39話 有栖川世慕は過去を語る
「それでは、改めまして」
彩花ちゃんは姿勢を正すと、優雅に小さく頭を下げた。
「神代彩花と申します。有栖川先輩、どうぞよろしくお願いいたします」
ここまで散々話しておきながら、俺たち――正確には彩花ちゃんが、まだ正式に自己紹介をしていなかったことに気づいたのだ。
なかなか間の抜けた話だ。
「はい。 よろしくお願いいたします、神代さん……」
有栖川は穏やかに微笑み、彩花ちゃんへ頷いた。
だが、その言葉の最後が、わずかに揺れた。
「神代……?」
「はい! 神代彩花です」
彩花ちゃんは、曇りのない笑顔で頷く。
それに対して、有栖川は一瞬だけ目を丸くした。
そして、確認するように俺の方を見る。
……まあ、何を気にしているのかは、何となくわかる。
「たぶん察してると思うが、彩花ちゃんは優人の妹だ」
「あ、同じ中学に通っていらしたのでしたら、当然、優人お兄様のこともご存じですよね。 はい。 わたくしの自慢のお兄様です」
「……そう、でしたのね」
彩花ちゃんの一点の曇りもない笑顔が眩しかったのか、有栖川はわずかに視線を逸らした。
その指先が、膝の上でぎゅっと握られる。
中学時代のことについて、有栖川の中にも思うところがあるのだろう。
あの時の有栖川は身勝手な理由で周囲を使い、優人やその周りにいた連中へ質の悪い嫌がらせをした。
その結果、軽傷ではあったが、優人が怪我を負ったこともある。
俺はそのことを忘れたわけではない。
ただ、その後の警告と脅しの結果、有栖川は転校した。
そして最近のこいつからは、かつての傲慢さはかなり薄れている。
だから俺は、中学時代のことを必要以上に掘り返さないようにしていた。
だが、有栖川本人の中でそれがどう整理されているのか。
そこに俺が口を挟む資格はない。
「有栖川先輩?」
彩花ちゃんが、不思議そうに首を傾げる。
有栖川は一度だけ、小さく息を吸った。
俺には、それが何か覚悟を決めたように映った。
「――神代さん。 お話ししておきたいことがあります」
「はい。 何でしょうか」
有栖川の声音があまりにも真剣だったからだろう。
彩花ちゃんもまた、すっと背筋を伸ばした。
「まず、謝らせてください」
「……え?」
「申し訳ありませんでした、神代さん」
有栖川は、静かに頭を下げた。
突然の謝罪に、彩花ちゃんは目を瞬かせる。
俺もまた、すぐには反応できなかった。
有栖川は顔を上げると、まっすぐ彩花ちゃんを見た。
「中学の頃、わたくしはあなたのお兄様――神代君を傷つけました」
その瞬間。
彩花ちゃんの表情が、はっきりと変わった。
「――それは、どういう意味でしょうか」
声は静かだった。
だが、その温度は明らかに下がっている。
まあ、当然だな。
彩花ちゃんにとって、優人に関することは世界の中心に等しい。
その優人を傷つけたと言われて、平然としていられるはずがない。
だが、有栖川は逃げなかった。
「言葉通りです。 直接手を下したわけではありません。 ですが、原因を作ったのはわたくしです」
有栖川は、彩花ちゃんの目を見たまま続ける。
「昔のわたくしは、ひどく退屈していました。 誰もが有栖川の名を見て、わたくし自身を見ようとはしない。 望めば大抵のものは手に入る。 周囲はそれを当然のように受け入れる。 そんな世界を、わたくしは当たり前だと思っていました」
一度、そこで言葉が切れる。
「けれど同時に、どうしようもなく退屈でもありました」
彩花ちゃんは黙って聞いている。
「そんなとき、神代君たちが目に入りました。 彼らは何も悪くありません。 ただ普通に、楽しそうに学校生活を送っていただけです」
有栖川の指先が、膝の上でわずかに震えた。
