㊶
夏休みが明け、青葉高校の校舎には再び生徒たちの喧騒が戻ってきた。
だが、のんびりと「夏休みどこ行った?」なんて語り合っている余裕は誰にもない。何せ、夏休み明けすぐには『青葉祭』が控えているのだ。廊下のあちこちにはベニヤ板や段ボールが積まれ、放課後になればどのクラスも買い出しや装飾の準備で蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。
そんな賑やかな空気の中、俺ひとりの胃袋は、鉛を呑み込んだように重く冷え切っていた。
(……青葉祭の前日までに、正式な部員数を満たせなければ即刻廃部。部室も明け渡してもらう)
夏休みが明けてすぐ、生徒会室に呼び出された俺に突きつけられた冷徹な最終通告。
この通達のことは、部長の凜乃先輩にも、葵にも、めいにも話していない。
合宿であれだけ団結して、あんなに綺麗な星空を撮って、みんなが楽しそうに展示の準備をしているのだ。今さら「あと二人集まらなきゃ廃部です」なんて言って、みんなを不安や絶望に突き落とすわけにはいかなかった。これは、俺ひとりで何とかしなければならない問題だ。
「よし、青葉祭に向けてもっと部を盛り上げるために、名前だけでもいいから新入部員をあと二人集めよう!」
そんなもっともらしい口実を掲げて部員集めに奔走した俺に、最初に救いの手を差し伸べてくれたのは、隣のクラスにいる親友の蓮だった。
「なんだ、人手か? 名前貸しくらいならいくらでもいいぜ! 俺の名前、入部届に好きなだけ使ってくれ」
「ま、マジか……! 助かる!」
「水くさいこと言うなよな。お前らが夏休み返上で必死に準備してんの知ってんだからよ」
隣のクラスからわざわざ顔を出してくれた親友の頼もしさに、胸の奥が熱くなる。これで残りあと『一人』。
これなら何とかなるかもしれないと、俺の胸にわずかな希望が灯った。
「めい、お前の一年生のツテで、誰か名前だけでも貸してくれそうな友達はいないか? 部活には顔を出さなくてもいい、名前を一枚書いてもらうだけでいいんだ!」
「えっ!? め、めいの友達、ですか……!?」
頼み込んだ瞬間、めいは分かりやすくギクリと肩を跳ね上がらせた。
いつもなら「任せてください先輩!」と胸を叩くはずの後輩が、なぜか冷や汗をダラダラと流しながら視線を泳がせている。
「あ、あのー……りく先輩、めいの教室には来ないほうがいいというか! めいが一人で聞いてきますから! 先輩は部室で待っててください!」
「いや、頭を下げるのは先輩である俺の役目だろ。一緒に行くよ」
「だ、ダメです! 絶対に来ちゃダメですーーーっ!!」
めいが必死の形相で両手を広げて通せんぼしてきたが、こっちも部の存亡がかかっている。怪訝に思いつつも、制止を振り切って一年生のフロアへと向かった。
――そして、一年生の教室の前に立った瞬間、異変は起きた。
「あ……」
教室の引き戸をガラガラと開けためいを見た瞬間。
中にいた一年生たちの談笑がピタッと止まり、教室中の空気が、まるで独裁者が現れたかのように恐怖で凍りついた。
「おい……一ノ瀬だ……」
「嘘だろ……なんで来たんだ……?」
「おい、姿勢正せ! 目を合わせるな、処刑されるぞ……!」
教室の隅にいた男子生徒数名が、直立不動でガタガタと震え始めている。
蜘蛛の子を散らすように生徒たちが壁際へ後退りし、誰もが一言も発せない。教室を支配しているのは、完全なる『絶対王政』のそれだった。
「……? お、おい……めいさん? これってどういう状況ですか?」
「あー……あはは」
めいが笑うと男子生徒がビビった。
「ひぃっ!?」
「な、なんでもないですよ! めい、クラスの輪を乱す悪を裁く正義の味方だっただけで……! あっ、ちょっ、おいそこの! 名前! 名前貸しなさいよ、逆らったらどうなるか分かって――あ、ち、違うのりく先輩! これは冗談で――!」
猫をかぶり損ねて一瞬だけ素の冷徹な女王様が顔を出し、慌てて取り繕うめい。
だが、そのやり取りを見た一年生たちの絶望はさらに加速した。
「……あいつ誰だ? あの一ノ瀬めいが、必死に顔色を窺って媚びてる……!?」
「嘘だろ……あの冷酷非道な女王様を、裏から手懐けて支配してる黒幕……!?」
「ヤバい……逆らったら消されるぞ……!!」
「お、おい……どういうことだ?」
ほんとにどういうこと? もしかして楪がめいの前だけビシッとしてたのってそういうこと?
