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10話 楽しさを知らない兎

「二年前?」

「うん。 二年前。 駅前の繁華街で……すごく騒がしかったとき」


 それが、「前から俺のことを知っていたのか?」という問いに対する、天川の返答だった。


 その答えに、俺は思わず首を傾げるしかなかった。


 二年前。

 繁華街。


 ……いや、場所そのものには心当たりがある。


 あそこは優人とよく行く場所だ。

 というか、優人がいると大抵何か起きる。

 だから結果的に俺もあの辺りへ行くことが多かった。


 実際、あの繁華街ではこれまでにも何度か小さくない騒動が起きている。

 いや、正確に言えば――優人が巻き込まれた騒ぎが、だ。


 だが、だからこそ妙だった。


 そういうときに目立つのは、どう考えても優人の方だ。


 騒動の中心にいたのはいつだってあいつで、俺はせいぜいその少し外側にいたにすぎない。


 なのに。


「その騒ぎの中で、君が一番楽しそうだった」

「……は?」


 今、何か妙なことを言われた気がした。


 俺が無言のまま“Can you say that again?”という意思だけを込めて手を軽く動かすと、天川は素直に言い直した。


「君が一番、楽しそうに笑ってた」

「ええと……つまりなんだ、お前の言いたいことを整理するとだな」


 俺はこめかみを指で押さえながら、頭の中で情報を並べ始めた。


 第一に、天川は二年前、繁華街で初めて俺を見た。

 第二に、そのとき俺は大体いつも通り、優人と一緒にいたか、あるいは優人を眺めていた。

 第三に、優人はそのたびに何かしらの騒ぎへ巻き込まれていた。

 そして第四に――俺は、その様子を見て笑っていた。


 結果。


「……優人があれこれ大変な目に遭うか、巻き込まれるかで、騒ぎの中心で頑張ってるのを見て、完全に外側でのんきに笑ってた俺を、お前は見てたってことか?」

「うん」


 否定はなかった。


 どころか、恐ろしいほど迷いのない即答だった。


 ……いや、ちょっと待って。 待つんだ。


 普通、そういう場面で目につくのは俺じゃなくて優人になるに決まっているんじゃないか?


 何でよりにもよって、騒ぎの中心にいた主役じゃなく、その周囲でニヤニヤしていた脇役の方を見てるんだよ。


 イレギュラーにもほどがある。


 普通のラノベだったら、そういう騒動の中でヒロインが主役と出会って、そこから気にかけるようになって――みたいな流れになるはずだ。


 それがどうして、優人じゃなくて俺なんだ。


 理解不能にもほどがある。


 俺が心底あきれていると、天川はさらに続けた。


「その後も、時々見かけた」

「……見かけた?」

「うん。 会いたくて、何回か行った」

「何回か、って……どこに?」

「繁華街」


 あっさりと言われて、俺は思わず口元を引きつらせた。


 つまり何か?

 あの日以来、こいつはわざわざ俺を見つけるために繁華街へ通っていたってことか?


 何だそれ。

 それ、言い方を多少オブラートに包んでもかなりアレな行動じゃないか?


 いや、もう少し正確に言おう。


 ……それ、普通にストーカーなのでは?


 もっとも、世間一般のストーカーと違う点があるとすれば、そこに恋愛感情があるのか、それとも単なる好奇心なのか、という違いだけだろうが。


 だが天川は、そんな俺の内心などまったく気にした様子もなく、淡々と話を続けた。


「君は、そのときも楽しそうだった」


 その一言で、俺は少しだけ黙った。


 ああ、なるほど。

 結局こいつの中で重要なのは、そこなのか。


 騒ぎでもない。

 優人でもない。

 俺でも、たぶんない。


 天川が見ていたのは、俺の“楽しそうな顔”そのものだったのだ。


「……高校が同じとわかってから、それで近づいた?」

「うん」

「近づき方が何をどうすれば拉致という結論になるんだよ?」

「一番早いと思った」

「いやいや! 普通に犯罪だから!」


 反射で突っ込んでから、俺は深く息を吐いた。


 だが天川は本気で分かっていない顔をしている。

 いや、顔はいつも通り無表情だから、正確には“多分わかっていないんだろうな”という気配だけがある。


 頭が痛い。

 実に痛い。


 けれど、ここまで話を聞いてしまうと、最初にぶつけられたあの問いの意味も、なんとなく繋がってくる。


 天川は、いつも通り感情のない顔のまま、けれど妙に真っ直ぐ俺を見て言った。


「楽しいって、どういうことなの?」


 その声に焦りはない。

 切羽詰まった調子でもない。


「どうしたら、そんなふうに楽しそうに笑えるの?」


 表情は変わらない。

 声も平坦なままだ。


 けれど、それでも俺には、その問いがどうしようもなく切実なものに思えた。


 天川は、楽しさを知らないと言った。


 だから知りたい、と。


 先ほどの人形云々もそうだが、こいつは人として当たり前の何かが欠けている。


「楽しくなるって、どうすればいいの?」


 その問いの答えを、俺は持ち合わせていない。


 そんなこと、俺が知るか。


 知るはずがないだろう。

 楽しさなんてものは、人によって違う。

 笑う理由も、面白いと思う対象も、全部違う。


 俺にとって面白いものが、他人にとっても面白いとは限らない。

 逆だって同じだ。


 だから、俺から言えるのは一つだけだった。


「そんなこと、俺にわかるわけないだろ」


 俺がそう言うと、天川は黙った。


 ほんの数秒だったはずなのに、やけに重い沈黙だった。


 俺は言葉を継ぐ。


「そもそも、人が何を楽しいと感じるかなんて、ほんとにバラバラだ。 俺が面白かった、楽しかったって思うことを延々説明したところで、別の奴には何がいいのかさっぱりわからないかもしれない。 その逆だって普通にある」


 俺の答えを聞いても、天川は何も言わなかった。


 ただ、その沈黙はさっきまでの無表情な静けさとは少し違って見えた。


 答えを受け取って、なお困っている沈黙だった。


 やがて、天川はぽつりと呟いた。


「……じゃあ」


 そこでいったん言葉が途切れる。


 それから、ようやく見つけた最後の問いを置くように、静かに言った。


「じゃあ、私はどうすればいいの?」

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