「それが、当時のわたくしには、たまらなく目障りだったのです。 幼稚な八つ当たりです。 わたくしは周囲を使い、彼らに嫌がらせをしました。 その結果、神代君に怪我を負わせてしまった」
そして、有栖川はもう一度、深く頭を下げた。
「申し訳ありませんでした」
カフェのざわめきが、妙に遠く感じられた。
俺に、有栖川を庇う義理はない。
そして、彩花ちゃんに怒るなと言う資格もない。
だから俺は、黙って見ているしかなかった。
「……正直に申し上げますと、驚いています」
しばらくして、彩花ちゃんが口を開いた。
彼女は冷めかけた飲み物に視線を落とし、それから静かに続ける。
「お兄様に関わることですから、平気ですとは言えません。 わたくしがお兄様の代わりに許すこともできません」
「……はい」
「ですが」
彩花ちゃんは、ゆっくりと顔を上げた。
「少し、安心いたしました」
「……安心、ですか?」
有栖川が、思わず聞き返す。
俺もたぶん、同じような顔をしていたと思う。
「はい。 言い方が変かもしれませんが……有栖川先輩も、わたくしたちと同じ一人の人なのだとわかったからです」
彩花ちゃんは小さく頷いた。
「わたくしにとって、有栖川先輩はずっと遠い存在でした。 美しくて、凛としていて、何もかも完璧に見える方でした」
そこで、彩花ちゃんは少しだけ困ったように笑う。
「けれど、今のお話を聞いて、失礼ながら思ってしまったのです。 有栖川先輩にも、過ちを犯されることがあるのだと。 後悔することがあるのだと」
有栖川は言葉を失っていた。
「もちろん、お兄様に直接謝るべきだとは思います。 そこは、わたくしが代わりに受け取れるものではありません」
「ええ。それは、もちろん……」
「ですが、それでも」
彩花ちゃんは、有栖川をまっすぐ見つめた。
「ご自分の過ちを、隠さずに話してくださったことは、わたくしは尊いことだと思います」
「……尊い、などと」
有栖川は、困ったように目を伏せた。
「わたくしは、あなたが思ってくださるほど立派な人間ではありません。 憧れられるような人間でも、ありませんわ」
「それでもです」
彩花ちゃんの声は、柔らかかった。
けれど、不思議と芯があった。
「以前の有栖川先輩がどうであったとしても、今、わたくしの前で頭を下げてくださった有栖川先輩を、わたくしは軽んじたくありません」
「神代さん……」
「ですから、もし有栖川先輩が納得できないのでしたら、いつかお兄様に直接謝ってください」
「はい。 それは必ず」
「それで十分です。 少なくとも、わたくしに対しては」
「ですが、それだけで……」
有栖川は、まだ納得しきれない様子だった。
そんな有栖川に、彩花ちゃんはふわりと微笑む。
「では、ひとつだけ、わがままを申し上げてもよろしいでしょうか」
「……何でしょう」
「わたくしのことは、どうか彩花、とお呼びください」
有栖川が、またしても言葉を失った。
彩花ちゃんは、少しだけ頬を染めながら、それでもまっすぐ有栖川を見ている。
「尊敬している先輩に、いつまでも苗字で呼ばれるのは、少し寂しいですから」
「……彩花、さん」
「はい」
彩花ちゃんは、嬉しそうに微笑んだ。
それを見て、有栖川は困ったように、けれどどこか柔らかく笑った。
俺は二人のやり取りを眺めながら、ぬるくなったコーヒーを一口飲む。
どうやら今日は、優人の休日デートイベントではなく、義妹とお嬢様の距離が縮まるイベントだったらしい。
……俺の予定表には、そんなもの一文字も書かれていなかったのだが。
薄暗く濁ったコーヒーの表面には、苦笑いを浮かべた冴えない眼鏡顔が映っていた。
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