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21話 兎が捕まえていたものは

 何だ? またどこかの馬鹿が、女相手にしつこく絡んででもいるのか?


 そんなもの、女を助ける主人公ユウトがいるときだけにしてほしい。


 ……だが、この声。


 どこかで聞き覚えがある。


 しかも、あまり愉快ではない方向の記憶としてだ。

 何だろう、聞いているだけで妙に腹が立つ。


 声がしたのは、たしか一つ先の路地の方だった。


 別に深く考えもせず、そちらへ足を向ける。

 すると、また声が聞こえてきた。


「いきなり掴まえて、いったい何を……っ! あなた、どうしてそんなに力が強いんですか!? 女性なのに、ほどけません……!」


 その言葉を耳にした瞬間、俺は思わず手で顔を覆った。


 ああ。

 嫌な予感しかしない。


 どう考えても、今あの神経質そうな声の主を捕まえているのは――


「だから、早く離しなさいと……あっ!」

「あ、佐助ようすけ。 さっきからこっちを見ていた変な人、捕まえた」


 ……やっぱりお前か、天川あまがわ

 姿が見えないと思ったら、こんなところで何をやっている。


 路地を曲がった瞬間、最初に目に飛び込んできたのは、お嬢様学校の高等部用らしい制服を着た少女を抑えている天川の姿だった。


 いや、どう見ても変なのはお前の方だぞ?


 本当にこいつの行動だけは予測がつかない。

 真面目な話、一度きちんと問いただしたい。


 お前はいったい何がしたいんだ?

 どこか遠い宇宙とでも交信してるのか?


 ……それはそれとして。


 天川に捕まっているその子は、いったい誰だ?


 自然と視線が移り、その顔を確認した瞬間、俺の表情はぴたりと固まった。


 腰まで届く、紅玉ルビーみたいな赤髪。

 毛先には上品ぶったような緩いウェーブがかかり、エメラルドの瞳は相変わらず無駄に気位が高そうに鋭い。

 細くしなやかな体つきに、妙に長く見える脚。

 見た目だけなら、どこぞの名門令嬢そのもの――中身さえ伴っていれば、の話だが。


 ――こいつは……。


 脳裏に、中学時代の記憶がよぎる。


 よろめいて、地面に手をついた優人。

そして、それをどこか退屈そうに眺めていた一人の少女。


「……天川」

「うん」


 自分でも驚くほど、低い声が出た。


 それ以上視界に入れていたくなくて、俺は顔を背けるようにしながら天川へ告げた。


「そのゴミ、見えないところに捨ててこい」

「ゴミ?」

「ひゃうっ……!」


 天川の問い返しと同時に、妙に変な声が聞こえた。


 ……待て。

 今の何だ?


 もう一度そちらへ視線を向けると、その女はわずかに顔を赤らめ、呼吸まで乱した状態でこちらの視線をよけていた。


 ああ、そうだったな。


 こいつは、プライドの化身と呼んでも差し支えないほど、無駄に自尊心が高い女だった。


 性格もそうだし、自分の置かれてきた立場という意味でも、基本的に他人を見下す側の人間であって、こんなふうに真正面から侮蔑の言葉をぶつけられる経験など、まずあまりないはず。


