53話 有栖川世慕は決意し、俺は――
昼食を終えたあと、シルヴィアさんが淹れてくれた紅茶を一口飲んだ犬井先輩が、唐突に声を上げた。
「師匠と呼ばせてください!」
「まあ。私でよろしければ」
……そういえば、部室にもやたらと良さそうな茶葉が置いてあったな。
『いつか紅茶を上手に淹れられるようになったら、そのときに使うんだ!』
そんな堂々たる抱負を語っていた犬井先輩の姿を思い出す。
それなら普通に家へ置いておいた方がいいのではないか、と思ったこともあるが、どうやら卒業までには、あの茶葉で淹れた紅茶を拝める日が来るかもしれない。
ともあれ、そんな流れでシルヴィアさんによる美味しい紅茶の淹れ方講座が始まった。
俺はそれを横目に眺めながら、シルヴィアさんの紅茶と、石澤先生が用意してくれていたデザートを楽しむ。
ふむ。
なるほど、なるほど。
これが上流階級の味、風流というものか!
まあ、知らんけど!
そんな優雅で穏やかなひとときを満喫していると、久木先輩がコーヒーの入ったカップを静かに置き、犬井先輩へ問いかけた。
「それで、犬井。この後はどうするんだ?」
余談だが、久木先輩と石澤先生は紅茶よりコーヒー派らしく、二人にはシルヴィアさん特製のコーヒーが提供されていた。
何でもできるのか、あの人。
「あ、そうだった! みんな! 夕食にバーベキューをするから、その準備をしようと思ってるの! それが終わったら、夕方までは自由時間ってことで!」
「バーベキュー」
食べ物に釣られて参加しただけあって、天川がその単語にぴくりと反応した。
その両手には、すでに種類の違う菓子が二つ握られているというのに。
飢えた動物か何かか、お前は。
……ん?
気のせいだろうか。
天川のウサ耳カチューシャが、ぴんと立っているように見える気が……
……いや、待て。
本当に、いつもよりぴんと立ってる!?
どういう仕組みだ!
思いがけず目撃してしまった天川の特技(?)に、俺は思わず戦慄した。
◇ ◇ ◇
そうして午後は、バーベキューの下準備と自由時間という流れになった。
下準備とはいっても、食材の下ごしらえや、道具の運び出し、テーブル周りの整理くらいのものだ。
それほど多くの時間が必要な作業があるわけではない。
もっと言えば、全員でやるほどの作業量でもなかった。
結果として、食材以外の事前に準備できるものはあっという間に片づき、材料の下ごしらえはシルヴィアさんが引き受けることになった。
つまり、残りの面々は自由時間となった。
もちろん、最初は犬井先輩や他の面々も遠慮していた。
だが、
「執事として当然のことをしているだけですので、どうぞお気になさらず」
という、柔らかな微笑みとともに告げられた言葉に、全員が静かに屈した。
シルヴィアさんの凶悪な本性を知っているのは、おそらく俺だけだ。
しかし、他のみんなも無意識のうちに何か危険なものを感じ取ったのだろう。
生存本能とは、実に偉大と言えよう。
ともかく。
そういうわけで、俺たちは自由時間を得たわけだが――
「――神代君。少しだけ、二人で話をする時間をもらえませんか?」
周辺を軽く見て回るか、という話を優人としていたところで、有栖川が唐突にそんなことを言い出した。
有栖川を見る。
その表情は、どこか覚悟を決めた者のそれだった。
まるで、一世一代の決心を実行しようとしているかのように。
その言葉に、犬井先輩とエリナがぴたりと固まった。
まあ、あの表情であの台詞を言われれば、公開告白の前振りのようにも聞こえる。
そう反応するのも当然といえば当然なのだが……。
俺は少しだけ、今日までの有栖川の様子を思い返した。
そして、静かに首を横に振る。
――少なくとも、今の有栖川にその可能性はない。
だとしたら、何故あんなことを言ったのか。
……心当たりがないわけではない。
だが、俺が口を挟む空気ではなかった。
