50話 脇役に迫る執事のお姉さん
「はああ……」
車に乗り込んだ時点から俺を押し潰していた巨大な憂鬱に耐えきれず、俺はついに盛大なため息を吐いた。
「あら、月影様。ため息を吐くと幸せが逃げてしまいますよ?」
そんな俺の反応に、隣でハンドルを握る美人執事のお姉さんが、優雅に微笑んだ。
男なら当然、その笑みに胸を高鳴らせ――
「今の俺の幸せは、すでに底を抜けて地面にめり込んでいるので問題ありませんね」
――るわけがない。
この憂鬱の原因の一つがあなたであることを察していながら、その態度。
腹が立つ。
「そ、その……月影様。やはり、私が一緒に行くのはご迷惑でしたか……?」
後部座席から、有栖川の不安げな声が聞こえてきた。
腰をまっすぐ伸ばし、絵に描いたように整った姿勢で座っているにもかかわらず、その表情はどこか落ち着かない。
集合場所では、どこか高嶺の花めいた雰囲気を漂わせていたくせに、今は妙におろおろしている。
その落差に、俺はさっきとは別の意味でため息を吐きたくなった。
「……いや、別にお前のせいじゃない。そもそも彩花ちゃんに誘われて参加したんだろ? それに対して俺がどうこう言う立場じゃない」
「そ、そうですか……」
有栖川はほっとしたように胸を撫で下ろした。
その隣に座っていた天川が、こてんと首を傾げる。
「佐助、気分悪い?」
「ははは。天川、お前の目には今の俺が気分よさそうに見えるのか?」
天川は小さく首を横に振った。
そして、もう一度こてんと首を傾げる。
「佐助、生理中?」
「…………」
俺と、後ろにいた他の二名は絶句した。
何を言っているんだ、このポンコツウサギは。
いや、本当に何を言っているんだ。
なぜそこでその発想が出てくる。
唯一、シルヴィアさんだけが、どこか感慨深そうな表情を浮かべていた。
なぜそこで「成長なさいましたね、お嬢様……!」みたいな空気を出しているんだ、この人は。
「……シルヴィアさん。お宅のお嬢様、どうにかなりませんか? あなたも含めて」
「まあ。レディのささやかな悪戯をさらりと受け止めるのも、ジェントルマンの基本的な素養ですよ」
「俺とは一生縁のない単語なので問題ありませんね」
俺の不満混じりの抗議を、シルヴィアさんは軽く受け流した。
本当に、この人は相手にしづらい。
「月影。車酔いでもしているのなら、薬がある。飲むか?」
久木先輩が自分の鞄を探りながら、そんなことを言ってきた。
この人は色々と謎の多い人だが、基本的に悪い人ではない。
こうして、後輩を気遣う先輩らしい一面を見せることもある。
「大丈夫です。認めたくはありませんが、乗り心地だけは確かに抜群なので」
俺は軽く断り、車に乗っているのか疑いたくなるほど滑らかに進む高級車のシートに体を沈めた。
そして、もう一台の車の中では今頃どんな空気になっているのかを想像する。
きっと騒がしくて、楽しげで、ヒロイン候補たちに囲まれた優人が、あれやこれやと苦労しているに違いない。
……。
くそっ!
やっぱり見たかった!
血の涙が出そうなほどの未練に奥歯を噛み締めながら、俺は本日二度目の盛大なため息を吐いた。
「はああああ……」
現在、俺たちは二台の車に分かれて移動している。
今までの会話で何となく察せると思うが、高級車の方には、運転手であるシルヴィアさん、助手席の俺、そして後部座席に天川、有栖川、久木先輩という、なかなかに混沌とした組み合わせが詰め込まれていた。
当然、石澤先生が運転するミニバンの方には、残りの面々が乗っている。
今回のキャンプは、人数だけで十人に達する大所帯だ。
車を二台に分けるのは、まあ当然ではある。
――だが!
それでも!
配置にはもう少し配慮というものが必要だったのではないだろうか!
主に、脇役である俺のために!
例えば俺だけ向こうの車に乗せて、あとは今のままにするとか。
……などと、今さら不満を言ったところで向こうに空席があるわけではない。
仮に俺が向こうの車に乗るなら、当然、誰かがこちらへ移ることになる。
それはつまり、俺個人の楽しみのために、優人のラブコメを邪魔するということだ。
それだけは許されない。
だから俺は、涙を飲んで!
いや、血涙を飲んで、この配置を受け入れるしかなかったのだ!