 そう考えれば、今の反応も当然か。


「よ、よくもまあ……相変わらず無礼な方ですね、あなたという人は……。 会っていきなり、このわたくしをゴミ扱いするだなんて……!」


 息の乱れた合間からこぼれる、細く震えた声。


 ……怒っているらしい。


 だが、怒りの大きさで言えば、むしろこっちの方が上だ。


「ちゃんと警告したはずだ。もう一度でも優人の周りを遊び半分でかき回すような真似をしたら、俺は俺が使える手を全部使ってでも、お前を徹底的に叩き潰すってな」

「……っ」

「まさかとは思うが、俺の言葉、まるで届いてなかったわけじゃないよな?」

「う、っ……」


 その言葉を受けて、彼女はびくりと肩を震わせた。


 反論しようとしているのか、何度か唇が動く。

 だが、まともな言葉にはならない。

 喉の奥で潰れたような、途切れ途切れの息だけが漏れていた。


 ……あのときのことでも思い出したのか。


 だとしたら、少なくとも俺の忠告はまるきり無駄ではなかったらしい。


 逃げようにも、今のこいつは天川に腕を押さえられているせいで、まともに身じろぎすることすらできない。

 その状況そのものが、こいつにとっては耐えがたい屈辱だろう。


 そして。


 彼女の顔はみるみる赤くなり、ついには両目に涙まで滲み始めた。


 ……過去にこいつがやったことは、今でも許せない。

 その気持ちは少しも変わっていない。


 だが、今この瞬間に限って言えば、まだ何かをしたわけではない。


 少し言いすぎたか――そんな考えが頭をよぎりかけたが、俺はそれを無理やりねじ伏せた。


 違う。

 ここで甘くなるな。


 あの時のこいつがやったことを思い出せ。

 月影佐助、お前はまた、自分の親友を傷つけさせるつもりか?


 ――ここは、徹底しておくべき場面だ。


 そうやって自分に言い聞かせ、俺は女の顎を掴んで無理やりこちらへ向けさせた。


「忘れたなら、親切にもう一度言ってやる。 今後また優人に近づこうとしたら、そのときは本気でこっちも手段を選ばない。 たとえ俺がそのせいで塀の向こう側へ行く羽目になっても、だ。 ……天川、もういい。 その手、離してやれ」


 俺の言葉に、天川は素直に頷いた。


 そしてその女を掴んでいた手を離す。


 次の瞬間、女はその場にへたり込んだ。


 深く俯いているせいで表情までは見えない。

 だが、肩が小刻みに震えているのはわかった。


 俺はその様子をしばらく見下ろしたあと、何も言わずに背を向けた。


 もうこれ以上、こいつが俺たちに関わらないことを願いながら。


 そのまま歩き出そうとした、そのときだった。


「……す……」


 かすれた声。


 俺は足を止め、ゆっくりと振り返った。


 女はなおも俯いたまま、両の拳を強く握り締めていた。

 震える肩。

 押し殺すような息遣い。


 ぱっと見には、怒りを必死に押し殺しているようにも見える。


 少なくとも、俺が知っているこいつなら、そう解釈するのが自然だった。


 ……なのに。


 何かが、おかしい。


 そう、違和感だ。


 単に怒っているだけではない。

 むしろ、別の何かを、必死に堪えているような――そんな妙な感覚が、引っかかった。


「……います……」


 さっきより少しだけ大きくなった声には、明らかに涙混じりの震えが混ざっていた。


 そして。


 女は、ふいに首を横へ振り始めた。


 最初は小さく。

 だが次第に大きく、強く。

 それに合わせて、かすれていた声も徐々に叫び声みたいに大きくなっていく。


「違います……違います、違います! あの人に会いに来たんじゃありませんわっ!」


 ばっと顔を上げたその表情は、俺にとってあまりにも見慣れないものだった。


 思わず、半歩だけ後ずさる。


 そりゃそうだ。


 あの、プライドの塊みたいな女が。

 他人を人とも思わないような顔で見下していた女が。

 今はまるで子供みたいに両目いっぱい涙を溜めて、何かを必死に訴えるような顔をしている。


 ……一瞬、本当に同一人物なのかと疑ったくらいだ。


 こいつ、こんな顔もできたのか?


 あまりに知らない表情に、ただ戸惑っていた、そのときだった。


 彼女は突然立ち上がった。


 そして。


 俺は、避けるべきだと考えるより先に、身体が止まっていた。


 何が起こるのか理解する、その一瞬前。


 そのまま彼女は、まっすぐこちらへ駆け寄ってきて――


 ガバッと。


 俺を、抱きしめた。


「え、ちょっ……な、何だよいきなり!?」


 あまりに唐突な展開に、身体が完全に固まる。


 柔らかな感触と、甘すぎない香りが不意打ちみたいに押し寄せてきて、頭の中が真っ白になった。


 え? は? はい?

 何だこれ?

 どういう状況だ?


 そんな混乱のど真ん中で、彼女はとんでもない爆弾を投げつけてきた。


「……あの人のことなんて、もうどうでもいいんです! わたくしは……わたくしは、あなたに会いに来たんです……! あなたに、会いたくて……っ!」


「――はぁ!?」


 何だそりゃ!?

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