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32話:主人公はお悩みにも真面目に

「それで、どうするんですか? これ」


 エリナが、まるで汚物でも見るような目で、テーブルの上に置かれた相談の紙を見下ろしていた。


 その視線があまりにも暴力的すぎて、下手をすれば物理的に紙を殺せるのではないかと思ったほどだ。


 俺に向けられたものではないのに、背筋がぞくりとする。


 おお、怖い怖い。

 エリナさん、本日もツンデレ幼なじみとしての殺意が絶好調でございますね。


「ううう……。 気が進まないのはわかるけど……私は、ちゃんと答えてあげたいと思うんだ……」


 犬井いぬい先輩は、問題の相談文を書いた本人でもないのに、どこか申し訳なさそうな顔をしていた。


 そして、ちらちらとエリナや優人ゆうとの顔色をうかがいながら、「駄目かな……?」とでも言いたげな目を向けてくる。


 その表情は、まさに雨の日に段ボール箱へ入れられた子犬そのものだった。


 ずるい。

 それはずるいですよ、犬井先輩。


 あの、ついさっきまで悪鬼羅刹のごとき目で相談用紙を睨んでいたエリナですら、その過剰なまでの哀れっぽさと可愛さには勝てなかったらしい。


「い、犬井先輩がそこまで言うなら……」


 エリナは何とか平静を装っていたが、必死に犬井先輩から視線を逸らしている時点で完全敗北だった。


 強気に見えるくせに、こういうところは意外と少女趣味というか何というか。

 まあ、ヒロインとしての基本素養はきちんと備えているようで何よりです。


 さて。


 そんな状況で、我らが優人は何をしているのかというと。


「……つまり、この先輩は……その、ひ、一人で……そういうことをしてしまうのが悩み、ってことだよな?」


 顔をほんのり赤くしながら、直接的な単語を口にできず、もごもごしていた。


 おい、優人。

 そこで気まずさに耐えきれず、なぜ俺を見る。


 親友のあまりにもピュアな姿に、同じ男である俺まで妙に胸がざわついたじゃないか。

 どうしてくれるんだ。


 はあー

 まったく、これだから童貞純情チェリーボーイは。


「そうだな。 好きな相手を思い浮かべながら、毎晩自慰してしまうのが悩み、ということだろう」

佐助ようすけ!?」


 残念ながら、俺は自慰って単語を口にするだけで恥ずかしがるほどの純粋さなど、とうの昔に置いてきた男だ。


 優人よ。

 お前はできるだけ長く、その清らかさを守ってくれ。


 その方が、主役としてはきっと美しい。

 いや、美味しい。


 俺の言葉に、優人はさらに困ったような顔になった。

 いや、本当に純粋だな、お前。


「そ、それじゃあ……みんな、それぞれ意見を言ってくれるかな?」


 犬井先輩も、俺の発言に顔を赤くしていた。


 ブルマーは平気なのに、こういう話題には耐性がないらしい。

 基準がよくわからない。


「正直、この悩み自体に興味はない。 ようす……月影」


 そのとき、久木ひさき先輩が、じっとこちらを見た。


「君は、知り合いで自慰の対象にすることはあるのか」

「向日葵ちゃん!?」


 犬井先輩が「女の子はそういうこと言っちゃダメだよ!」とでも言いたげな表情で久木先輩を見つめる。

 うむ。やっぱりこの人の基準が分からん。


 一瞬久木先輩が俺の下の名前を呼ぼうとしたような気がするが……気のせいだろう。


 何なんだ、この先輩。


 さっきから俺に対して、妙な興味を向けてきている気がする。

 初対面のはずなのに、どうにも距離感がおかしい。


 いや、深く考えるのはやめよう。

 こういうタイプは、考えれば考えるほど沼に沈む。


 天川あまがわ方面で、俺はすでにそれを学習済みだ。


「いいえ、全く」

「……そう」


 ネットさえあればどんな情報も手に入れる今のご時世。

 夜のお供には困らない。

 そんな時代でわざわざ知り合いをおかずに?

 ははは。 ないない。


「自慰って、楽しいの?」


 今度は天川が、いつもの無表情でぽつりと突拍子のないことを呟いた。


 この無表情兎は、時々こうやって何の前触れもなく変な角度から爆弾を投げてくる。

 しかも、なぜか明らかに俺へ向けて。

 本当に困りますよー、お客様ー。

 その爆弾発言、返品できませんかねー。


「うんうん。 楽しい楽しい」


 天川の質問も適当に流しておいた。


 一連の会話を、「何、この会話……」という呆れ顔で聞いていたエリナが、改めて相談用紙を見下ろした。

 そして、鋭い表情になる。


「どう考えるも何も……やっぱり、このセクハラ先輩が好きな人をきっぱり諦めればいいと思います。 そうじゃないなら、今すぐ警察に行って自首するとか」


 おいおい。


 あまりにも確固たるエリナの言葉に、犬井先輩と優人がそろって苦笑いを浮かべた。


「お前、実は悩み相談する気ないだろ」


 思わず突っ込むと、エリナが鋭い目で俺を睨んできた。


「うるさい、変態! 好きでもない人があたしのことを考えながら、そんな最低なことをしてるって想像しただけで……ううっ! 鳥肌立つ! 気持ち悪い! だから、その人から距離を置くのが一番でしょ!」

