44話 ダメ養護教諭とポンコツ保健委員
「――本当に申し訳ありませんでした!」
俺の目の前には、三十代半ばの女性教師が見事な土下座を決めている光景が広がっていた。
そして俺はというと、保健室の椅子に腰かけ、腕を組み、片足を軽く組んだ状態で、その教師を見下ろしている。
構図だけ見れば、かなり暴力的だな。
いや、誤解しないでほしい。
俺が土下座を強要したわけではない。
この人が勝手に床へ飛び込んだのだ。
その横では、ナース服を着ている天川が、いつも通りの無表情でこてんと首を傾げていた。
「魔が差したというか、天川ちゃんがあまりにも素直に信じてくれるものだから、つい調子に乗りすぎたというか……」
「ほう。 教師でありながら、純真な生徒をだまして欲望を満たしていたと」
「いや、その、天川ちゃん可愛いし、似合うだろうなーと、みたいな出来心がつい……てへぺろ」
「誰が顔を上げていいと」
「申し訳ありませんでしたぁっ!」
こっそり顔を上げてうざい表情をする彼女を睨んでやると再び床と額が親友になる勢いで頭を下げた。
見事な土下座だな。
こんなにも堂に入った土下座を見る機会は、人生でそう多くないだろう。
なんなら手本として載せてもいいレベルだ。
まあ、そんな技術を磨く前に、人としての在り方を磨くべきだとは思うが。
彼女の名前は安田凜子。
桃源高校進学科の保健室を担当する養護教諭であり、生徒たちの間では「終わりの安田」などという、本人が聞いたら三日は寝込みそうな不名誉なあだ名で呼ばれている。
何が終わっているのかは、まあ色々だ。
婚期をとっくに逃しているから。
教師としての節度がないから。
大人としての威厳がないから。
あとは、噂によれば私生活もかなりのダメっぷりとか。
要するに、絵に描いたようなダメ人間というわけだ。
救いがない。
それでもクビにならないくらいにはまあまあ仕事できるみたいだけど。
今回、天川がナース服を着るようになった経緯について、犯人の口から得た情報を整理するとこうなる。
天川は保健委員だ。
そして安田先生は、保健委員になった生徒たちに対して、昔から少々悪ノリの絡み方をしていたらしい。
中には中年オヤジよろしく、生徒に対するセクハラまがいなこともあったと聞く。
普通の生徒なら、まあ呆れるか引くだろうな。
実際、ほとんどの保健委員はそうした。
最初は真面目に保健室へ顔を出していた生徒たちも、安田先生の絡みの悪さに付き合いきれなくなり、次第に必要最低限の仕事だけを済ませて去っていくようになったという。
だが、天川だけは違った。
彼女は安田先生の言葉を、冗談として処理しなかった。
そして、言われたことをそのまま実行した。
冗談を冗談として処理する機能が、どこか別の次元に旅立っているのだろう。
そのあたりについては、俺にも心当たりがありすぎる。
シルヴィアとかいう天川付きの謎の多い執事のお姉さんが吹き込んだ、よく分からない知識。
それを天川が真顔で信じ、俺に実践してきた結果、どれほどの被害が発生したことか。
被害者代表として、俺はその危険性を誰よりもよく知っている。
つまり、天川は冗談を吸収する。
そして実行する。
危険なまでに。
安田先生は、そんな天川の性質に気づいた。
最初は、ただの軽い冗談だったようだ。
だが、何を吹き込んでも天川はそれを受け止めることにつれ、どんどん悪ノリが加速した。
そして本日。
「保健委員の正式な制服はこれだよ」などという、どこの異世界保健室の話だと突っ込みたくなるようなでたらめを真に受けた天川が、あの姿になったというわけである。
なるほど。
よーく分かった。
安田先生は、やはり終わっている。
ちなみに、着替えの最中に安田先生が保健室を空けていた理由は、進学科の総括主任から「新体力テスト中なのだから、保健室にこもっていないで少しは現場を見てきなさい」と言われたかららしい。
まったくもって正論だ。
