第十八話 凪の海に還る
大内軍の船団が遺した黒煙は、夕暮れの空へと静かに溶けていった。
宮浦の港は、勝利の歓声ではなく、重苦しい静寂と、生き残った兵たちの低い啜り泣きに包まれていた。
大内勢を壊滅へと追いやり、大三島の海を守り抜いた。だが、その対価はあまりにも大きすぎた。
境内の大楠の下には、物言わぬ姿となった航――越智安成の遺体が、静かに横たえられていた。
戦いを終えた鶴姫は、血に染まった大薙刀をそっと置き、彼の傍らに膝を突いた。
「安成様……。いえ、航……敵は、すべて追い払いましたよ……」
声をかけても、頬に触れても、愛する人は二度と微笑まない。
先の世からやって来て、この島で自分の「右腕」として、そして一人の男として自分を支え続けてくれた人。
あの大楠の周りを、必死に息を止めて歩き、永遠を誓い合った記憶が、鮮明な痛みとなって彼女の胸を締め付ける。
鶴姫の心の中から、生きるための灯火が、音を立てて消え去っていくのが分かった。航のいない世界は、彼女にとって、光を失った果てしない闇と同じだった。
「魂は共にある……。あの大楠のもとで会おう、と、そう言いましたね」
鶴姫は静かに立ち上がると、航の亡骸に一度だけ深く一礼し、誰にも行き先を告げぬまま、一人で夜の帳が下りつつある浜辺へと歩き出した。
――
寄せては返す波が、鶴姫の足元を濡らす。
彼女の胸元には、かつて航から贈られた、淡く美しい「桜貝の首飾り」が結ばれていた。
大祝の娘として、この島を守るために生きてきた。陣代として、多くの命を背負って戦ってきた。そのすべての役目を、今、終えた。これからは、ただ一人の少女として、愛する人のもとへ赴くだけだった。
鶴姫は首飾りを愛おしげに右手に握りしめ、冷たい海の中へと一歩、足を踏み入れた。
「航。今、あなたのところへ参ります」
水が膝を、腰を、そして胸を浸していく。
その時だった。
――チリン
鈴の音とともに、サァァ、とこれまで島を揺るがしていた激しい潮風が、嘘のようにぴたりと止んだ。
波の音さえも消え失せ、鏡のようになった海面が、満天の星空をそのまま映し出す。
――凪、世界が止まる。
まるで世界そのものが動きを止め、彼女の旅立ちを静かに見守っているかのような、完璧な静寂。
時空を超えてこの地に辿り着いた航と、その魂を全霊で愛した鶴姫。二人の過酷な運命を癒やすように、瀬戸内の海はどこまでも優しく、穏やかだった。
鶴姫は最後の息をそっと吸い込み、桜貝を強く握りしめたまま、星空を映す深い碧の中へと、静かにその身を沈めていった。
風のない、音のない世界で、二人の魂は再び巡り合い、約束の大楠へと還っていく。
大三島の海には、ただ、美しい凪だけが残されていた。




