㊸ とある少女の――
渡り廊下の陰に、小さく息を潜める影があった。
一ノ瀬めいは、壁の角から茜色の光が差し込む廊下を、震える瞳で見つめていた。
文化祭の準備で使うビニールテープを取りに行く途中だった。
たまたま聞こえてきた声。立ち止まっためいの耳に飛び込んできたのは、信じがたい現実だった。
明日の朝までにあと一人集まらなければ、即刻廃部。
陸が、あの優しい笑顔の裏で、たったひとりでその重圧を抱え込んでいたこと。
そして――あの長身の女が突きつけた、吐き気のするような二者択一。
『水瀬葵と別れて。そうしたら、私がその入部届にサインしてあげる』
めいの全身の血が逆流するほど沸騰した。
飛び出してあの女の横面を張り飛ばしてやりたかった。
けれど、その前に動いたのは、葵だった。
『陸くんを、あなたなんかに渡しません』
震える腕を広げて、陸先輩の前に仁王立ちになった葵先輩。
そして、女が去ったあと、崩れ落ちて「私をそんな酷い女にしないでよ」と泣きじゃくる葵先輩と、それを痛々しいほど抱きしめる陸先輩。
(……なんでよ)
めいはギュッと自分のブレザーの裾を握りしめた。
爪が手のひらに食い込み、痛む。
(なんで、あのふたりが泣かなきゃいけないの……? 一番頑張ってきたのに。合宿でも、部室でも、いつだってめいのこと気にかけてくれて……あんなに優しくしてくれたのに!)
あの居場所が消えてしまう。
猫をかぶって、誰にも本音を言えなかった自分が、初めて息を吸えたあの部室が。
陸が徹夜で作った星空の映像も、先輩たちの笑顔も、全部。
(あと、一人……あと一人いれば……いいの?)
脳裏に浮かんだのは、さっき逃げ惑っていった一年生たちの怯えた顔だった。
中学時代、すべてを力と恐怖で支配しようとしていた自分の過去。
あいつらにとって、自分は悪夢そのものだ。関わりたくもない、近寄りたくもない化け物だ。
プライドが痛烈に軋む。
せっかく高校で新しい自分を作ってきたのに。
あいつらの前に戻れば、またあの惨めな過去と向き合うことになる。
けれど――。
(……プライドなんかで、あのふたりを失いたくない!!)
めいは踵を返した。
迷いはなかった。上履きの音を荒々しく響かせ、まだ文化祭の準備で生徒が残っているはずの一年三組の教室へと、全力で駆け出した。
ガラガラッ!
乱暴に開け放たれた教室の引き戸の音に、作業をしていた十数人の生徒が一斉に振り返った。
段ボールや模造紙を広げていた男子生徒たちが、入り口に立つめいの姿を認めた瞬間、露骨に顔色を青ざめさせる。
「ひっ……い、一ノ瀬……!?」
「ま、まだ何か用かよ……! 俺たち、もうお前には逆らわねえって――」
怯え、後退り、身構える元・同級生たち。
以前のめいなら、そんな彼らを冷たく見下し、鋭い舌鋒で切り捨てていただろう。
だが、めいは息を荒げながら、真っ直ぐに教室の中央へと歩み出た。
そして。
ドサッ、と鈍い音が教室に響いた。
教室の中央で、一ノ瀬めいは両手と両膝を冷たい床に突き、額を床板に擦り付けていた。
一瞬の凍りついたような静寂。
だが、次の瞬間に教室を満たしたのは、同情でも困惑でもなかった。
――軽蔑と、溜まりに溜まった憎悪の噴出だった。
「……は? 何それ」
乾いた嘲笑が、段ボールを抱えていた女子の口から漏れた。
「土下座? あんたが? ……マジで反吐が出るんだけど」
「うわ、うっわ……被害者面してんじゃねえよ! 謝れば何でも許されると思ってんのか!?」
「中学のとき、あんたが何してきたか忘れたわけ!? 合唱コンクールの時、あんたの思い通りにならなかったからって、私の楽譜ゴミ箱に捨てて『使えないクズはいらない』って笑ったじゃん!!」