俺の悲痛な叫びも虚しく、一年生たちは恐怖のあまり教室の窓や後ろのドアから雪崩を打って逃げ出してしまった。
めいの隠されていた暴君の歴史によって、一年生ルートは再起不能の粉砕を遂げたのだった。
ならばと二年生の教室を片っ端から回ってみたものの、文化祭直前でどこも手一杯。「悪い、今から部活は無理だわ」「そろそろ受験勉強しないとなのに部活? ないない」と、ことごとく門前払いを食らう。
そして――あっという間に青葉祭の前日、放課後の夕暮れ時になってしまった。
生徒会への届出期限は、明日の朝まで。
それまでにあと一人の署名が揃わなければ、天文部は即座に廃部になり、あの部室も、あいつらの笑顔も、全部消えてしまう。必死に編集したあの星空の映像も、一度も誰の目にも触れないまま終わるのだ。
そんなことってないだろ?
「……くそっ、あと一人なのに……」
誰もいなくなった渡り廊下のベンチで、俺は頭を抱え、奥歯をギリリと噛み締めていた。
みんなには言えない。葵の嬉しそうな顔も、先輩の穏やかな笑顔も、自分の無力さで奪うわけにはいかない。けれど、どこを探しても見つからない。
絶望に押し潰されそうになっていた、その時だった。
カツン、と乾いた上履きの音が、廊下の向こうから静かに近づいてきた。
「ふふ、困ってるみたいだね。りっくん」
ふと顔を上げると、茜色の夕陽を背にして、ひとりの女子生徒が立っていた。
すっきりと切り揃えられた黒髪のショートカット。女子の平均を軽々と越えるすらりとした長身と、制服の上からでもはっきりと分かるメリハリのある均整の取れた抜群のプロポーション。
無駄のない長い手足を制服のスカートから覗かせ、ブレザーのポケットに両手を突っ込んだその立ち姿は、どこか中性的な格好良さすら漂わせている。
――海外留学から帰国した、見覚えのある少女。
以前に母さんに連れられて我が家にやってきて以来、一度も見かけなかったが夏休み明けから復帰していたのか……
「……辻、晶」
思わず名前を口にした俺を見下ろし、辻は涼しげな目元を細めると、柔らかく、けれどどこか底知れない笑みを深めて歩み寄ってきた。
長い脚で一歩踏み出すたびに、女子とは思えないほどの堂々とした空気が渡り廊下を支配していく。
「私の名前、貸してあげよっか?」
至近距離まで距離を詰められ、すらりとした長身から覗き込まれる。甘く香る香水の匂いがふわりと鼻先をかすめる。
「りっくんが困ってるなら、私、天文部に入ってあげてもいいよ」
「……何を企んでるんだ?」
まるで、こうなること最初から分かっていたかのような、冷ややかで確信に満ちた瞳。
「企んでる? 違うよ。助けてあげようか? って言ってるの。ねえ、りっくん。……でもね、条件付きだけどね」
「条件?」
長い脚で一歩詰め寄り、至近距離から俺の耳元へ顔を寄せる。
甘い香水の匂いとともに、抗えない悪魔の囁きが落ちてきた。
「水瀬葵と別れて。……そうしたら、今すぐその紙に私の名前を書いてあげる」




