第十三話 潮鳴りの報せと、交わす誓い
二人が亀老山から急いで帰って来ると同時、水平線の彼方から一艘の伝令船が、波を蹴立てて宮浦の港へと滑り込んできた。
「注進! 周防の大内軍、再び兵をまとめ、厳島を越えてこちらへ向かっております! その数、前回の倍以上!」
港に緊張が走る。休んでいた兵たちが一斉に立ち上がり、武器を手に取った。航の胸にも、冷たい火が灯るような感覚が走る。
「安成様!」
背後から声がし、振り返ると、そこにはすでに鎧の一部を身に着けた鶴姫が立っていた。
その表情からは先程までの甘さは消え失せ、凛とした「三島水軍の陣代」の顔に戻っている。
「安舎兄上が、奥の院で評定を開いております。参りましょう」
「……分かりました。すぐに向かいます」
二人は神社へと続く石段を駆け上がった。
評定の間では、長兄・安舎が陣立図を広げ、険しい表情で立ち尽くしていた。
「越智殿、よく来た。……敵は本気だ。村上水軍、河野水軍を合わせても我らは数で劣っている。だが、この大三島を奴らの足がかりにさせるわけにはいかない」
「当然です、安舎様。三島水軍の地の利を活かせば、数は覆せます」
航は潮の流れ島の配置をもとに進言する。
そんな航の姿を、鶴姫様は隣でじっと見つめていた。
評定が終わり、兵たちがそれぞれの持ち場へ散っていく中、航と鶴姫様は境内で二人きりになった。
そこには遥か古よりこの島を見守り続けてきた、圧倒的な存在感を放つ大楠がそびえ立っている。
風が強く吹き、大楠の葉が激しくざわめく。
「安成様」
鶴姫様が、航の鎧の袖をそっと掴んだ。
「私は、怖くはありません。大祝の娘として、この海に散る覚悟はできております。……けれど」
彼女の声が、微かに震える。
「けれど……あなたが、私の知らないどこか遠くへ行ってしまうのではないか。それが、何よりも怖いのです。今の安成様は、まるで行き先を知っている旅人のようで……時折、手が届かなくなるような気がして」
航は息を呑んだ。
「この大楠には、古くからの言い伝えがあります。『息を止めて幹の周りを三度回れば、願いが叶う』と。……安成様、私と共に、歩んでいただけますか」
「ああ、もちろん 」
二人は並んで大楠の前に立ち、深く息を吸い込むと、同時に呼吸を止めた。
――チリン
その時鈴の音と共に、風がやんだ。
――凪、世界が止まる。
一歩、また一歩。武骨な甲冑の擦れる音と、草を踏み締める音だけが響く。息が苦しくなり、心臓が早鐘を打つ。それでも二人は、互いの気配を隣に感じながら、必死に息を止めて巨木の周りを歩き続けた。苦しさの向こう側で、世界の雑音が消え失せ、ただ互いの存在だけが鮮明になっていく。
ようやく三度回り終え、同時に大きく息を吐き出した。その瞬間、航は現代のしがらみも、時空の壁も越えて、この時代で彼女と共に生き抜くという覚悟――永遠の愛を、魂に深く誓い合っていた。
航は、彼女の手を包み込むように握り返した。武骨な安成の指が、少女の細い指をしっかりと繋ぎ止める。
「鶴。俺はどこにも行かない。……俺がいた場所には、もう戻るべき場所なんてない。俺の居場所は、鶴がいて、この大楠があって、潮の匂いがする、この島だけだ」
航は、彼女の目を真っ直ぐに見つめた。
「大内が来ようが、誰が来ようが関係ない………俺は、生きる時も、死ぬ時も、鶴の隣にいよう。……いや、この身が朽ち果てようとも魂は鶴と共にある」
「……安成様」
鶴姫様は、堪えていた涙をこぼし、それから力強く頷いた。
「……分かりました。ならば私も、あなたの後ろには退きません。共に戦い、共にこの海を守り抜きます」
彼女は髪飾りの鈴を一つ外し、航の手のひらに乗せた。
「これは、私の魂の欠片です。これを身に着けていれば、大山積大神の加護と、私の祈りがあなたを護ります。……約束ですよ、必ず、共にこの楠の下へ戻ると」
「……約束します、鶴姫様」
航は受け取った鈴を懐に納めた。
「チリン」と、小さく、けれど確かな音が胸に響く。
もはや、迷いはなかった。
翌朝、夜明けとともに三島水軍の船団が港を出る。
水平線の向こうには、敵の無数の帆影が見え始めていた。
航は舵を握り、隣に立つ鶴姫様の凛々しい横顔を見つめ、静かに刀の柄を握り締めた。