堰を切ったように、鋭利な罵声が四方八方からめいの背中に突き刺さる。
誰もが、中学の三年間でめいに踏みにじられ、心を殺され、怯えて過ごしてきた被害者たちだった。
「高校入ってから猫かぶって、いい子ちゃんぶってさぁ!」
「クラスの誰もあんたの相手してないの、気づいてなかったの? 関わりたくないから空気扱いしてやってただけだよ!」
「どの面下げて頼み事してんだよ。部活が潰れる? そんなの自業自得だろ! あんたのせいで中学の部活辞めた奴だっているんだよ!」
「死ねよ、マジで。消えろよ」
罵詈雑言の雨あられ。
かつて自分が他人に浴びせてきた悪意が、何倍もの質量となって自分を押し潰そうとしていた。
耳が痛い。吐き気がする。逃げ出したい。
額を押し付けた床板は氷のように冷たくて、ポタポタと落ちる自分の涙で濡れていく。
けれど、めいは額を床から離さなかった。
指先が白くなるほど床を掻きむしりながら、震える両手で、ぐしゃぐしゃの入部届を高く掲げ続けた。
「……っ、うん……! 全部、その通り……っ! めいが最低で、ゴミで、消えた方がいい人間なのは……全部、全部わかってる……っ!」
掠れた、痛々しい絶叫が喉から絞り出される。
「めいのことは……いくら罵ってもいい! 殴りたかったら殴っていいし、一生許さなくていいから……! でも、お願い……! 誰か一人だけでいいから……っ!!」
肩を激しく震わせ、めいは嗚咽を漏らしながら叫んだ。
「あの人たちは……先輩たちは、何も悪くないの……!! めいみたいな最低な人間でも、見捨てないで居場所をくれた人たちなの……! お願いだから……あの人たちの場所を、めいのせいで奪わないで……っ!!」
痛切な慟哭が、夕暮れの教室に響き渡る。
罵声を浴びせていたクラスメイトたちの言葉が、徐々に途切れていった。
何を言われても言い返さず、言い訳もせず、プライドも自尊心もすべて投げ打って、他人のために床に頭を擦り付け続けるあの一ノ瀬めい。
ざらついた沈黙が教室を支配する。
誰もがまだ怒りを滾らせていた。許せるはずもなかった。
それでも――。
「……チッ」
舌打ちの音が、静寂を破った。
教壇の脇に立っていた男子生徒が、苛立ちを隠そうともせずに歩み寄ってくる。
中学時代、めいに徹底的に見下され、パシリ同然に扱われていた男子だった。
「……おい、一ノ瀬」
めいの頭上から、憎々しげな声が降ってくる。
「お前のその汚い顔、見てるだけで吐き気すんだよ。……一生、俺の前に現れんな」
彼はめいが掲げていた入部届を荒々しく奪い取ると、教卓に叩きつけ、ペンを乱暴に走らせた。
用紙が破れそうなほどの強い筆圧で、自分の名前を書き殴っていく。
「許すわけねえだろ、馬鹿野郎。お前がどんなに惨めに泣いたって、中学の三年間は消えねえよ」
叩きつけるように、サインされた用紙がめいの目の前の床に放り出された。
「……でも、お前がそこまでして守ろうとしてる先輩って奴らが、どんな顔してるかだけは見届けてやる。明日、見に行くからな。もしくだらない展示だったら……生徒会にチクって、今度こそお前ごと部活を叩き潰してやるからな」
男子生徒はそう吐き捨てると、乱暴に教室のドアを開けて出て行った。
残された他のクラスメイトたちも、気まずさと冷たい視線をめいに残したまま、一人、また一人と荷物をまとめて教室を去っていく。
「……っ、う……ぐすっ……」
誰もいなくなった教室。
夕闇が忍び寄る床の上で、めいは拾い上げた用紙を胸に抱きしめ、声を押し殺して震えていた。
どれだけ罵倒されても、どれだけ尊厳を削り取られても。
手の中には、大好きな先輩たちを守るための、最後の署名が残されていた。