「これはまた随分と極端な反応で」

「気持ち悪いものは気持ち悪いの!」


 本人には何の非もないと言いたげな、実に堂々とした態度だった。


 まあ、女子側から見ればそういう反応になるのもわからなくはない。

 ただ、男として生まれたこと自体を罪のように扱われると、こちらとしても少々肩身が狭い。


 生理現象の一種だと考えれば、そこまで大げさに断罪されるものでもないと思うのだが。


 エリナは「ねえ、ユウトもそう思うでしょ?」と言いたげな目で優人を見る。


 しかし、当の優人は少しだけ微妙な顔をした。


 当然、エリナは不満げな表情になる。


「何よ、その反応」

「いや、エリナの言ってることもわかるんだけど……」

「わかるけど?」

「それって、逆に考えると、好きな相手が自分をそういう対象として見る、と言うのは別ってことじゃないかな」

「えっ!? ユウトが、私で……!?」

「……ん?」


 思いもしなかった反応に、優人が固まる。


 エリナは自分の失言に一拍遅れて気づいたらしく、顔を真っ赤にして、必死に優人から視線を逸らした。


 ……ほほう。


 俺はその様子を見て、だいたい察した。


 エリナさん?

 あなた、普段はあれこれ強気に言っているわりに、意外とそういう方向の想像力が豊かなんですね?


 なるほどなるほど。

 これはいい。


 非常にいい弄りネタを手に入れてしまった。


 このネタは、今後どこかで有効活用させていただくとしよう。


 当然のことながら、鈍感主人公である優人は、そんなエリナの反応をまったく理解できていないようだった。


 首を傾げたあと、「聞き間違いかな?」とでも言いたげな顔で話を続ける。


「……つまり俺が言いたいのは、好きな相手をそういうふうに見てしまうことや、逆にそういうふうに見られたいと思うこと自体は、たぶん自然なことなんじゃないかなってことだよ」


 優人が真面目に相談へ向き合おうとしているのを見て、犬井先輩がぱっと嬉しそうに笑った。


「うんうん! 神代かみしろくんの言う通りだと思う!」


 ちゃんと部活動に参加してくれる後輩がいてよかった!

 そう言わんばかりに、犬井先輩は両手を胸元で組み、熱のこもった目で優人を見つめている。


 着実に犬井先輩の好感度が積み上がっているのを感じますね。

 ふふふ。

 やはり優人のラブコメ体質は健在で安心した。


 それじゃ、俺は脇役らしく主人公《優人》を引き立ててやるとしますか。


「優人の言いたいこともわかるけどな」

 

 俺はわざとらしく偉そうな顔を作り、優人を見た。


「そういう話も、結局は二人が付き合っているとか、少なくとも互いに好意があると確信できる場合に限られるんじゃないか? エリナの反応は少し過激だとは思うけど、一般的に、好きでもない男にそういう目で見られていたと知れば、気持ち悪いと感じるのは当然だとは思うけどな」


「うん。 そこは俺もそう思う」


 優人はそこで一拍置いた。


「たぶん、この先輩が一番苦しんでいるのは、その行為そのものというより、好きな人をそういう風に見てしまった自分を許せないことなんだと思う」


 部室の空気が、少しだけ落ち着く。


 優人は、相談用紙へ視線を落としながら続けた。


「大切に思っているからこそ、汚してしまったみたいに感じているんじゃないかな。 だから、罪悪感だけで自分を責めるより、まずはその人とちゃんと向き合って、少しずつ関係を作っていくしかないと思う」


「ほう。 つまり?」


「だから、罪悪感だけで自分を責めるより、まずはその人とちゃんと向き合って……最終的には、そういう行為や気持ちが『汚すこと』にならないような、お互いに自然と受け入れられる関係を目指すしかないと思う」


「ふむふむ」


「つまり、ちゃんと相手の特別な人……恋人同士になれるように、前向きに努力するのが一番いいんじゃないかな。……まあ、そこまで行けるかどうかは、この先輩次第だと思うけど」


 優人の言葉に、犬井先輩が何度も頷いた。


「うんうん! やっぱり神代くん、すごく頼りになるよ! こんな後輩が入ってくれて、私は本当に嬉しい!」

「ははは……少しでも役に立てたならよかったです」

「役に立ったよ! ものすごく役に立ったよ! はあ……これで、お悩み相談部の未来も少し明るくなった気がする!」


 嬉しそうに優人と話す犬井先輩を見て、エリナはやや不機嫌そうな顔をしていた。


 とはいえ、場の空気を読めないほどではないらしい。

 口を挟むことはしなかった。


 表情は相当に険しかったが。


「それじゃ、答えをまとめるね!」


 そう言って、犬井先輩はA4用紙を一枚取り出した。

面白いと感じていただけましたら、反応をいただけますと励みになります。

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