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凪の鈴音 〜大三島、悠久の出逢い〜  作者: nyancos


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第十九話 朝凪の目覚め

 深い、深い碧の底から、ゆっくりと意識が浮上していく。


 水音も、風の音も、何も聞こえない完璧な静寂の中から、徐々に世界の輪郭が戻ってきた。


「……航、航。おい、船酔いか? 随分長く居眠りしていたな」


 低い、聞き馴染みのある声に、航はハッと目を開けた。


 視界に飛び込んできたのは、日に焼けた古いFRP製の船べりと、その向こうに広がる、穏やかな現代の瀬戸内海。そして、舵を握りながら心配そうに自分を覗き込んでいる、祖父・宗次郎の顔だった。



「じい、ちゃん……?」



 その瞬間、世界を包んでいた「凪」が終わりを告げるように、サァァ、と乾いた潮風が吹き抜け、航の頬をなでた。遠くで、漁船のエンジン音が小さく響いている。


「顔色が悪いぞ。じきに港に着くから、帰ったらゆっくり休め」


「あ……ああ、うん。大丈夫……」


 航は自分の両手を見つめた。

 胸の奥から、理由のわからない深い悲しみが突き上げてきた。

 心臓が痛いほどに締め付けられる。けれど同時に、すべてはただの「夢」であったのだという事実に、心のどこかで深く安堵していた。


(なんだったんだろう、不思議な夢を見ていた気がする……。すごく、大切な人がいたような……)


 立ち上がり、水平線から昇る眩しい朝日を眺める。


 陽光が海面をキラキラと黄金色に染め上げていく。その美しさに目を細めた瞬間、航の頬を、一筋の熱い涙が伝い落ちた。


 なぜ泣いているのか、自分でも分からない。ただ、朝日が昇るにつれて、夢の記憶は、波に洗われる砂の城のように、サラサラと音を立てて薄れ、消え去っていく。そして、手の届かない遠い彼方へと霧散していった。



――


 陸に上がり、実家に帰ると、どこか懐かしい磯の香りと共に家族の温もりが航を迎えてくれた。


 居間の食卓を囲み、久しぶりに家族全員で朝食をとる。


 お味噌汁の湯気が優しく立ち上る中、父・正一が焼き魚を箸でほぐしながら、ボソリと口を開いた。


「航。無理に東京へ戻らなくても、うちの農園で働いたら良い。お前の居場所くらい、いくらでも作ってやれるんだからな」


 東京から帰省してきた息子の様子を、父親なりにずっと心配していたのだろう。


 その不器用な優しさに、続いて母の薫も、お茶を淹れながら朗らかに笑いかけた。


「そうよぉ。何も明日急いで戻らなくってもねぇ。もうちょっとこっちで美味しいものでも食べて、のんびりしなさいな」


 実家の温かさが、凝り固まっていた航の心を少しずつ解きほぐしていく。


 祖父の宗次郎は、多くを語ることはしなかった。ただ、黙って静かに、どこか深い眼差しで航の顔を見つめながら、お茶をすすっているだけだった。


「ありがとう。……でも、大丈夫だよ」


 航は微笑んだ。


 夢の記憶はほとんど消え失せてしまった。けれど、胸の奥底に新しく刻まれたような、不思議な「誇り」と「覚悟」だけは、確かに残っていた。


 逃げるのではなく、もう一度、自分の戦場で戦ってみよう――そんな前向きな意志が、不思議と湧き上がってくる。



――


 翌朝、まだ星が残る夜明け前。

 航は出発の準備を整え、静かに実家の玄関を出た。


「送っていこうか?」


 見送りに立とうとする父親に、航はバッグを肩にかけ直して首を振った。


「ううん、いいよ。まだ早いし。懐かしい景色をのんびり眺めながら、停留所まで歩いて行くよ」


「そうか。じゃあ、身体にだけは気をつけるんだぞ」


「うん。行ってきます」


 パタン、と静かにドアが閉まる。


 まだ薄暗い朝の空気を吸い込みながら、航は静かな田舎道を歩き始めた。遠くから、小さく潮騒の音が聞こえる。


 家を出てすぐの角を曲がったところで、バスの時間を確かめようと、ふとポケットからスマートフォンを取り出した。


 その瞬間、スマートフォンに引っかかったのか、ポケットの奥から小さな「何か」が滑り落ち、アスファルトの地面へと転がった。



――チリン



 薄闇の静寂の中に、驚くほど澄んだ、どこか懐かしい鈴の音が響き渡る。


(え……?)


 航の動きが、完全に止まった。

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