「はああああああ……」
「ふふ。楽しい旅行になりそうですね」
俺とは正反対に、ただただ楽しげなシルヴィアさんを恨めしげに見る。
それが、今の俺にできる最大限の反抗だった。
◇ ◇ ◇
「お嬢様方は、ずいぶんお疲れだったようですね。仲良く眠っていらっしゃる姿は、とても微笑ましいと思いませんか?」
「正直に言ってもいいですか?」
「ええ、もちろん」
「くっそどうでもいいです」
俺の返答に、シルヴィアさんは何がそんなに楽しいのか、優雅に笑みを浮かべた。
今の答えのどこから、そんな表情が出てくるのだろうか。
理解できない。
理解したくもない。
車で移動を始めてから、そろそろ一時間ほど経っただろうか。
バックミラー越しに見える天川と有栖川、そして久木先輩は、互いに体を預け合うようにして眠っていた。
この空間に俺とシルヴィアさんだけを残して眠りの世界へ旅立つとは、あまりにも薄情ではないだろうか。
こうなったら、俺も無理やりにでも寝てやろう。
そう思って目を閉じようとした、そのとき――
「ああ、そうそう。実は先日、天川家の本家筋から少々気になる連絡がありまして」
シルヴィアさんが、何でもないことのようにそう切り出した。
「ちょうど、以前月影様をお屋敷へご招待した日と重なる話なのですが」
イラっとした。
よくもまあ、そんなにいけしゃあしゃあと言えたものだ。
招待ではない。
あれは拉致だ!
誘拐だ!
気づいたらベッドに手足を拘束され、半裸の天川の下敷きになっていたあの屈辱は、今思い出しても奥歯が軋む。
これは一言、文句を言わなければ気が済まないぞ!
そう思って俺が口を開きかけた瞬間、
「天川家――正確には、笑兎お嬢様の周辺を探るような動きがあったそうです。注意するように、と」
「……」
「追跡を試みたそうですが、痕跡を消す手際が非常に巧みで、特定には至らなかったとのことでした」
シルヴィアさんは、にこりと微笑んだ。
視線は正面へ向けられている。
だが、バックミラー越しに見えるその目は、確かに助手席の俺を射抜いていた。
「まったく。いくら笑兎お嬢様が可愛らしいとはいえ、困った方もいらっしゃるものですね。そうは思いませんか?」
……この人、気づいている。
そのうえで、わざとこういう態度を取っている。
シルヴィアさんの言葉に、心当たりはある。
いや、ありすぎる。
以前天川に拉致された後、俺は徹底的に天川について調べた。
その過程で、天川家の深い部分に繋がる情報にも触れた。
当然、その中には天川本人に関する情報も含まれていた。
ただ、それらは一介の脇役にすぎない俺が扱うには、あまりにも重すぎるものだった。
そもそも、それらの情報を整理して天川に対する対策を立てるより先に、天川本人が俺の周囲に居座り始めたので、結局ほとんど意味を成さなかったのだが。
正直に言えば、今この瞬間までほとんど記憶の隅に追いやっていた情報である。
今さらそれを使ってどうこうするつもりはない。
むしろ、下手に関われば脇役としての役割から大きく外れる危険の方が大きい。
だから俺としては、このまま徹底的に無視したい。
……まあ、そんなこちらの事情など、向こうにとってはどうでもいいのだろう。
今、この話を切り出した意図までは分からない。
だが、俺をあまり舐めないでいただきたい。
いいだろう!
こうなったら、正面突破だ!
俺は最大限に平静な表情を意識しながら、何でもないことのように口を開いた。
黒板に落書きした犯人を聞かれたとき、素直に手を挙げるくらいの軽さで。
「あ、それ、俺ですね」
「……あら」
瞬間、シルヴィアさんの目がすっと細くなった。
正直に言おう。
怖い。
何をされるか分からないという、本能的な警告が先に立つ。
それでも俺は、どうにか平静を装いながら腕を組んだ。
「高校生になって早々、拉致監禁されるなんていう、なかなか得がたい体験をさせられたわけですからね。二度目がないように、相手の情報を調べるくらいはするでしょう。ええ。本当に、常識というものを少しは学んでいただきたい」
「……」
俺の皮肉に、シルヴィアさんは数秒ほど沈黙した。
……大丈夫だよな?
俺、消されないよな?
気がついたら山奥の土の下、なんて未来だけは遠慮したい。
少し遅れて後悔しつつも、俺がどうにか平静の仮面を被り続けていると、
「ぷっ……あははははっ!」
次の瞬間、シルヴィアさんは堪えきれないといった様子で笑い出した。
「ああ、もう。本当に月影様は面白い方ですね」
「……それはどうも」
すでにかなり怯えている俺としては、そう返すのが精一杯だった。
臆病者と呼ばないでほしい。
それくらい、この美人執事のお姉さんは怖いのだ。
「ご安心ください。別に、この件で月影様をどうこうしようと思って話を切り出したわけではありませんから」
「はあ」
「ええ。もちろん、月影様が得た情報をどこかへ漏らすような方ではない、と判断していることもあります。……それに」
シルヴィアさんは一瞬だけ言葉を切った。
そして、バックミラー越しに俺を見て、それから眠っている天川へ視線を移した気がした。
「月影様なら、あるいは……」
何かを言いかけて、シルヴィアさんは静かに首を横に振った。
「いえ。何でもありません」
そう言って、彼女は再びいつもの優雅な微笑みを浮かべる。
「どうか、これからも笑兎お嬢様のことをよろしくお願いいたします。月影様」
よく分からないが、とりあえず命の危険はなさそうだった。
それは幸いだ。
幸いなのだが、たとえ命の危険があったとしても、今の一言に対してだけは断固として言っておきたい。
「――絶対に嫌です」
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