8話 だから、そろそろ帰らせてくれ
「……人形……」
もう十分以上になる。
天川は、さっきからずっとその一言だけを小さく繰り返していた。
別にショックを受けているようには見えない。
かといって怒っているわけでもなく、ただ、何かを ひたすら考え込んでいるようだった。
はいはい、若い頃は誰にだって色々と悩みの一つや二つはあるものだよな。
なら好きなだけ考えていてくれ。
その答えがどう転ぶのかについては、今夜の夕飯の献立くらいには興味があるが、どうせ俺には関係のない話だろう。
だから俺はもう知らん。
この辺で失礼して帰らせてもらおう――そう思って腰を浮かせかけた、その瞬間だった。
稲妻みたいな速さで、天川の手が俺の袖を掴んだ。
「うおっ!?」
反射的に振り払おうとしたが、うまくいかない。
力が強いのかと思った。
いや、これは違う。
天川自身が馬鹿みたいに怪力というわけではない。
ただ、掴まれた場所に変に角度がついているのか、力の逃がし方が妙にうまいのか、こちらが踏ん張ろうとした瞬間に、まるでそこだけ綺麗に力が抜け落ちるような感覚だった。
……何なんだこれ?
合気道とか、そういう護身術の類か?
そういう武術とかはよく知らないけど、とにかく“力で振りほどける感じ”がまるでしない。
それでも無理やり逃げようとすると、今度はさっと足を払われて体勢を崩される。
慌てて起き上がろうとする間もなく、再び俺の上に乗ってきて、無言のまま銀色の手錠を見せつけてくる。
蛍光灯の光を反射したあれはやけに不気味に見えた。
要するに、こいつが提示してきた選択肢はこうだ。
もう一度拘束されるか。
それとも大人しくここにいるか。
……そんな二択を出されて、前者を選ぶ人間がどこにいる。
少なくとも俺は選ばない。
俺にマゾ属性がない以上、身体の自由を奪われるのが嫌なのは当然の話だ。
これが優人だったら迷いなく拘束しろ!とか叫んでいたのに!
……まあ、現状も拘束されていないだけで、自由と呼ぶには程遠いのだが。
今さらだが、天川はどうやってこんな手錠を用意したんだ?
無事に帰れたら、こいつについては徹底的に調べてやろうと、俺は改めて心に誓った。 ……無事に帰れますよね?
当の天川本人は俺のことなど眼中にないように、いまだに「人形……」だの何だのと考え込んでいる。
お前は一体何がしたいんだよ。
いや本当に、そこまで考え込みたいなら、せめて俺を帰してからにしてくれません?
何で無関係な俺まで付き合わされてるんだよ、クッソー
心の中でぶつぶつ文句を言いながらも、他にやることのない俺は、結局おとなしく室内を見回すことにした。
たぶん、ここは天川本人の部屋なのだろう。
ただ、女の子が一人で使う部屋にしては、かなり広い。
いや、かなりどころじゃない。下手なワンルームよりよほど広く、畳で言えば十畳は軽くありそうだった。
だが、その広さのわりに、妙にあまり生活感が感じられない。
むしろ広すぎるせいで、逆に殺風景さが際立っていた。
壁の一面には高そうな壁掛けテレビ。
隅にはクローゼットが一つ。
その向かいには机。
そして、その横に俺たちが腰掛けているベッド。
部屋の中にある大きな家具は、それだけだった。
趣味らしい趣味が見えない。
生活の匂いが薄い。
今どきありふれているパソコンもなければ、女の子の部屋なら普通にありそうなドレッサーや小物棚もない。
ぬいぐるみも、雑誌も、好きなものを飾っている気配もない。
たしかに、可愛らしい柄の壁紙や小まめにフリルで飾ったカーテンなんかはあって、見た目だけなら一応“女の子の部屋”っぽい。
だが、それすらも天川自身の趣味というより、“女の子の部屋とはこういうもの”という見本をそのまま置いてあるようにしか見えなかった。
本人の気配が妙に薄いのだ。
そんなことを考えながらどうにか退屈をやり過ごしていると、ようやく思考がまとまったのか、天川が俺の服の裾を二度ほど小さく引いた。
顔を向ける。
すると、じっとこちらを見ていた天川が、ぽつりと口を開いた。
「私は、人形だったの?」
「……は?」
ここまで来ると、さすがの俺様でも頭痛がしてくる。
確かに俺は天川に向けて人形とか言った。
だけど、それはあくまでも比喩だ。
まさか本気で天川本人が文字通りの人形だと思ってそんな表現を使ったわけじゃない。
ところが目の前の無表情ポンコツは、どうやらその言葉を額面通り受け取ってしまったらしい。
しかもかなり真剣に。
こいつ、さっきからずっとそのことだけ考えていたのか?
……だめだ。 頭が痛い。
“私は人形だったのかもしれない”なんて、自分のアイデンティティーすら再定義していたのか?
いやいやいや!
待て待て待て!
それはさすがに飛躍がすぎるだろう!
もし仮に俺がこのまま肯定でもしたら、こいつは本気で“そうだったのか”と納得してしまいかねない。
そんな、嫌に確信に近い予感があった。
これはどう答えるべきか。
少し考え込んだ、そのわずかな沈黙すら、天川には肯定に見えたらしい。
彼女はさらに顔を近づけ、まっすぐ俺を見つめたまま、もう一度確認するように言った。
「私は、人形だったんだ……」
頭の奥に鈍い痛みが走る。
思わずこめかみを押さえ、深いため息が漏れた。
……面倒くさい。実に面倒くさい。
だが、こうなった一端くらいは、自分のさっきの発言にもある。
まあ責任感と呼べるほどのものではない。
せいぜい原子ひとつ分くらいの責任だ。
それでも、まるで関係ないとは言いきれなかった。
脇役なのに面倒なことになったものだな全く。
「はあ……」
ため息をついて俺は天川笑兎という少女を見つめた。
――さて、どうしたものか。
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