「ん? ああ、うん。俺は大丈夫だよ」
当の優人は、特に違和感を覚えていないらしく、いつも通りのあっさりした顔で頷いた。
「ちょ、ちょっと! アリスガワさん……!」
代わりに、慌てたエリナが二人の間に入ろうとする。
「エリナさん。大丈夫ですよ」
だが、それを止めたのは、他でもない彩花ちゃんだった。
彩花ちゃんは穏やかな笑みを浮かべたまま、有栖川へ小さく頷いた。
……なるほど。
彩花ちゃんが有栖川をこのキャンプに誘った理由が、何となく分かった気がした。
エリナはそんな彩花ちゃんの様子に戸惑ったように動きを止める。
その間に、優人と有栖川は他の面々から見えない場所へと移動していった。
場所を移す途中、有栖川は彩花ちゃんへ向けて小さく頭を下げた。
それから、こちらを見る。
俺と目が合ったのは、ほんの一瞬だった。
……まあ、気にはなる。
だが、ここでぼんやり突っ立っていても仕方ない。
俺はその場を離れ、少し周辺を見て回ることにした。
「アヤカ、本当に大丈夫なの?」
「ふふ。ええ。たぶん、エリナさんが考えているようなことでは――」
途中、エリナと彩花ちゃんのそんな会話が聞こえた。
けれど、それもすぐに遠ざかっていく。
他の面々から離れ、細い道を進んでいくと、やがて周囲には自分の足音だけが響くようになった。
――今回のことは、有栖川にとってきっと必要なことなのだろう。
人間は誰だって、生きていれば大小の差こそあれ、何かしらの間違いを犯す。
けれど、その過去の間違いに正面から向き合える人間が、いったいどれだけいるのだろうか。
向き合うよりも、目を逸らす方が楽だ。
なかったことにする方が楽だ。
都合のいい言葉で蓋をして、見えない場所へ押し込んでしまう方が、ずっと簡単だ。
もしかすると、それは俺の偏見なのかもしれない。
だが、それでも。
逃げる人間の方が、圧倒的に多いのではないかと思う。
そういう意味で、有栖川は違った。
いや、あいつだって最初から向き合えていたわけではないのかもしれない。
実際、有栖川は俺が優人と一緒にいるとき、決して姿を見せなかった。
俺が一人になったときか、少なくとも優人と離れているときでなければ、遭遇したことはない。
それを偶然だと信じられるほど、俺は純粋な人間ではない。
きっかけを作ったのは、きっと彩花ちゃんなのだろう。
けれど、それに応じて、正面から向き合うと決めたのは有栖川自身だ。
普段の言動については、いろいろと言いたいことがある。
だが、そういう姿勢については、素直にすごいと思った。
「それに比べて……」
俺は、そこで足を止めた。
ふと空を見上げる。
木々の隙間から、キャンプ日和と呼ぶにふさわしい、雲ひとつない青空が見えていた。
……それに比べて、俺はどうだ?
俺は、向き合ったことがあるのか?
あの時も。
今も。
ただ、逃げてばかりで――
そこまで考えた瞬間。
ぷつり、と。
何かが――途切れた。
「……あ、れ……?」
……ええっと。
今、俺は何を考えていたっけ?
うーむ。
……分からん。
いや、分からないというより、考えが形になる前にほどけていく。
さっきまで確かにそこにあったはずのものが、薄い膜の向こう側へ沈んでいくような感覚。
思い出そうとすればするほど、頭の中がぼんやりと白く濁っていく。
たぶん、これは何者かに邪魔されたわけじゃない。
俺自身が、そこから先へ進むことを拒んだだけだ。
どこかで、そう理解している。
理解しているはずなのに。
次の瞬間には、その理解すら曖昧になっていた。
……俺は、何をしようとしていたんだっけ。
ああ、そうだ。
このあたりを見て回るつもりだったな。
「――さて、どこから回るか」
なぜか思考が少し遠のいたような、ぼんやりとした頭のまま。
俺は、ゆっくりと足を進めた。
面白いと感じていただけましたら、反応をいただけますと励みになります。




