36話 デートの尾行は脇役の使命だ!
待ちに待った翌朝がやってきた。
俺には脇役として、親友として、優人のラブコメディの一部始終を観測し、脳内保存装置へ余すところなく記録する義務がある。
始まりから終わりまで。
些細な仕草から、何気ない会話まで。
ヒロインの表情変化、主人公の鈍感発言、そしてそこから生まれる尊き空気のすべてを。
そう。
もはやこれは趣味ではない。
使命なのだ!
故に!
「現在時刻、九時三十分。いまだ目標が外出する気配はなし」
その使命を忠実に果たすため、俺は朝から優人の家の近くで待機していた。
待ち合わせが何時からなのかまでは把握していない。
ならば、足りない情報は身体で補うしかない。
そして俺は、優人のことにおいてはどんな努力も惜しまない男。
そんな俺にとって、この待ち時間すら苦痛ではないのだ。
むしろ、今この瞬間さえ喜びで満ちていると言っていい。
なにせ今日は、優人と桜庭の休日ラブコメイベントが開催される(と思われる)記念すべき日なのだから!
胸が高鳴らないはずがないのだ!
「くくく……相変わらず憎たらしいほどの快晴だな。だが、今日の俺は機嫌がいい。寛大な心で見逃してやろう……くくく。くふふふふふ!」
「ママ、あのお兄ちゃん変だよー」
「しっ! 見ちゃいけません。 ほら、早く行くわよ!」
おっと、つい高まる気持ちで封印していた中二病が漏れてしまった。
まあ、些細なことだ。
そうして待つこと、さらに二十分ほど。
「それじゃ、行ってくるね」
九時五十分。
ついに、優人が玄関から姿を現した。
この位置からは見えないが、おそらく見送りに出ているのは彩花ちゃんだろう。
優人の服装は、実にシンプルだった。
薄いグレーのカーディガン。
中には白いシャツ。
下は青のジーンズに、履き慣れたスニーカー。
あと小物入れ用のショルダーバッグ。
全体的に清潔感はある。
だが、気合いが入っているかと聞かれれば、答えは否だ。
普段、俺と私服で遊びに行くときの服装とほとんど変わらない。
ここで「なんだ、デートじゃないのか」と思った者は、まだまだ修行が足りない。
一流の脇役ならば、この時点で理解できる。
優人は、今日の予定をデートだとは一ミリも認識していないということを!
ただの外出。
ただの約束。
ただのクラスメイトとの用事。
おそらく、優人の脳内辞書において、今日の予定はその程度に分類されているのだろう。
そもそも、あいつの辞書に「デート」という単語が存在しているかどうかすら怪しい。
だが、それでいい。
その無自覚さこそ、鈍感系主人公の本領。
ヒロインがどれだけ意識していようと、本人だけは平常運転。
その温度差こそが、ラブコメにおける尊き燃料なのだから!
大いに結構!
俺は心の中で拳を握り、一定の距離を保ちながら移動を開始した。
さて、楽しい尾行、もとい散歩の時間だ。
◇ ◇ ◇
尾行と聞いて、諸君は何を思い浮かべるだろうか。
一般的なイメージは多分こうだろう。
季節外れのトレンチコート。
顔を完全に隠すマスク。
黒いサングラス。
そして、不自然なほど深く被った帽子。
断言しよう。
全部アウトだ。
そんな格好で人混みに紛れようものなら、「私は今から尾行します」と全身で宣言しているようなものだ。
尾行とは本来、目立たず、静かに、気づかれないことを徹底しなければならない。
自分の存在を相手に悟らせず、距離を保ち、周囲に溶け込みながら目標を追い、必要な情報を得る。
それこそが尾行の真髄。
つまり、重要なのは変装ではない。
平凡さ、それに尽きるのだ。
ゆえに俺は、ごく普通の服装で、ごく普通の通行人を装いながら、スマホを眺めるふりをして優人の後を追った。
もちろん、視界の端では常に優人の姿を捉えている。
長年優人のラブコメを観察するために背景と同化することに徹した俺にとって、この程度は造作もない。
具体的な待ち合わせ場所までは知らない。
だが、おおよその見当はついている。
新都市計画によって、百貨店、映画館、ゲームセンター、複合アミューズメント施設、カフェ、雑貨店などがまとめて集められた、この街最大の繁華街。
駅前エリア。
休日に高校生が誰かと待ち合わせをするなら、まず間違いなく候補に上がる場所だ。
その中でも定番中の定番といえばあの場所。
そう!
