつか手に取り、絹糸を通す。
そして、それを鶴姫の首に掛けた。
「願いが叶うお守り…きっと大丈夫…」
「綺麗…」
鶴姫は首飾りをそっと撫でる。
「……安成様。あたたかいですね、あなたは」
鶴姫の呟きは、瀬戸内の夜風に溶けて消えた。
航は、彼女の肩を抱く手に、静かに力を込めた。月の光が、二人の影を静かに一つに結んでいた。




