第二話「歪みの芽」
六月の湿った空気が、放課後の体育館に居座っている。
バレーボールが床を叩く高い音と、バッシュが擦れるキュッという鋭い音。その喧騒の真ん中で、ひかりは今日も光っていた。
「ひかり、ナイスレシーブ!」
「へへっ、もっとこい!」
短い髪を振り乱して笑うひかりの周りには、いつも人が集まる。
その様子を、壁際でスクイズボトルを手に持ちながらじっと見つめる。ひかりが他の部員とハイタッチをするたび、指先がボトルを強く握りしめる。プラスチックの軋む音が、自分の鼓動よりも大きく聞こえた。
休憩時間、タオルを持って駆け寄ると、ひかりが屈託のない笑顔を向けてくる。
「あかり、ありがと!……ねぇ、さっきのボクのスパイク見た? ちょっとだけコース狙えるようになった気がするんだ!」
「うん、見てたよ。凄かった。……でも、あんまり無理しないで。ひかり、すぐ無茶するから」
「あはは、大丈夫だって! あかりは心配性だなぁ」
ひかりは二の腕を軽く叩き、またコートの中へと戻っていく。
叩かれた場所が、熱を帯びたようにじんわりと痺れる。この数秒の会話だけが、この騒がしい世界で唯一の価値ある時間だった。
練習が終わり、更衣室へ向かう廊下でのこと。
同じクラスの男子生徒、佐藤がひかりに声をかけた。
「ひかり! この前の数学のプリント、見せてくれない? あそこ、全然わかんなくてさ」
「いいよー! でもボクのも結構間違ってるかもよ?」
「助かるわ。明日、朝イチで借りに行ってもいいか?」
「オッケー、教室で待ってるね!」
ひかりにとっては、日常のひとコマに過ぎないのだろう。
けれど、後ろを歩く足が、ぴたりと止まる。
ひかりは男子とも女子とも分け隔てなく接する。その明るさが魅力だと分かってはいても、胸の奥には、冷たい泥のような感情がゆっくりと溜まっていく。
数日後、ひかりの家を訪れることになった。
「お兄ちゃんの誕生日の時、ケーキ食べきれなかったから、あかりにも手伝ってほしいんだ!」
そんな誘いだった。
ひかりの家は、常に人の気配がして温かかった。
玄関を開けると、微かに甘い香りがした。
「ただいまー! あかり連れてきたよ!」
ひかりが声を弾ませる。奥の部屋から、足音が近づいてきた。
「おかえり、ひかり。……いらっしゃい。ひかりからよく話は聞いてるよ」
現れたのは、スマホの画面越しに見た、あの「指の長い」男だった。
ひかりの兄は、穏やかな笑みを浮かべてそこに立っていた。
「あ、はじめまして……あかり、です。お邪魔します」
「うん、ゆっくりしていって。僕も今、お茶を淹れようと思ってたところなんだ」
男の所作は無駄がなく、静かだった。
リビングのソファに座ると、ひかりは自分の部屋から持ってきた漫画を広げ、楽しそうに解説を始める。
男はキッチンで手際よく紅茶を淹れ、テーブルに運んできた。
「はい、どうぞ。あかりさんは、ひかりと同じバレー部なんだよね?」
「あ、はい。そうです。ひかりみたいに上手くはないんですけど……」
「そんなことないよ! あかりはレシーブの勘が凄くいいんだから。ボク、いつも助けられてるんだ」
ひかりが誇らしげに胸を張る。その様子を見て、男は目を細めて笑った。
「ひかりがこんなに誰かを褒めるなんて珍しいな。本当に仲が良いんだね。僕も嬉しいよ」
男の言葉は、落ち着いていた。
少し緊張が解けるのを感じながら、運ばれてきたケーキを一口食べる。
「美味しい……」
「よかった。僕が選んだんだ。ひかりが喜びそうなやつをね」
男はひかりの頭をポン、と軽く叩いた。ひかりは「もう、子供扱いしないでよぉ」と笑いながら、兄の手を振り払う。
そのやり取りを、ただ見つめる。
この家の中で、ひかりは「妹」として存在している。
学校で見せる「ボク」という少年のような姿は、ここでは少しだけ影を潜め、もっと幼く、守られるべき存在に見える。
そして、その姿を引き出しているのは、この「優しい兄」なのだ。
羨ましい、と思った。
自分がお兄さんだったら、ひかりをずっとこの家の中に、この優しい空気の中に閉じ込めておけるのに。
帰り際、男は玄関先まで見送りに来た。
「あかりさん、またいつでも遊びにおいで。ひかりも喜ぶから。……ひかりのこと、これからもよろしくね」
男の瞳は、真っ直ぐこちらを見つめていた。その奥にある感情を読み取ることはできなかった。
ただ、その手の温かさと、静かな声だけが耳に残った。
学校に戻れば、またひかりは「みんなのひかり」になる。
あの日から、自分の行動が少しずつ変わっていくのが分かった。
ひかりが他の部員と笑い合っていると、わざと怪我をしたふりをして注意を引こうとした。
ひかりが男子生徒と話していると、その間に入り込み、無理やり話題を変えた。
ひかりは最初こそ「あかり、どうしたの?」と心配そうにしていたが、徐々にその過剰な反応に戸惑いの色を見せ始める。
ある日の部活後、更衣室で二人きりになった。
ひかりの背後に回り込み、彼女の細い首筋に指を滑らせる。
「……ねぇ、ひかり。明日、部活休んで二人でどこか行かない?」
「えっ? でも明日は大事な練習試合があるし……どうしたの、急に」
「いいじゃん、一日くらい。ひかりと二人だけでいたいんだよ」
自分の声が、自分でも驚くほど震えていた。
ひかりは鏡越しにこちらの顔を見て、困ったように笑った。
「あかり……最近、ちょっと変だよ? ボク、あかりのことは大好きだけど、部活も大事なんだ」
『大好き』
その言葉が胸を突き刺す。けれど、それは求めている『大好き』とは、決定的に色が違っていた。
求めているのは、ひかりの視線のすべて。ひかりの時間のすべて。
他の誰にも、兄にさえも踏み込ませない、二人だけの聖域。
ひかりが更衣室を出ていくとき、その場に座り込んだ。
床には、ひかりが落としていったヘアゴムがひとつ。
それを拾い上げ、鼻先に押し当てる。ひかりのシャンプーの香りと、少しの汗の匂い。
歪みは、もう修復できないところまで広がっていた。
日記の隅に、人知れず言葉を書きなぐる。
真っ黒なインクで、紙を突き破るような勢いで。
──いっそ、壊してしまいたい。
その文字を、誰かに見られているとも知らずに。




