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54話 思い出せない祈り、一つの清算

 まだ少し頭の奥に霞がかかったような感覚を覚えながら。

 俺はまず、上へ続いている道を辿ってみることにした。


 渓流があるという話はすでに犬井いぬい先輩から聞いている。

 ならば、まだ何があるのかも分からない道を先に見ておこうと思ったのだ。


 まあ、実際には何もなく、ただ山の上へ続いているだけでした――のオチかもしれないが。

 結果的に軽い登山をすることになる可能性もある。


 そんなことを考えながら、細い山道を数分ほど登っていく。


 木々の間を抜け、足元の土を踏みしめながら進んでいると、やがて視界が少しだけ開けた。

 道の先にあったのは、思っていたよりも広い平地だった。

 そして、その中にぽつんと残されていたものは――


「……校舎?」


 かなり昔に使われなくなり、そのまま放置されたように見える木造の建物だった。

 少なくとも、形だけを見るなら学校の校舎に見える。

 校舎らしき建物が一棟だけ。

 それ以外に、目立った構造物や人工物は見当たらない。


 まるで肝試しの舞台として用意されたかのような、実に雰囲気のある建物である。


 近づいてみると、腐りかけた木材や、崩れた外壁、その隙間から伸びた草が目に入った。

 それらが、この場所が長い間放置されていたことを無言で語っている。


 正面の扉は半ば壊れており、もはや扉としての役割を期待するのは難しそうだった。


 入ろうと思えば、入れなくもない。

 だが、床板は見るからに頼りなく、建物全体も今にもぎしりと音を立てそうに見える。

 さすがに、肝試しでもないのにわざわざ中へ踏み込む趣味はない。


 俺は入口付近から軽く中を覗くだけに留め、すぐに校舎らしき建物を離れた。

 校舎の裏手に回ると、さらに上へ続く道があることに気づく。


 ただし、今までの土の道とは違う。

 そこには、古びた石段があった。


 苔むした石段はところどころ欠けており、踏み外せば普通に足を痛めそうだ。

 そして、その先に見えたのは、かなり色褪せた赤い鳥居だった。


「……今度は神社か?」


 妙な場所に妙なものがあるものだ。

 そう思いながらも、俺は好奇心に負けて石段を上っていった。


 石段を上りきった先にあったのは、小さな神社――いや、ほとんど神社跡と化したと表現した方が近い場所だった。


 色褪せた鳥居。

 形だけを残した参道。

 かろうじて建物としての輪郭を保っている拝殿。


 その前には、箱だと分かる程度には形を残した賽銭箱が置かれている。

 拝殿の奥には本殿らしき小さな建物も見えたが、扉は歪み、内部に何かが残っている様子はなかった。


 鳥居の両脇には石の台座のようなものがあった。

 おそらく昔は狛犬か、あるいは稲荷の狐像でも置かれていたのかもしれない。

 だが、今はどちらも見当たらない。

 残っているのは、そこに何かがあったのだろうと想像させる痕跡だけだった。


 さらに境内の片隅には、仏堂のようにも見える小さな建物がある。

 ただの神社というより、神仏習合の名残でもあるのだろうか。


 詳しいことは分からない。

 分からないが、少なくともこの場所には、神社のようでいて、どこか寺の気配も混ざったような、不思議な空気があった。


 とはいえ、管理されていない場所であることに変わりはない。


 崩れかけた屋根。

 乾いた落ち葉。

 ひび割れた石畳。

 じっと眺めていると、ないはずの感受性まで勝手に湧いてきそうだった。


 もしここに神様がいるのだとしても、今さら人にご利益を授ける余裕などなさそうに見える。


 ――それでも。


「……あ、ちょうど五円玉がある」


 俺は何かに惹かれるように、ポケットに入っていた五円玉を取り出した。


 それを賽銭箱へ投げ入れる。


 乾いた音が、小さく境内に響いた。


 二礼。

 二拍手。

 それから、手を合わせる。

 最後に一礼。


 何か、願い事があったわけではない。


 そもそも、頭の中に具体的な言葉が浮かんだ感覚もなかった。


 それでも俺は、何かを祈ったのだと思う。


 ――それが何なのかは、自分でも分からないけれど。


「……何やってるんだろうな、俺」


 そんな自分の姿に、思わず苦笑が漏れた。

 この場所の雰囲気にでも呑まれたのだろうか。