白銀時計台と七公像だ!
……何だか、いろいろな有名待ち合わせスポットを無理やり混ぜたような感があるのは見逃してやってほしい。
大人の事情というやつだ。
そういう部分に気づいても、あえて優しく見逃してあげる。
それが、我々若い世代の思いやりではないだろうか。
優人の後を追い始めてから十数分。
予想通り、優人は駅前通りへ向かった。
そして、そのまま白銀時計台と七公像が並ぶ広場へと歩いていく。
広場にはすでに多くの人がいた。
友人を待つ学生。
スマホを片手に立つ会社員。
カップルらしき男女。
観光客らしき家族連れ。
そんな人混みの中で、ひときわ目を引く少女が一人。
桜色の髪を、どこか落ち着かなさそうに指先で整えている。
時折スマホで時間を確認し、周囲を見回し、また自分の服装を気にするようにワンピースの裾を軽く直す。
手提げバッグの持ち手をぎゅっと握ったり、離したり。
ヘアピンの位置をそっと確認したり。
深呼吸をするように、小さく肩を上下させたり。
遠目からでもわかる。
あれは完全に、今日という日を意識している少女の仕草そのものだ。
言うまでもない。
進学科一年A組のクラス委員長。
桜庭桃花だった。
今日の桜庭は、教室で見る姿とは違っていた。
清楚系のワンピース。
足元は可愛らしいサンダル。
小さめのハンドバッグ。
淡い桜色の髪はいつもより丁寧に整えられていて、横に留められたヘアピンがさりげなくアクセントになっている。
派手すぎない。
だが、明らかに普段より気合いが入っている。
そして、そんな彼女の周囲では、通り過ぎる男たちがちらちらと視線を向けている。
無理もない。
普段から整った顔立ちをしている桜庭だが、今日はそこに少しだけ特別感が加わっている。
その破壊力は、なかなかのものだった。
それに対して、優人はいつも通り。
清潔感はある。
悪くはない。
むしろ自然体で好感度は高い。
だが、あまりにも普段通りだ。
この温度差……!
桜庭の意識の高さと、優人の平常運転。
その落差があまりにも大きすぎて、このおじさんは少し泣きそうです。
そんなことを考えていると、優人が広場へ到着した。
桜庭がそれに気づく。
その瞬間。
彼女の表情が、ぱっと明るくなった。
ほんの一瞬だけ。
本当に一瞬だけ、花が咲くような笑顔を見せた。
だが、すぐに我に返ったのか、桜庭は慌てて表情を整える。
そして、何でもないふうを装うように、少しだけ背筋を伸ばした。
見ましたか?
今のを見ましたか、諸君!
実に初々しい反応。
ああ、なんと素晴らしい。
これはいいデートシーンが見られそうな予感がしますぞ。
優人が桜庭の前で立ち止まる。
二人が何かを話している。
距離があるため、会話の内容までは聞こえない。
だが、桜庭が少し緊張したように笑い、優人がいつもの調子で穏やかに返していることはわかった。
そして、ゆっくりと歩き出す二人を見て、俺はこれから始まるデートイベントに胸を躍らせた。
さあ、見せてもらおうじゃないか、優人君。
桜色の委員長と紡ぐ、記念すべき休日デートイベントを!
――その後を追うべく、一歩を踏み出そうとした、その瞬間だった。
「――月影様?」
背後から、聞き覚えのある声がした。
決して本意ではない。
本意ではないのだが。
最近になって、妙に耳に馴染んでしまった声。
俺は小さくため息をついてから、振り返った。
そこにいたのは、紅い髪を揺らし、どこか気品のある佇まいでこちらを見つめる少女。
彼女は、こちらの姿を見つけたことが意外だったのか、わずかに目を丸くしている。
――有栖川世慕が、そこにいた。
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