㊷
耳元で囁かれたその言葉の意味を理解するのに、数秒の時間を要した。
「……は?」
間抜けな声が喉から漏れる。
夕暮れの渡り廊下。吹き抜ける生ぬるい風が、辻の短く切り揃えられた黒髪をふわりと揺らした。
至近距離にあるその瞳は澄み切っていて、冗談やからかいの気配は微塵もない。
「聞き取れなかった? りっくん――いいえ、陸。水瀬葵と別れてって言ったの。そうしたら、私がその入部届にサインしてあげる」
まるで「消しゴムを貸して」とでも言うような、極めて平然としたトーンだった。
頭の芯が急激に冷えていくのを感じながら、俺はベンチから立ち上がり、辻と正面から向き合った。長身の彼女と視線の高さはほとんど変わらない。
「……ふざけんな。なんでそこで葵の名前が出てくるんだよ」
「ふざけてなんかないよ。私、ずっと陸のこと好きだし。……別れたつもりもないしね」
辻はフッと小さく唇の端を持ち上げ、ブレザーのポケットから片手を出して、俺の胸元をとんと指先で突いた。
「おい……それ、本気で言ってんのか? 中学のとき、自然消滅みたいになって、お前は留学して――」
「自然消滅なんて、陸が勝手に思ってるだけでしょ?」
言葉を遮られ、息が詰まる。
かつて教室の隅で縮こまり、俺の背中に隠れるようにしてオドオドしていたあの辻晶が、今や圧倒的な体躯と気迫で俺を絡め取ろうとしている。
その瞳の奥に宿る熱量は、留学前の内気な少女のそれとはまるで違っていた。歪んで、鋭く尖った純粋な独占欲。
「私は一度だって陸のこと忘れたことないよ。向こうにいる間も、ずっと陸の顔ばっかり浮かんでた。帰ってきたらちゃんと話そうって思ってたのに……帰国したら、水瀬葵なんて女が陸の隣にいるんだもん。あの時の私の気持ち、陸に分かる?」
「だからって、葵と別れろなんて理不尽なこと――」
「理不尽?」
辻はクスクスと喉を鳴らして笑った。けれど、その目はまったく笑っていない。
「べつに無理強いはしてないよ。選ぶのは陸なんだから」
辻は一歩後ろへ下がり、鞄からスマートに一本のボールペンを取り出すと、指先で器用に弄んでみせた。
「明日の朝がリミットなんでしょ? あと一人集まらなきゃ、天文部は廃部。部室も取り上げられて、あの子たちと一緒にやってきたことも全部終わり。……あの一年生の子、なんて言ったっけ? 一ノ瀬さん? あの子が自分のせいで廃部になったって知ったら、どんな顔するかな」
「……っ!」
「それに、あの優しい部長さんも可哀想。陸が自分ひとりで抱え込んで、結局守れなかったなんて知ったら、みんな陸を責めるかもね」
俺の痛いところを、これ以上ないほど正確に、冷酷に抉ってくる。
こいつは、全部知っている。
俺が誰にも言えずに一人で背負い込んでいることも、この部にどれだけの想いを懸けているかも、すべて見透かした上でこの要求を突きつけてきているのだ。
「天文部を守って、私とやり直すか。それとも水瀬葵を選んで、部活もみんなの思い出も全部捨てるか。……どっちにする? 陸」
ボールペンを差し出す辻の長い指先。
茜色に染まる廊下で、俺は拳を白くなるほど強く握りしめた。
視界がぐにゃりと歪んでいた。
徹夜続きで擦り切れた思考回路に、茜色の夕暮れが痛々しいほど染み込んでくる。
明日の朝までにあと一人。それが揃わなければ即刻廃部。
凜乃先輩の穏やかな居場所も、めいが楽しそうに笑う部室も、合宿であれだけ苦労して収めた星空の映像も、全部――俺の無能さのせいで消えてなくなる。
俺さえ泥を被ればいい。
俺が傷ついて、俺が葵を裏切る最低の男になりさえすれば、部活は守れる。みんなの場所は残る。
焼き切れた頭が、破滅的な結論を「唯一の正解」として差し出していた。
「……っ」
震える指先を伸ばす。
辻が差し出してきた、黒いボールペン。
その冷たいプラスチックの感触に指が触れかけた、まさにその刹那だった。
――グイッ、と。
強い力で、伸ばした右腕を真横から掴み引かれた。
「……え?」
引っ張られた勢いで、身体がよろめく。
俺の手からボールペンが滑り落ち、渡り廊下の床にカツンと乾いた音を立てて転がった。
次の瞬間、ふわりと香ったのは、あの甘く優しい匂い。
バサリと制服のスカートを翻し、俺と辻のあいだに割り込んできた背中。
その少女は、俺から辻を完全に遮断するように、華奢な両腕を左右へいっぱいに広げていた。
「――そこまでです、辻さん」
凛と張り詰めた、けれど決して揺らぐことのない声。
「……あ、おい……?」
掠れた声で名前を呼んでも、彼女は振り返らない。
いつも俺の隣で柔らかく微笑んで、控えめに袖を引いてくれていたはずの水瀬葵が、仁王立ちになって俺を庇い、夕陽を背負う辻晶を真っ向から睨み据えていた。
広げられたその両手は、かすかに震えている。
怖くないはずがない。体格だって、長身で中性的な威圧感を放つ辻のほうが一回りも二回りも大きい。
それでも葵は、一歩も引くことなくその場に縫い止められたように立ち尽くしていた。
「……へえ」
辻がふっと目を細め、細い顎をわずかに引いて葵を見下ろす。
その涼しげな瞳の奥に、冷徹な愉悦と、わずかな苛立ちが混ざり合う。
「見てたんだ、水瀬さん。……邪魔しないでくれる? これは私と陸の、昔からの問題なんだから」
「昔のことなんて、関係ありません」
葵の声は震えていなかった。
むしろ、今までに聞いたことがないほど硬く、強い意志に満ちていた。
「陸くんの優しさに漬け込んで、そんな理不尽な取引で脅すなんて……絶対に許しません」
「脅してなんかないよ。取引を持ちかけただけ。選ぼうとしてたのは陸自身でしょ? 君たちの大切な部活を守るためにね。……それを邪魔するなら、水瀬さんがこの部活を潰すことになるけど、いいの?」
辻の残酷な問いかけが、渡り廊下に冷たく響く。
だが、葵の背中はピクリとも揺らがなかった。
両手を大きく広げたまま、葵ははっきりと、辻晶の言葉を叩き斬るように言い放った。
「陸くんがひとりで泥を被って守る部活なんて、なんの価値もありません。……そんなもので守られたって、私は一ミリも嬉しくない!」
心臓を素手で掴まれたような衝撃が、俺の胸を貫いた。
「陸くんは、いつもそう……。合宿のときも、夏休み中も、全部ひとりで抱え込んで、ひとりで傷ついて……! ここは陸くんひとりの部活じゃない。私たちの場所です。だから――」
葵は広げていた手を下ろし、きつく拳を握りしめると、辻の眼前に突きつけるように胸を張った。
「陸くんを、あなたなんかに渡しません」




