第十二話 大三島の風と、束の間の約束
「安成様、また私の後ろを歩いておいでですか?」
大三島の亀老山へと続く細道を歩きながら、鶴姫様が振り返った。
海を見下ろすこの場所は、島を一望できる特別な場所だ。航は、彼女の影を踏まないよう、一歩引いた位置で剣の柄に手を置いていた。
「護衛だからな。……それに、ここからの眺めは、鶴を邪魔せずに見るのが一番だと思ってね」
「ふふ、以前のあなたなら『さっさと歩け』と私の背中を小突いていたでしょうに」
鶴姫様は楽しげに笑い、道の脇に咲く名もなき野花を指先で弾いた。
その仕草は、戦を司る「陣代」のそれではなく、ただ散歩を楽しむ少女のそれだ。
航はその横顔を盗み見ながら、自分の中に芽生えた感情の正体を、ゆっくりと反芻していた。
現代の自分は、誰かに必要とされることを「重荷」だと感じていた。役割を押し付けられるたびに心は削られ、自分を摩耗させていた。
だが、この世界で鶴姫の「右腕」として生きることは、どういうわけか、削られた心を逆に満たしていく。
「安成様。見晴らしの良い場所に出ましたよ。見てください。海が、あんなに穏やかです。ここでお昼にいたしましょう」
亀老山の頂に到着すると、視界が一気に開けた。
正午の太陽が真上から照らす瀬戸内の海は、まるで無数の宝石をちりばめたように青く、眩しくきらめいている。
二人は大きな木の木陰に腰を下ろした。鶴姫様が差し出してくれたのは、竹の皮に包まれた握り飯だ。
「大三島の塩で結んだものです。兵たちに配るものと同じですが……お口に合いますか?」
「最高だ。形はともかく、鶴と食べると余計に美味く感じるな」
「もう!一言余計です」
航が大きく頬張ると、鶴姫様は嬉しそうに目を細め、自身も小さく口を動かした。潮風が二人の間を通り抜け、乾いた喉を潤す水の冷たさが心地いい。
「安成様……」
握り飯を食べ終え、一息ついた鶴姫が、不意に真剣な眼差しで海を見つめた。
風に揺れる髪を耳にかけ、彼女は続けた。
「いつか……この戦が本当に終わって、私が務めを果たし終えたら。その時は、この海の先へ、もっと広い世界へ行ってみたいのです。兄上が言っていました。この海の向こうには、まだ見ぬ異国の品や、見たこともないほど大きな山があるのだと」
彼女は航を振り返り、まっすぐな瞳で問いかけた。
「その時は……安成様、あなたも一緒について来てくれますか?」
それは、未来を語ることを禁じられたような戦時下での、彼女なりの精一杯の「告白」にも聞こえた。
今の航にとって、この島こそがすべてだ。だが、彼女が夢見る「平和な未来」の一部に、自分が組み込まれているという事実が、胸の奥を熱くさせた。
「……約束するよ、鶴」
航は、彼女の瞳を真っ直ぐに見返した。
「どこへでもついて行くよ。この海が静かになった先も、俺が…、必ず鶴を守り抜こう」
鶴姫様は一瞬、驚いたように目を見開き、それから今までで一番眩しい笑顔を見せた。
「チリン」と、風に揺られた鈴の音が響く。
「……はい! 安成様、指約束」
そう言って、彼女は小指を差し出した。
航はその小さな小指に、自分の節くれ立った指を絡める。体温が触れ合った場所から、静かな決意が全身に広がっていく。
(例えこれが、いつか醒める夢だとしても、この温もりを俺は――)
そう思った瞬間だった。
並んで海を眺めていた航の目が、西の水平線の異変を捉えた。
きらめく真昼の海原、その遥か彼方。
陽炎の向こうから、点のような影が一つ、また一つと這い出てくる。それはまたたく間に数を増し、水平線を黒く塗りつぶしていく。
「……船団?」
航の呟きに、鶴姫の表情が凍りついた。
ただの商船ではない。整然と隊列を組み、こちらへ向かって直進してくるその威容は、まぎれもない軍船――それも、見たこともないほどの大船団だった。
一瞬前までの穏やかな風が、急に肌を刺すような冷たさを帯びる。
二人の間に交わされた束の間の約束を、無慈悲に引き裂くかのように、次の激戦の足音がすぐそこまで迫っていた。




