33話:混沌の果てでも答えは出る
「まずは……『先輩の恋する気持ちは、とても素敵だと思います』とかどうかな?」
犬井先輩は、A4用紙へ向かいながら、真剣な顔でそう呟いた。
その瞬間、エリナの眉がぴくりと動く。
「どこが素敵なんですか?」
「えっ?」
「どこが素敵なんですか?」
二回言った。
しかも、二回目の方が明らかに圧が強い。
犬井先輩はびくっと肩を震わせ、助けを求めるように優人を見た。
「あ、えっと……恋する気持ち自体は、別に悪いことじゃないと思うけど」
「そうだよね!? 神代くんもそう思うよね!?」
「でも、今回の場合は経緯が経緯だから、最初から全面的に肯定するのは少し違う気がします」
「神代くんまで冷静!」
犬井先輩が軽くショックを受けたように胸を押さえた。
やっぱり弄りがいがある反応だな。
「なら、こうすればいいんじゃない?」
エリナが腕を組みながら言った。
「『まず警察へ行ってください』」
「橘さん! ここはお悩み相談部だからね!? 断罪部じゃないからね!?」
ほほう。 断罪部。
いい響きではないか。
中二病をくすぐられる、実にいい名前だ。
いっそ、そっちの方向の部活に変えたらどうだろうか。
きっと学園中に被告人が量産されることだろう。
「でも、この人のやってること、普通に最低じゃないですか」
「い、いや! それは……」
「相手の女の子の立場になって考えたら、普通に気持ち悪いです。 だからまず反省。 徹底的に反省。 それから自首」
「自首と言ってもどんな罪で? 単に好きな人でオナニーしました、なんて言ったら世界中の人は皆犯罪者になるぞ?」
流石に顔も知らない先輩が不憫に思えたので突っ込んでやった。
「エリナ、俺もそれは少し言い過ぎだと思うよ」
「むっ」
優人もエリナの意見には同意しない側になったのでエリナはムッとした顔になったが、結局は大人しく引き下がったのだった。
そんな俺とエリナのやり取りを横目に、久木先輩がぼそりと口を開いた。
「睡眠不足、集中力低下、受験期のストレス。 まず生活リズムを整えるべき」
久木先輩は、興味なさげな目で相談用紙を見つめながらそう言った。
「自慰への罪悪感以前に、受験生として普通に危険だな。 睡眠時間の確保は必要だし。 刺激の制限。 勉強時間の再設計。 それでいいだろ」
急にまともな話をするから私びっくり!
だが、それで終わるなら、お悩み相談部は必要ない気もする。
というか、本題とは少しずれている気がするんだよなー受験生云々は、今回あんまり関係なくないか?
「久木先輩の意見も、かなり大事だと思います」
優人が真面目に頷いた。
「受験生なのに眠れないほど悩んでるなら、体調を整えることも必要ですよね」
「そう」
久木先輩は短く答えたあと、なぜか俺を見た。
まただ。
この先輩、会話の節々で妙に俺の反応を確認してくる。
何なんだ本当に。
俺は答え合わせ用の試験紙か何かなのか?
「水着に感謝する、は?」
今度は天川だった。
全員の視線が、ゆっくりと天川へ向かう。
天川はいつも通り無表情だった。
「水着が縁を結んだって言ってたから」
俺は天川に慈愛に満ちた笑顔を向けた。
「天川」
「うん」
「お前はただ黙ってそこにいるだけでいい」
「そう?」
こてん、と首を傾げる天川。
この兎、たまに恐ろしい方向へ純粋である。
犬井先輩は困ったように笑いながら、手元の紙を見下ろした。
「うーん……。 つまり、まとめると……」
犬井先輩が書こうとする。
エリナが覗き込む。
久木先輩が冷静に見ている。
天川は何を考えているのかわからない顔で紅茶を飲んでいる。
優人は、少し考え込むように顎へ手を当てていた。
そして俺は、その光景を一歩引いた位置から眺めていた。
こう見ると中々カオス度が高いよなーこの部員の面々。
「たぶんさ」
考え込んでいた優人が、ゆっくりと口を開いた。
「まず、この先輩に伝えないといけないのは、相手の方がどう感じるかは、先輩だけでは決められないってことだと思う」
「どういうこと?」
犬井先輩が首を傾げる。
「この先輩が罪悪感を持ってるのは、その人を大切に思ってるからかもしれない。 でも、その罪悪感を一人で抱え込んで、自分だけを責め続けるのも違うと思うんです」
優人の声は、いつものように柔らかかった。
けれど、その言葉には不思議と芯があった。
「だから、まずはちゃんと相手に向き合うこと。 そうやって、そういう行為も自然にできる関係を築くこと」
優人は言葉にしながら、自分の中でも考えを整理しているようだった。
話すほどに迷いが少しずつ消えていく。
