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第三話「氾濫」

 その一冊がどうしても見当たらないと気づいたとき、全身の血が引いていくような感覚に襲われた。

 部室の隅、教室の机の中、通学カバンの底。どこを探しても、ひかりとの思い出、彼女へのどろどろとした執念を書き殴ったあのノートだけが、ぽっかりと空白になっている。

 もし、誰かに見られていたら。

 もし、ひかりの目に、あの汚濁に満ちたあの言葉が触れていたら

 想像するだけで喉が引き攣り、吐き気が込み上げる。

 もう既に、見られてしまっていたのなら

 

 ──いっそ、壊してしまいたい。

 

 一度ノートに記してしまったその衝動は、文字通り形となって、あいなの心臓を内側から食い破り始めていた。もう、普通に笑いかけるひかりの顔を見ることができない。誰かに、特にあの男に奪われるくらいなら、自分の手で終わらせてしまいたい。

 

 週末の夜。

 暗い自室で、ひかりに短いメッセージを送った。

『話したいことがある。体育館の裏で待ってる』

 

 返信を待たず、カバンに裁ち鋏を滑り込ませる。重い金属の感触が、不思議と心を落ち着かせた。

 

 校門を抜け、街灯の届かない校舎の影へと進む。

 六月の湿った夜風が、制服のブラウスを肌に張り付かせる。遠くで鳴く虫の声さえ、自分を責める叫びのように聞こえた。

 

 非常階段の踊り場。その暗がりに、ひかりが立っていた。

 

「あいな? 急にどうしたの。こんな時間に呼び出すなんて、ボク、びっくりしちゃったよ」

 

 ひかりの声は、いつも通り明るく、けれどどこか心細そうに震えていた。

 ひかりが一歩、歩み寄る。その無防備な足取りが、あいなの中の最後の手綱を断ち切った。

 

「ひかり……ごめんね。もう、これしか、ないの」

「えっ……? あいな、何を──」

 

 カバンから鋏を取り出す。月の光さえ届かない闇の中で、刃が鈍く光った。

 ひかりの瞳が恐怖で見開かれる。逃げようとする彼女の肩を、狂おしいほどの力で壁に押し付けた。

 

「私だけを見てよ……。他の誰とも、笑わないで。お兄さんとだって、仲良くしないで……!」

 

 刃の先を、ひかりの白い首筋に突き立てようとした、その瞬間だった。

 

「──やめろ」

 

 低く、淀みのない声。

 まるで日常の挨拶でも交わすかのような、あまりにも静かなトーン。

 

 直後、手首を万力のような強さで掴み上げられた。

 指から力が抜け、カラン、と乾いた音を立てて鋏がアスファルトに落ちる。

 

「お、お兄ちゃん……?」

 

 階段の影から、ゆっくりと人影が姿を現した。

 ひかりの兄は、いつもとは違った真剣で焦りのまじった表情をして、そこに立っていた。彼は落ちた鋏を平然と拾い上げ、布で刃先を丁寧に拭うと、それを自分のポケットに仕舞い込んだ。

 

「……これを、探していたんだよね?」

 

 男が空いている方の手で差し出したのは、あの一冊のノートだった。

 あいなは息が止まった。殴り書きされた殺意。それを、彼はすべて読んでいたのだ。

 

「部屋の掃除をしていたら、ひかりの荷物に紛れていたのを見つけてね。……一通り読ませてもらったよ。君の、切実な想いを」

 

 男は震えるあいなの前に、静かに膝をついた。男の瞳には怒りも軽蔑もなく、ただ深い慈愛のような、奇妙な色が浮かんでいた。

 

「あいなさん。君がひかりを想うあまり、自分を見失ってしまったことは理解している。……だから、警察には言わない。ひかりを傷つけたという事実が公になれば、君の人生は終わってしまう。それは僕の本意じゃないんだ」

 

 男の手が、あいなの頭をそっとなぞる。

 その温かさに、あいなはさらに激しく泣きじゃくった。すべてを知られた恥辱と、それ以上に、この「完璧な理解者」に救われたという倒錯した安堵感が、彼女を支配した。

 

「条件がある。……今日この瞬間から、ひかりには二度と近づかないこと。君は、自分の罪を一生かけて反省しなければならない。……できるね?」

 

 その言葉は、救済の形をした死刑宣告だった。

 

「……はい。約束、します……ごめんなさい……ごめんなさい……」

 

 ひかりは男の背中に隠れたまま、ただ小刻みに震えていた。

 男はひかりの手を優しく繋ぎ、一度も振り返ることなく闇の中へと消えていった。

 

 あの日以来、二人の世界は完全に断絶した。

 卒業までの長い月日、ひかりは一度もあいなの方を振り返ることはなかった。ひかりの中にある「少年のような躍動感」は影を潜めたが、それでも彼女は「ボク」という言葉に縋りつくようにして、高校生活を終えた。

 

 あいなは、それを遠くから眺めることしかできなかった。

 けれど、あの夜に男が掛けてくれた「僕が守ってあげる」という言葉だけが、暗闇の中の唯一の灯火だった。自分が犯した罪を、自分以上に理解してくれる人がいる。その歪な依存心が、あいなを生かし続けていた。

 

 そして。

 季節が巡り、三人は示し合わせたかのように、同じ大学へと進学した。

 

 春の光が差し込むキャンパス。

 あいなは願っていた。新しい場所で、いつかひかりに許してもらえる日が来ることを。そして、あの「男」に、まともな姿を見せられるようになることを。

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