1話 木から落ちて別の人生が降ってきた
九歳の夏だった。
耳が痛くなるほどうるさい蝉の声と、むっとするような熱気だけは、今でも妙に鮮明に覚えている。
あの日、俺は優人と一緒に木登りをしていた。
どちらが上まで登れるか、そんな子供じみた勝負をしていたのだと思う。
そして、俺は落ちた。
足を滑らせたのか、枝が折れたのか、そのあたりはもう曖昧だ。
ただ、視界が一瞬ひっくり返り、次の瞬間には頭に鈍い衝撃が走ったことだけは覚えている。
そこで意識は途切れた。
気がつけば病院だったらしい。
らしい、というのは、その前後の記憶がほとんど残っていないからだ。
外傷そのものは大したことがなかったと、あとから聞いた。
だが、そのあとの高熱がまずかった。
俺は何日ものあいだ熱にうなされ、場合によっては命も危なかったらしい。
木から落ちて頭を打った程度で、そこまでの高熱が出るものなのか。
今なら疑問にも思うが、当時の俺にはそんな余裕はなかった。
そもそも、熱に浮かされていた間の記憶があまりにも曖昧だった。
白い天井。
鼻につく消毒液の匂い。
やけに重たいまぶた。
喉が焼けるように渇いているのに、身体は鉛のように重かった。
遠くで誰かが俺の名前を呼んでいるような気がするのに、その声すら膜を隔てた向こう側から聞こえてくるようにぼやけていた。
一週間ほど経って、ようやくまともに目を覚ましたとき――俺は激しい混乱に叩き落とされた。
目を覚ました俺は、九歳の子供になっていたのだ。
……いや、自分で言っていて意味がわからないのは承知している。
だが、当時の俺は本気でそう思った。
なにしろ、目を覚ました直後の俺の頭の中には、二種類の記憶がぐちゃぐちゃに混ざっていたからだ。
一つは、月影佐助として生きてきた九年間の記憶。
とはいえ、幼すぎて曖昧な時期を除けば、輪郭がはっきりしているのはせいぜい五、六年分といったところだ。
そしてもう一つ。
月影佐助になる前の、三十年あまりの記憶。
つまり――前世の記憶。
高熱にうなされた果てに、俺はなんの前触れもなく前世の記憶というやつを思い出してしまった。
本当に、予兆もなにもなかった。
ある日突然、頭の中に他人の人生が丸ごと流れ込んできたようなものだ。
最初は混乱した。
当たり前だ。
九歳の子供の頭で処理するには、三十年分の人生はあまりにも重すぎる。
自分の手を見ても違和感しかなかった。
小さい。細い。指も短い。
なのに頭の中には、もっと大きな手の感覚があった。
キーボードを叩いていた指の動き。
満員電車のつり革を握る感触。
コンビニの袋を提げて夜道を歩いた記憶。
仕事帰りの駅前の明かり。
子供の俺には知るはずのないものが、あまりにも具体的に頭の中にあった。
そんなもの、九歳児の妄想で説明できるわけがない。
前世の経験というのは、今の月影佐助である俺が実際に体験したものではない。
だから本来なら、この身体の脳に残っているはずがない。
理屈に合わないし、説明もつかない。
だが、理屈に合わないからといって、なかったことにはできなかった。
現実に、俺の中には三十年分の記憶があった。
働いていた記憶がある。
失敗した記憶がある。
笑った記憶も、どうしようもなく空っぽだった記憶もある。
そして何より、俺は三十歳で死んだ。
その事実だけは、ひどく妙な重みをもって胸の奥に残っていた。
仮にこれがただの錯覚なら、その方がよほど楽だっただろう。
だが、そんな都合のいい結論で片づけるには、そこにあった記憶はあまりにも膨大で、あまりにも具体的すぎた。
退院したあともしばらく、俺は自分が何者なのかわからなくなっていた。
月影佐助として生きてきた“僕”。
そして、三十年を生きて三十歳で死んだ“俺”。
どちらが本当の自分なのか。
いや、どちらも自分なのは分かっている。
だが、自我というものはそう簡単に割り切れなかった。
月影佐助での自我もあったし、前世の自我もあった。
記憶はどうにかどちらも自分であると納得できる。
だが、二つの自我が共存している事実に、ただただ混乱していた。
まるで自分の中に二人の人間がいるような、曖昧な感覚。
幸いなことに、そんな状態はそう長くは持たなかった。
考えてみれば当然な話だ。
“僕”より、“俺”の自我の方が強かったのだ。
大きな問題もなく、守られてきた九年間の自我。
三十年間、色んなものを経験して確固たるものであった前世の自我。
どちらの方がもっと鮮明で強く残るかと言われたら、答えは決まっている。
最初はまだ“僕”だったのだと思う。
退院してからのしばらくはそれなりに年頃の子供のように家族に甘え、無邪気に笑い、子供らしく振舞っていた。
だが、だんだんと内面も、表に出る振る舞いも変わっていった。
同年代の子供たちの騒ぎを見ても、どこか一歩引いたところから眺めている自分がいた。
九歳の身体に、三十年分の人生が浸透する。
子供の価値観に、大人の諦めが滲む。
無邪気さよりも、妙に醒めた感覚の方が自然になっていく。
“僕”として笑っていたはずの毎日を、少し離れた場所から“俺”として眺めている自分がいた。
それは劇的な変化ではない。
昨日までの自分が今日いきなり消えるような、そんなわかりやすいものでもない。
少しずつ、少しずつ。
重心がずれていくように。
もっと正確に言うなら、徐々に自我が変わっていた、と表現した方がもっとしっくりくる。
まあ、色々と語ったが。
結局のところ――
――“僕”は“俺”になった。
面白いと感じていただけましたら、反応をいただけますと励みになります。