「その上で、いつか本当に覚悟が決まったら、ちゃんと言葉で気持ちを伝える。 ……それが、一番いいんじゃないかな」
犬井先輩は、感動したように目を輝かせた。
「それだよ! 神代くん、それだよ!」
「いや、そんな大げさな……」
「ううん! すごくいいと思う! 今のを軸に書けば、ちゃんと相談部らしい答えになるよ!」
犬井先輩は、先ほどまでの迷いが嘘のように、さらさらと文字を書き始めた。
丸っこい字が、A4用紙の上へ並んでいく。
その横顔は真剣で、さっきまで子犬みたいにおろおろしていた先輩とは少し違って見えた。
……こういうところを見ると、確かに部長なのだなと思わないでもない。
まあ、威厳はあまりないが。
しばらくして、犬井先輩は「できた!」と顔を上げた。
「それじゃ、読み上げるね」
そう言って、犬井先輩は完成した回答文へ目を落とす。
『お悩み、確かに受け取りました。
部員同士で話し合った結果、まず先輩に必要なのは、その方との距離を急いで縮めることではなく、一人の相手として誠実に向き合うことだ、という結論になりました。
先輩が罪悪感を抱いているのは、その方を大切に思っているからこその感情だと思います。ですが、好きな人をそのように想うこと自体は不自然なことではありません。その罪悪感だけを抱えて一人で苦しむ必要はないかと思います。
その罪悪感をなくす一番の方法は、先輩のその気持ちや行為が自然に受け入れられるような関係になること――つまり、お互いに想い合える本当の恋人同士になることではないでしょうか。
まずは、相手の方と自然に話せる関係を大切にしてください。
そして、受験生という大事な時期でもあります。
眠れないほど思い詰めるのではなく、勉強や生活のリズムも守りながら、少しずつ相手と向き合い、関係を深めていくのがよいと思います。
いつか本当に覚悟が決まったときには、きちんと言葉で気持ちを伝えてください。
ただし、相手の方を困らせるような行動はしないように気をつけてください。
相手の気持ちは、先輩一人だけで決められるものではありません。
先輩の抱える罪悪感が、いつか本物の愛情として報われる日が来ることを、お悩み相談部一同、応援しています。
お悩み相談部一同』
犬井先輩が読み終えると、部室に少しだけ静かな空気が流れた。
「……普通だ」
俺は思わず呟いた。
「思ったより、だいぶ普通にまとまってしまった」
「普通でいいんだよ!? 相談への回答なんだから!」
犬井先輩が慌てて突っ込んでくる。
いや、それはそうなのだが。
何だろう。
あれだけ混沌とした相談内容だったのに、最終的には妙に真っ当な答えに着地してしまった。
負けた気がする。
何に負けたのかは、自分でもよくわからないが。
……世間体?
「でも、いい回答だと思います」
優人がにこりと笑う。
「うん! 神代くんのおかげだよ!」
「いえ、みんなで考えたからですよ」
優人がそう言うと、犬井先輩はますます嬉しそうに笑った。
エリナはその様子を見て、少しだけ頬を膨らませている。
久木先輩は相変わらず何を考えているのかわからない顔で、なぜかちらりと俺を見た。
天川は紅茶を飲みながら、ぼーっとしていた。
こうして、俺たちのお悩み相談部初活動は、思っていたよりもずっとまともな形で幕を閉じた。
……いや。
相談内容そのものは、まったくまともではなかったが。
まあ、いい。
優人の主人公らしい一面も観測できたし、犬井先輩の好感度イベントも順調に進んだ。
エリナの反応もなかなか面白かった。
総合的に見れば、悪くない活動だったと言えるだろう。
◇ ◇ ◇
――部活の終わり。
結局優人はお悩み相談部に仮入部ではなく、正式に入部する事を決めた。
当然、それにつられてエリナと俺、そして余計なやつも正式入部を決めたのだ。
桃園高校の部活に必要な人数は最低でも五人。
見事にその条件がクリアとなったのだった。
犬井先輩は入部届を顧問の先生に渡すと言って先に出ていったので、残った面々も帰りの雰囲気になった。
そうやって各々が荷物をまとめて席を立とうとした、その時だった。
ふと、視線を感じた。
振り返ると、久木先輩がこちらを見ていた。
じっと。
まるで、何かを確かめるように。
「……何か?」
「別に」
久木先輩は短くそう答えると、視線を逸らした。
……本当に何なんだ、この先輩。
そんな小さな違和感を残しつつ。
記念すべき、お悩み相談部の初日は幕を下ろしたのだった。
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