 俺は、そんなに感受性豊かな人間だったっけ。


「まあいい。噂の渓流とやらでも見に行くとしますかー」


 古びた境内をもう一度だけ見回してから、俺はその場を離れた。




 ◇ ◇ ◇




「おお。ここが例の渓流か。かなりいいな」


 木々の間を抜けた瞬間、視界がふっと開けた。

 水の流れる音は、ここに着く前から聞こえていた。

 だが、実際に目の前で澄んだ水が岩の間を流れている光景を見ると、それだけで印象が変わる。


 流れは穏やかで、目に見える範囲に急な落ち込みもない。

 水量もほどよく、水遊びするにはちょうどよさそうだった。

 ところどころ大きな岩があり、その上に腰かければ涼むこともできそうだ。

 奥の方には、小さな滝のようになっている場所も見える。


 上から落ちる水が岩を叩き、その下には他より少し広い水溜まりができていた。

 深さはそこまでなさそうだが、光を受けた水面が揺れている様子は、見ているだけでも気分がいい。


 こんな場所を俺たちだけで使えるという事実に、このおじさん、思わず年甲斐もなく胸を躍らせてしまいました。


 すでにそこには優人ゆうとを含めた他の面々が集まっていた。


 最初に俺に気づいたのは、優人だった。


佐助ようすけ。お前、どこ行ってたんだ?」

「他のところを少しな」


 軽く手を振って答えながら、俺はちらりと有栖川ありすがわの方を見る。

 有栖川は彩花あやかちゃんと一緒に、渓流の近くにしゃがみ込んでいた。


 手を水に浸しながら、何かを話しているらしい。

 その表情は穏やかで――どうやら、話は無事に終わったようだ。


 俺は何でもない顔で、みんなのところへ合流する。


 ちょうど優人の近くに犬井先輩がいたので、俺は犬井先輩にだけ聞こえるくらいの声で話しかけた。


「上の方に、今にも崩れそうな校舎みたいな建物と、神社跡みたいな場所があったんですけど……もしかして、肝で始まって試しで終わるタイプのイベントに使う予定が?」


 俺の言葉に、犬井先輩は少し困ったように笑った。

 それから、ほんの短くため息をつく。

 まるで、見つかってしまったなら仕方ない、とでも言うように。

 そして次の瞬間には、いたずらっぽく口元を緩めて同じく声を落とした。


「あ、見ちゃった? みんなには一応秘密にしておくつもりだったんだけど……それに気づいた上で黙ってるなんて、お主も悪よのう~」

「いえいえ。お代官様ほどでは~。ぬふふふ!」


 さすが犬井先輩!

 分かっていらっしゃる!


「……二人とも、急にどうしたんだ?」


 悪党同士の密談により黒く染まった俺たちを見て、優人が少し引いたような顔をする。

 些細なことだ。


 そのとき、俺に気づいた有栖川がこちらへ歩いてくるのが見えた。

 俺は優人たちから少し距離を取り、有栖川の方へ向かう。


「……優人は、何て?」


 俺がそう尋ねると、有栖川は困ったように微笑み、わずかに視線を落とした。


「本当に、困った方ですね。神代君は」


 そう前置きしてから、有栖川は小さく息を吐く。


「私が謝罪をしたら、神代君が何と言ったと思いますか?」

「さあ?」

「『ごめん。そんなことあったっけ?』ですよ。まったく、今まで一人で悩んでいた私が馬鹿みたいではありませんか」


 そう言う有栖川の声には、呆れと、少しの悔しさと、それ以上の安堵が混ざっていた。

 いかにも優人らしい答えに、俺は苦笑するしかなかった。


「……うん、まあ……優人らしいな。その点については同情する」


 本当に、あの主人公様は。

 有栖川はそう言いながらも、どこか晴れやかな顔をしていた。


 他人から見れば、そんなことで、と思うような罪悪感だったのかもしれない。

 それでも、本人にとっては簡単に片づけられるものではなかったのだろう。

 そして、それを自分の意志で乗り越えようとしたことは、間違いなく事実だ。


 大きい小さいの問題ではない。

 その姿勢は、素直に尊敬できるものだと思った。

 俺が内心で有栖川に対する評価を少しだけ改めていると――


「――でもこれで、もう遠慮する必要はありませんね」


 不意に、有栖川がそんなことを言った。


「……ん? 何がだ?」

「ふふ。いいえ、何でもありませんわ」


 優雅に微笑みながらこちらを見つめる有栖川。

 その意味深な言葉に、俺は首を傾げることしかできなかった。

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