14話 崩壊した平和
朝から死ぬほど疲れていた。
理由は簡単だ。
今、俺のすぐ隣を、あの無表情美少女が当然のように並んで歩いているからに他ならない。
俺は自分で言うのも何だが、そうそうため息をつく人間ではない。
だいたいのことは笑って流せるくらいには余裕があるし、多少のトラブルでいちいち凹むような繊細さも持ち合わせていない。
だが。
「はぁ……」
今回ばかりは無理だ。
こいつに関する件だけは、ため息の一つも出さずに耐えられる気がしない。
それくらい、俺の常識の外側で物事が進行していた。
「どうしたの?」
俺がため息をつくと、天川がこちらを見上げながら問いかけてくる。
「いや、別に。 お前みたいな厄介な荷物をどうやって引き剥がせばいいのか考えてたら、まるで希望の見えない現実に打ちのめされただけだ」
一言で言えば、頼むから俺の横から消えてくれ、という意味だ。
だが、この人形女は一体どう解釈したのか、逆にさらに距離を詰めてきた。
いや、距離を詰めるどころではない。
完全に腕を絡めてきたのだ。
「……おい」
何とか振りほどこうとしたが、やはり例の妙な技術なのか何なのか、俺の腕はびくともしない。
単純な腕力ではない。
なのに、どうやっても外せる気がしない。
いや、技だろうが武術だろうが何でもいいから、とにかく離れろ!
数秒ほど無駄な抵抗を続けたのち、俺は無言で諦め、半眼のまま天川を睨んだ。
「……お前、何がしたいんだよ」
「男の人が怒ってるときは、こうするのがいいって」
「また本にそう書いてあったとか言うんじゃないだろうな?」
俺がじとっと睨むと、天川は首を横に振った。
「シルヴィアが」
「あの人かよ!」
思わず声が裏返った。
昨日会った、あの危険すぎる執事さんの顔が脳裏に浮かぶ。
あの人、自分が仕えてるお嬢様に何を吹き込んでるんだ!?
「あ」
天川が小さく声を漏らした。
ようやく今の状況のおかしさに気づいたのか?
そうだろうそうだろう、ようやくわかったか。
だったら今すぐこの腕を離して――
そう思った数秒前の俺を殴りたい。
この天川笑兎という少女に対して、その程度の期待を抱くなど、あまりにも認識が甘すぎた。
「イチコロにされた?」
「されるわけあるか!」
天川は俺の突っ込みに不思議そうに首を傾げた。
「シルヴィアは、こうすればイチコロだって言ってた」
「だから! あの人の言うこともそのまま真に受けるなっ!」
俺はたまらず自由な方の手を持ち上げ、天川の頭へ連続で手刀を落とした。
ぺしっ。ぺしっ。ぺしっ。
うん、いい音だ。
やたらと小気味いいな!
「……佐助、痛い」
頭を押さえながら、天川がいつも通りの無感情な声で抗議する。
だが知ったことか。
こっちは朝からもっと精神が痛いんだよ。
俺はようやく解放された腕の袖口を払った。
「シルヴィアさんが何を吹き込んだのかは知らんが、二度とこういう真似はするな。 年頃の女が朝っぱらから男に腕を組むな。 世も末だな、全く!」
そう言って歩き出しかけた、そのときだった。
天川がまた小さく首を傾げているのが目に入った。
……いや、もう本当に怖いんだが?
今度は何だ。 何を言う気だ。 何をやる気だ。
警戒心をむき出しにして見返すと、天川は周囲をぐるりと見回し、それからまた首を傾げた。
……少なくとも、今すぐまた腕を組んでくるとか、そういう話ではないらしい。
ひとまずそこだけは安心していいのかもしれない。
俺は十分に距離を取ってから、慎重に問いかけた。
「今度は何だよ」
すると天川は、今度は逆方向へ首を傾けた。
「誰かに見られてる気がする」
……何だ、そんなことか。
面倒だから適当に流してしまおうかとも思ったが、ここでちゃんと教えておいた方がいい気もした。
そうしないと、こいつはまた妙な結論に飛びつきかねない。
俺は仕方なく、教師みたいな気分で口を開いた。
「いいか。 今は朝の通勤通学時間帯だ。 人が一番多く動く時間の一つなんだよ。 つまり、道に人が多い。 ここまではわかるか?」
「うん」
「で、そんな時間帯にだ。 片方はムカつくくらい美少女。 もう片方はどう見ても冴えない眼鏡オタク。 そんな二人が並んで歩いてたら?」
天川はしばらく固まった。
表情は相変わらず無のままだというのに、なぜか頭の上に「?」が浮かんでいるように見えるのは、もはや才能としか言いようがない。
やがて、その見えない「?」が「!」に変わったような気がした瞬間。
天川は、なぜか少し得意げな気配すら漂わせて答えた。
「……野外恥辱プレイ?」
フッハハハハ! 突っ込まんぞ! 俺は突っ込まんぞぉぉぉぉぉ! こんちくしょう!
ここで全力で突っ込んだら負けだ。 負ける。 落ち着け俺。 落ち着け――!
必死に湧き上がるツッコミを飲み込み、その反動を別のエネルギーへ変換して、俺は全力で叫んだ。
「ハズレだッ!!」
「……違うの?」
何でそこで軽くショックを受けたみたいな反応なんだ。
いや表情は変わってないけど、何となくそんな雰囲気があるのが腹立つな!
「……じゃあ、野外せ……」
「だからその方向から離れろって言ってんだろ! 正解は“めちゃくちゃ目立つ”だ! 目立つの! わかるか、このポンコツが!」
あああああぁぁぁぁぁ! ムカつくー!!
普段のクールな俺なら絶対にやらないような勢いで身振り手振りまで交えて叫んでしまった。
一しきり叫び終えたあと、少しだけ胸がすっとした。
なるほど、叫ぶというのは意外とストレス発散になるらしい。
知りたくはありませんでしたけどね!
「おお」
魂のこもっていない感心の声はやめろ。
むしろ虚しくなる。
俺はずきずきし始めたこめかみを押さえながら、天川を睨んだ。
「……だから、人の視線を感じるのは当たり前だ。 お前と俺が並んでたら目立つに決まってる。 わかったな? じゃあ俺は行く」
まだ完全には納得していなさそうに首を傾げる天川は、もう見ないことにした。
ここで丁寧に付き合っていたら、またろくでもない方へ転がる未来しか見えない。
そう思って背を向けた瞬間。
背後から、くいくいと制服の裾を引っ張られた。
もう声を出して返すのも億劫で、俺は目だけで「今度は何だ」と問いかける。
すると天川は、少し考えるように間を置いてから言った。
「イチコロって、なに?」
「…………」
無視することにした。
さあて、遅刻しそうだし、愛しの学び舎へ急ぎますか!
まさか俺がここまで学校を愛していたとはな!
人生、わからないものだよな!
「あ、待って。 私も行く」
「ついてくんな!」
背後から当然のようについてくる天川を振り切るように、俺は早足で学校への道を急いだ。
――そんな俺たちの姿を最初からずっと眺めている誰かがいたなどと。
このときの俺は知る由もなかった。
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