第十七話 大楠の約束
「安成様――っ!!」
鶴姫の悲鳴が、戦場の喧騒を切り裂いた。
航の身体が、糸の切れた人形のように甲板へ崩れ落ちる。
「おのれっ!!!」
彼の背中から槍を血塗れで引き抜いた大内の兵へ、鶴姫は我を忘れて飛びかかっていた。渾身の力で振り下ろされた大薙刀が、敵の甲冑ごと肉を叩き斬る。
周囲の三島兵たちが必死の防壁を作る中、鶴姫は大薙刀を放り出し、航の身体を抱き起こした。
「安成様! しっかりしてください! 安成様!」
「がはっ……、つ、る……」
航の口から、鮮血が溢れる。
視界が急速に狭まり、現代のオフィスビルの明かりや、理不尽に怒鳴り散らされた記憶、家族の顔が走馬灯のように頭を駆け巡る。だが、最後に残ったのは、潮の匂いと、目の前で涙を流す一人の少女の顔だけだった。
武骨な安成の右手が、震えながら鶴姫の頬へと伸びる。その指先が、彼女の涙を赤く染めた。
「すまない……。俺のっ、……役目は……ここまでだ……」
「嫌です! 嫌です、置いていかないで! あなたは私の右腕でしょう!? ずっと隣にいると、あの大楠の下で――」
「ああ……約束、したな……」
航は、薄れゆく意識の底で、必死に微笑もうとした。胸の懐には、彼女から貰った鈴が、静かに眠っている。
「この身が……滅びようとも……俺の魂は……お前と共にある。……また、あの大楠のもとで、会おう……。必ず……」
握り返す鶴姫の手から、次第に力が抜けていく。
航の瞳から光が消え、掲げられていた右手が、どさりと甲板に落ちた。現代での未練をすべて捨て、この世界で愛する人のために命を燃やし尽くした男の、静かな最期だった。
「安成様? ……嘘でしょう? 目を開けてください、安成様―――っ!!」
鶴姫の絶叫が、燃え盛る海原に木霊する。
しかし、冷たくなっていく愛しい人は二度と答えない。
その瞬間、鶴姫の中で、何かが完全に弾け飛んだ。
流れ落ちていた涙が、ぴたりと止まる。ゆっくりと立ち上がった彼女の瞳は、底なしの深い絶望と、すべてを焼き尽くすほどの「怒り」に染まっていた。
「……大内の眷属ども……」
地獄の底から響くような声で呟くと、鶴姫は再び大薙刀を掴み取った。
その全身から放たれる凄まじい殺気と気迫に、周囲の三島兵だけでなく、攻め立てていた大内兵さえも恐怖に身を震わせ、一歩後退りした。
「一人残らず、この海の藻屑としてやる。……安成様の命を奪った罪、その血と肉で購え!!」
紅い衣を血に染めた鶴姫が、大内の軍勢へ向かって地を這うように疾走した。
それはもはや、戦いと呼べるものではなかった。
鶴姫の大薙刀が奔るたび、敵の首が飛び、四肢が裂け、甲板が血の海と化す。美しき鬼神に変貌した彼女の姿に、三島水軍の残存兵たちも「鶴姫様に続け!」「大内を叩き潰せ!」「皆殺しだ!」と、狂気的な咆哮を上げて後に続いた。
航、越智安成を失った悲しみは、水軍全体を死を恐れぬ狂戦士の集団へと変えていた。
航が遺した戦術的包囲網はそのままに、鶴姫の圧倒的な武力が大内の本隊を蹂躙していく。二百艘を誇った大内軍の巨船が、次々と炎上し、互いを巻き込んで沈没していく。
夕闇が迫る頃、瀬戸内の海は、大内の兵たちの死体と船の残骸で埋め尽くされていた。
圧倒的な物量を誇った周防の大内勢は、一人の少女の怒りによって、文字通り「壊滅」させられたのだった。




