41話 主人公の宿命を測るべからず
始まる前からささやかなトラブルが発生したものの、進学科一年の身体測定は何事もなかったかのように開始された。
測定はクラスごとに指定されたルートを巡回し、各ブースで順番に測定を受けていく方式だ。
身長、体重、視力、聴力、心電図、採血。
そして最後に、多目的ホールの外に待機している検診車で胸部X線を撮る。
ちなみに、視力検査や聴力検査のように比較的そのまま受けられるものは男女共通の区画で行われるが、身長、体重、BMIの算出、心電図といった少しでも気を遣う項目については、男子側と女子側できっちり区切られていた。
生徒のプライバシーに配慮した、実に真っ当な配置と言えよう。
別の言い方をすれば、優人のラブコメ展開を根本から封じる構造でもある。
学園側の判断としては正しい。
無用なトラブルを避ける。
個人情報を守る。
生徒が安心して測定を受けられる環境を整える。
どれもこれも、教育機関としては極めて当然の配慮だ。
だが、ラブコメ的にはまったく面白くない。
ちぇーっ。
「……優人、お前という奴は……」
――などと。
脇役に過ぎない俺ごときが、主人公の限界を勝手に見くびっていたことを、今この瞬間、猛烈に反省しております。
なぜなら。
「きゃあああああっ!?」
「ちょ、ちょっと、ユウト!?」
「え、神代君、何を――きゃあっ!?」
女子側の測定区画から、悲鳴が上がった。
多目的ホール中の空気が、一瞬で固まる。
何が起きたのか。
正直、俺にも分からない。
ついさっきまで、優人は俺の隣にいた。
同じように測定を終え、同じように次の区画へ移動していた。
少なくとも、俺の記憶に残っているのはそこまでだ。
ただ、それだけだったはずだ。
それなのに、次の瞬間。
優人の姿が消えた。
そう思った矢先、気づけばあいつは、カーテンで仕切られた女子側の測定区画に迷い込んでいた。
いや、迷い込んだという表現は正しくないかもしれない。
あれは、もっと根源的な何かだ。
ラブコメという世界そのものが、優人をそこへ導いた。
そんなふうにしか思えない。
まさに神業。
そこに派手さはない。
華麗な動きもない。
伏線らしい伏線さえない。
ただ、結果だけが残る。
必中、必殺、必然。
ラブコメ主人公がそこにいる限り、イベントは必ず発生する。
たとえ学校側がどれほど合理的に区画を分けようとも。
たとえ男女別のカーテンが何枚張られていようとも。
たとえ俺が隣で見張っていようとも。
発生するものは、発生する。
その技に、あえて脇役である俺が名を付けるなら――
不可避の災厄。
ラブコメ主人公が一定範囲内に存在するだけで、世界が勝手にイベント発生条件を満たしてしまう、因果干渉系の奥義!
「やはり勇者だ……」
「勇者の動きだ……」
「神代は漢だ……」
男子たちは、優人が消えた方向を見つめながら、尊敬と畏怖が入り混じった表情でざわついていた。
分かる。
分かるぞ、同胞たちよ。
今のは俺にも見えなかった。
主人公観測を生業とするこの俺でさえ、優人が女子側の測定区画へ到達するまでの過程を捉えることができなかったのだ。
つまり、あれはもはや技術ではない。
現象である。
俺は静かに合掌した。
南無阿弥陀仏。
カーテンの向こう側は見えない。
当然だ。
見えてはいけない。
俺たち男子にできることは、向こう側から聞こえてくる断片的な音を頼りに、おおよその状況を想像することだけである。
「こ、この変態いいいいっ!」
「誤解だあああああっ!!」
女子たちの悲鳴と、優人の必死な叫びが、多目的ホールに響き渡った。
なるほど。
天国かと思えば、即座に地獄へ叩き落とされる。
それもまた、ラブコメ主人公の宿命ということか。
優人。
お前という奴は、どこまで俺を楽しませてくれるんだ……!
