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凪の鈴音 〜大三島、悠久の出逢い〜  作者: nyancos


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第十四話 奇策の夜明けと、紅き伏兵

 夜明け前の宮浦の海は、墨を流したように昏く、どこか不気味なほどに静まり返っていた。


 だが、水平線の彼方には、大内軍の無数の帆影が、巨大な怪物の群れのように蠢いている。


 その数、およそ百五十艘。前回の戦いを遥かに上回る大船団が、夜明けの潮に乗って一気に大三島を圧殺せんと迫りつつあった。


「報告いたします! 敵の先陣を率いるのは、知将・小原中務丞隆言(たかのぶ)! 奴は堅実な男、我が方の数の少なさを見て、確実な各個撃破を狙ってくる構えです!」


 物見の武将が息を切らせて陣内に駆け込む。

 三島水軍の陣代として総指揮を執る鶴姫は、広げられた陣立図を睨みつけ、美しくも険しい表情を浮かべた。


「まともにぶつかれば、数の暴力に圧し潰される……」


 緊迫した空気が流れる中、一人の老練な武将が進み出て、図面の一点を指差した。


「鶴姫様、勝機は一つ。敵が堅実な知将であればこそ、この宮浦の入り口にある狭い瀬戸へと誘き寄せるべきです。あそこは日の出から半刻の間、底潮が複雑に渦巻く特異な地形。敵の大きな軍船ほど舵を取るのが難しくなるはず」


「だが、密集してこられれば、それこそ力押しで突破されるのではないか?」


 別の宿老が眉をひそめる。


 そこに、航が静かに声を挟んだ。


「その油断を逆手に取るのです。敵がこちらの罠を疑わず、狭い瀬戸の中へ我先にと密集してくるような――敵の警戒を完全に解く『無防備な囮』を放ちます。敵の足を完全に止め、引き付けたところで一気に奇襲をかけるのです」


「囮だと……? 一体、何を放つというのだ、越智殿」


 訝しむ諸将を前に、航は隣の鶴姫と視線を交わし、不敵な笑みを浮かべた。


「敵の裏をかく、最高の囮です。――鶴姫様、参りましょう」


 大内軍を討ち破り、大祝の家を、そして三島の海を守る。その重責を背負う鶴姫は、航の瞳に宿る知略を信じ、深く力強く頷いた。


「分かりました。三島水軍の命運、この一戦に懸けます!」



 

 朝陽が水平線から顔を覗かせ、海面を真っ赤な血の色に染め上げた。


 大内軍の先陣、小原中務丞の乗る安宅船が、宮浦の狭い海峡へと差し掛かる。


「ふん、三島水軍とやらの腰抜けめ。大軍に恐れをなして、一艘の舟も並べられぬか」


 小原は船楼から鼻で笑った。


 その時、朝靄の向こうから、一艘の小早

が、驚くほどの速さで滑り出して来た。

 大内方の兵たちが身構えたが、次の瞬間、全員が我が目を疑った。


 その船の舳先に立っていたのは、鮮やかな赤地の衣を羽織った、一人の美しい娘だった。風になびく紅い衣は、朝陽を浴びて燃えるように輝いている。

 娘はおもむろに袖を翻すと、戦場にはあまりにも不釣り合いな、妖艶で美しい舞を舞い始めたのだ。



「おい、見ろ! あれは……女ではないか?」


「水軍の戦場に、遊女が迷い込んできたか! こりゃ堪んねぇな!」



 大内方の兵たちから、どっと下卑た笑い声が湧き起こった。


 緊迫した戦場に突如として現れた華やかな紅、そして解き放たれる見事な舞。敵の兵たちは武器を構えることも忘れ、その物珍しい光景をひと目見ようと、我先にと身を乗り出して船を寄せ合い始めた。


 知将であるはずの小原すらも、「奴らの命運尽きて、我らに降伏の宴でも開くつもりか」と、口元を緩ませる。



 だが、その小早の舵を握り、必死に潮目を読みながら、限界まで敵の本陣へと船を近づけている男がいた。航である。


(引き付けろ……もっと引き付けろ。敵の全船が、この狭い瀬戸の中で完全に動きを止めるその瞬間まで……!)


 鶴姫の舞に目を奪われた大内軍の船は、互いにひしめき合い、完全に身動きの取れない過密状態を作り出していた。


 大内軍の安宅船と、鶴姫の乗る小早の距離が、わずか数十歩にまで縮まった。敵兵たちの弛緩した顔がはっきりと見える。


 その瞬間、航は舵を大きく切り、腹の底から叫んだ。


「今だっ! 放てっ!!」


――ドォォォン


 凄まじい轟音が響き渡る。


 周囲の島々の陰、そして海中から突き出た岩礁の裏から、伏せられていた三島水軍の軽快な関船が一斉に姿を現した。


「なっ……伏兵だと!? 騙された、全軍退け!」

 小原が目を見開いた時には、すでに遅かった。


 狭い瀬戸の中で密集しすぎた大内の巨船たちは、急激に変わり始めた底潮の渦に巻き込まれ、互いの船体をぶつけ合って大混乱に陥った。舵が効かない。前にも後ろにも進めない。


「包囲せよ! 火矢、焙烙、惜しむな! 敵の動きを完全に止めろ!」


 航の鋭い指揮のもと、三島水軍から放たれた無数の火矢が、赤い軌跡を描いて大内軍の船帆へと突き刺さる。


 導火線に火をつけられた焙烙玉が空中を舞い、敵の甲板で爆発を繰り返した。バリバリと木肌が裂け、たちまちのうちに海原は炎と黒煙の地獄絵図へと変わっていく。



 その爆炎と硝煙の向こうから、紅い衣を翻し、大薙刀を握り締めた鶴姫が、小原の乗る本陣の船体へと跳んだ。


「――われは大山積大神の申し子、三島水軍陣代・鶴姫なり! 立ち塞がる者は全て、撫で斬りにしてくれようぞ!」


 烈火の如き啖呵が、戦場に響き渡る。

 その瞳には、先ほどまでの舞姫の妖艶さは微塵もない。大三島を、そして愛する航との居場所を守るため、彼女は美しき鬼神と化していた。

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