総括主任の話が出た途端、安田先生はいきなり、「融通の利かない妖怪ババア」とか「帰り道で犬のふんでも踏んでしまえ」とか、陰湿な悪口と呪詛を小声で漏らしていた。
普段からかなり不満があったような気配を感じたが、関わりたくないので聞かなかったことにした。
婚期を逃した女の闇には、あまり深く関わらない方がいいからな。
「そ、その……月影君」
床に額をつけたまま、安田先生が恐る恐る声を出す。
「はい」
「できれば、教育委員会とか、学園相談室とか、PTAとか、そういうところへの通報だけは……」
「ほう……」
「ひいっ!」
保身が早い。
反省より先に保身が出ている。
教師としての誇りや、大人としての威厳はどこへ行った。
こんな人が保健室を任されていて大丈夫なのか、桃源高校。
少し本気で不安になる。
……だが。
これは、使えるかもしれない。
人として問題があるのはまあ、間違いない。
しかし、彼女は正真正銘、進学科保健室の責任者だ。
保健室。
それは学園ラブコメにおける聖域の一つだ。
二人きり。
偶然の接近。
距離が縮まるイベント。
そんなものを演出する場としては、保健室の上に置く場所はない。
保健室で偶然の二人きり。
急速に仲良くなる主人公とヒロイン。
そんなイベントをプロデュースするのに、この状況は利用できる。
もちろん、俺は自分が裏で糸を引いて状況を作る人工的なイベントには反対する立場だ。
ラブコメとは自然発生するからこそ価値がある。
それが俺の美学だ。
だが、例えばの話。
優人とヒロインが偶然保健室へやって来たとする。
その時にこの駄目教師が、ほんの少し席を外してくれるだけなら、ありかもしれない。
くっくっく……我ながらこの頭の切れの良さよ。
さて、具体的にはどうしてやろうか――
くいくい。
そこまで考えていたら、誰かが俺の袖を引いた。
まあ、この保健室にいるのは、土下座中の駄目教師と俺、そしてポンコツ保健委員だけだ。
誰なのかは、見なくても分かる。
「何だ、天川。 今ちょっと忙しいから、遊んでほしいなら後で――」
天川の方へ顔を向けた瞬間。
額に、冷たいものが触れた。
「っ!? 痛っ!」
次の瞬間、じわりとした痛みが額から広がる。
反射的に顔を引こうとした俺の頭を、天川は無言で押さえつけた。
そして、手に持った脱脂綿らしきものを、俺の額へ容赦なく押し当てる。
「天川、お前、今何を……っ、だから痛い!」
「治療」
鼻をつくような消毒液の匂いがした。
どうやら、俺の額の傷を消毒しているらしい。
……そういえば、額の傷を診てもらうために保健室へ来たのだったな、と間の抜けたことを思い出した瞬間、再び容赦のない消毒が襲ってきた。
「痛っ! 治療なのは分かった! 分かったが、もう少し人間らしい加減というものを覚えろ!」
「じっとして。 我慢」
「ふざけんな!」
天川は相変わらずの無表情で、淡々と俺の額を消毒していく。
それはもう力いっぱいの手心で。
もう少し手加減とか知らないのか、このポンコツは!
「お、おお……」
そのとき、床から謎の感嘆の声が漏れた。
終わっているそいつは土下座の姿勢のまま、わずかに顔を上げ、こちらを見ていた。
「エロイナースのお姉さんが、眼鏡男子高生に強引に迫る……これは尊い……!」
「あぁ?」
「ひいっ!」
俺が低い声を出した瞬間、安田先生は再び床に額を押しつけた。
余計なことぬかしやがって……だから痛い!
俺は額の痛みと、目の前の駄目な大人への苛立ちと、無表情で治療を続ける天川への困惑が限界に達し、ついに声を張り上げた。
「いい加減にしろ、このポンコツ野郎――!」
俺の叫びが、保健室に虚しく響いた。
なお、その後。
俺は額に絆創膏を貼られた状態で、ポンコツな保健委員と終わっている保健教師を正座させ説教してやった。
……俺は何をしているんだ、全く。
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