◇ ◇ ◇
そんな、あまりにも楽しいラッキースケベイベントが過ぎ去り、昼休み。
「……ぷくくっ」
屋上庭園のベンチに座りながら、俺は必死に笑いを噛み殺していた。
優人の両頬には、またしても鮮やかな紅葉が刻まれている。
朝の件でもそうだったが、本当に芸術作品と呼んでも差し支えない。
題名を付けるなら――そうだな。
『ラブコメ主人公、春の受難』。
うむ。
悪くない。
「……この世界は理不尽だ……」
優人が虚ろな目で呟いた。
だが、その言葉に反応する者はいない。
朝の教室での着替えハプニングについては、まだ同情の余地があった。
学生証を忘れて教室に戻っただけ。
そこに女子たちがいた。
あれは事故だ。
女子側の過失割合もなかなか高めの事故だった。
しかし、今回については話が違う。
どんな理屈をこねようと、優人が女子側の測定区画に入り込んでいたという結果だけは動かない。
たとえ本人にその意思がなかったとしても。
それが、ラブコメ主人公として生まれた男の宿命というものなのだ。
だから受け入れろ、優人。
そして、これからも俺を楽しませてくれ。
「ふん! 変態ユウトなんて放っておいて、ご飯にしましょ、エトちゃん」
「離れて」
「いーやー」
エリナはまだ不機嫌そうに頬を膨らませながら、隣に座らせた天川にべったりとくっついていた。
四月の終わり。
季節的にはまだ暑すぎず、屋上で昼食を取るにはちょうどいい気候だ。
整えられた屋上庭園には、花壇とベンチが配置されている。
昼休みになると、弁当を持った生徒たちがそれぞれ好きな場所に腰を下ろす。
今日は一年生だけが午後も新体力テストを控えているため、俺たちは体操服のままだ。
一方、上級生たちは普通に授業があるため、制服姿で昼食を取っている。
その差が、なんとなく今日が特別な日であることを意識させた。
まあ、特別すぎる事件を二回も起こした男が目の前にいるせいで、今さらではあるが。
「離れて」
「やーだー。 エトちゃん成分を補給しないと、午後の体力測定を乗り切れないもの」
「知らない」
天川は面倒くさそうにエリナの肩を押し返そうとした。
しかし、それも二度ほどで終わった。
このやり取りも、もう一度や二度ではない。
最終的に天川はうんざりした表情に……なることもなく、いつも通りの無表情のまま、諦めたようにエリナの好きにさせていた。
よい。
非常によい。
エリナと天川の距離感も、少しずつ安定してきている。
この勢いで俺への興味もさっさとなくしてくれたまえ。
「だから誤解なんだって……」
優人は、エリナの冷たい視線にさらに肩を落としながら、膝の上の弁当箱を開いた。
それは妹である彩花ちゃんが作ってくれた弁当だ。
愛妻弁当ならぬ、愛妹弁当。
妹の愛がたっぷり詰まったその弁当を、優人はしょんぼりとつつき始める。
哀愁がすごい。
弁当の中身は明らかに豪華なのに、食べている本人の表情が沈み切っているせいで、全体的に葬式のような空気になっていた。
俺はそんな優人とエリナの様子を眺めながら、購買で適当に買ってきたパンをかじる。
周囲を見回すと、屋上にいる一年生たちの視線が、ちらちらとこちらに向けられているのが分かった。
正確には、俺たちではない。
優人だ。
午前中の身体測定で起きた事件は、どうやらすでに他クラスにも広がりつつあるらしい。
生徒数は多いくせに、噂の伝達速度だけは妙に速い。
これまで優人は、基本的に一年A組の中だけで「美少女を引き寄せる魔性の男」として認識されていた。
だが、今回の測定イベントをきっかけに、その勇名は一年生全体へと広がりつつある。
実に喜ばしいことだ。
優人が有名になればなるほど、美少女との接触機会は増えていく。
これは、これまでの観測結果から導き出された信頼性の高い法則だ。
このままいけば、全校生徒一万人近いこのマンモス校において、神代優人の名が知れ渡る日もそう遠くないかもしれない。
ああ。
素晴らしい。
午後の新体力テストも、実に楽しみだ。
今度はどんなイベントが、優人に降りかかるのだろうか。
胸の高鳴りを抑えきれないまま、俺は残りのパンを口の中へ放り込んだ。
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