最終話 魂の還る場所
アスファルトの上に転がったその鈴を、航は吸い寄せられるように見つめていた。
足元に落ちていたのは、現代の売店にはおよそ売っていないような、古めかしい、けれど見覚えのある一つの銀の鈴だった。
なぜ自分のポケットにこんなものが入っていたのか、理屈では説明がつかない。
航はしゃがみ込み、不思議に思いながらその銀の鈴をそっと拾い上げた。
冷たい金属が、手のひらに触れた――その瞬間だった。
――ドクン
心臓が跳ね上がり、脳裏に猛烈な勢いで記憶が逆流してきた。
墨を流したような宮浦の海。赤地の衣を翻して戦場を舞う美しい少女。焙烙玉の爆音と硝煙。そして、彼女の背中を守るために身を挺し、その腕の中で息を引き取ったあの瞬間。
「……鶴……っ!」
夢なんかじゃない。すべては、確かに自分が生き、命をかけて駆け抜けた現実だった。
航は激しい衝撃に打ち震え、ボロボロと目から涙を溢れさせた。
「俺はっ……俺は何でっ、こんな大切なことを忘れていたんだ……!」
村上航としての意識の底に眠っていた、前世の記憶。自分が鶴姫の右腕、越智安成の生まれ変わりなのだと、魂が完全に思い出した。
激しい喪失感と、彼女への狂おしいほどの愛が胸を突き上げる。
逢いたい。もう一度、あの笑顔に逢いたい。
航は荷物をその場に放り出すと、なりふり構わず走り出していた。夜明け前の薄暗い道を、涙を流しながら、ただひたすらに駆けていく。
――
息を切らし、気がつくと航は大山祇神社の境内に立っていた。
静まり返った社殿の奥。そこには、数千年もの時を超えて今なおそこにそびえ立つ、圧倒的な存在感の大楠があった。
かつて二人で並び、永遠を誓い合ったあの巨木だ。
「鶴……! 鶴、どこにいるんだ……っ!」
大楠の前まで駆け寄り、周囲を見回す。
だが、当然そこに鶴がいるはずもなかった。
目の前にあるのは、ただ静かに佇む現代の神社であり、彼女が生きた時代は遥か遥か、過去の彼方なのだ。
圧倒的な現実の壁を前に、航は膝を突きそうになる。だが、握りしめた手のひらの中で、鈴が微かにチリンと鳴った。
『必ず、共にこの大楠の下へ戻ると――』
あの時の約束が、耳元で甦る。
航は立ち上がると、銀の鈴を壊れんばかりに強く握り締めた。そして、深く息を吸い込み、完全に呼吸を止める。
(逢いたい……一目だけでもいい、鶴に逢わせてくれ……!)
一歩、また一歩。航は息を止めたまま、大楠の幹の周りを歩き始めた。
二周、そして三周。
心臓が早鐘を打つ。苦しさで意識が遠のきそうになるその最後の三歩を踏みしめた、その時だった。
――チリン
航の鈴の音とともに、サァァ、と吹いていた境内の木々のざわめきが、ぴたりと止んだ。
鳥の声も、遠くの街の気配も消え失せる。
――凪、世界が止まる。
時の流れさえもが止まったかのような静寂。
航は最後の一歩を終え、大きく息を吐き出しながら、祈るように前を向いた。
「……鶴……?」
しかし、大楠の前には、誰もいなかった。朝の木漏れ日だけが、静かに地面を照らしている。
奇跡は起きない。世界がどれほど静まり返ろうとも、過去は戻らないのだ。
「あ……あぁ……」
喉の奥から、乾いた声が漏れる。
胸を押し潰すような圧倒的な喪失感が、航を襲った。やはり自分は現代を生きる村上航であり、すべては過ぎ去った歴史の面影に過ぎないのだ。
航は力なく肩を落とし、溢れる涙を拭いもせず、逃げるようにその場から歩き出した。重い足取りで、大楠に背を向け、参道をゆっくりと歩いていく。
――
朝陽が参道を白く染め上げ始めていた。
静かな境内に、かすかな足音が近づいてくる。下を向いて歩く航の視界に、こちらへ向かって歩いてくる一人の女性の足元が映った。
すれ違う、その瞬間だった。
――チリン
航の耳元で、澄んだ、あまりにも美しい鈴の音が響いた。
自分のポケットの鈴ではない。すれ違った女性の側から、確かに聞こえた音。
航の身体が、雷に打たれたように硬直した。
ハッとして、弾かれたように振り返る。
数歩歩いたところで、その女性もまた、何かに導かれるように足を止め、こちらへとゆっくり振り返るところだった。
朝陽の光を背に受けて、その女性の胸元で、小さな、けれど淡く美しい「桜貝の首飾り」が静かに揺れていた。
(完)




