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赤音島からのフェリーに揺られ、本土へ戻ってきたその瞬間から、俺を待ち受けていたのは絵に描いたような修羅場だった。
何が修羅場って、青葉祭が「夏休み明けすぐ」に迫っているという事実だ。
のんびり余韻に浸っている暇なんて一秒たりともない。しかも、高校生の本分という名の呪い――山積みの夏休みの宿題という怪物が、机の上で大きな口を開けて待ち構えていた。
「……終わらん。物理的に時間が足りなすぎる」
自分の部屋のデスクに向かい、青白いパソコンのディスプレイを睨みつけながら、俺は何度目かも分からない呻き声を漏らした。
画面に映し出されているのは、合宿の二日目の夜、凜乃先輩のビデオカメラが一晩中かけて記録した膨大な星空の映像データだ。
空が完全に澄み渡っていたおかげで、記録された映像のクオリティは息を呑むほど素晴らしい。夜空を横切る満天の天の川、時折きらりと尾を引く流れ星、東の空が白み始めて星々が朝焼けのグラデーションへと溶けていく神秘的な瞬間――。
だが、素晴らしい素材であればあるほど、編集の難易度は跳ね上がる。
十時間近い長時間の映像からノイズを省き、一番見せたい瞬間を切り出し、タイムラプスとして違和感なく滑らかに繋ぎ合わせる。
さらに、ただ綺麗な映像を垂れ流すだけでは生徒会を納得させる展示にはならない。星の動きの解説パネル、観測データの図表化、来場者が足を止めて見入るようなストーリー性のある構成案。
動画編集ソフトのタイムラインを秒単位で刻み、解説テキストを打ち込み、行き詰まったら気分転換と称して数学の課題プリントを解き、古文の単語帳をめくる。
完全に目が冴え切った深夜、キーボードを叩く音だけが部屋に響く。
ピロン、と机の上のスマホが震えた。
画面をタップすると、メッセージアプリに葵の名前が表示されている。
『陸くん、作業進んでる? 明日もし時間あったら、一緒に駅前のカフェで宿題やらない? 少しだけでも顔見られたら嬉しいな』
液晶に並んだ健気な文面を見るだけで、胸の奥がキュッと締め付けられる。
合宿のあの夜、同じ布団の中で「ちょっとだけ寂しくて」と呟いていた葵の体温が、生々しく指先に蘇るようだった。
行きたい。今すぐにでも飛んでいって、あの柔らかい笑顔を見たいし、のんびり他愛のない話をしたい。
だが、ディスプレイの右下に表示された動画のレンダリング残り時間と、まだ半分以上白紙のレポート用紙が、容赦なく現実を突きつけてくる。
『ごめん葵、まだ動画の書き出しと展示のパネル案が山積みで……宿題もマジでヤバい。せっかく誘ってくれたのに本当にごめん。青葉祭が終わったら、絶対にどこでも連れて行くから』
申し訳なさで胃が痛くなりながら返信を打つと、すぐに『ううん、無理言っちゃってごめんね! 陸くんが頑張ってくれてるの知ってるから、応援してる。体壊さないようにね』と、気遣いに満ちた返事が返ってきた。
その優しさが、忙殺されてすれ違っていく現状への申し訳なさをさらに加速させる。
そんなやり取りのあった、翌日の昼下がりだった。
ピンポーン、と玄関のインターホンが鳴った。
通販なんて頼んだ覚えはないし、親も仕事で不在のはずだ。
ボサボサの頭を掻きながら階段を降り、玄関のドアを開けた俺は、そこに立っていた人物を見て完全に固まった。
「……葵?」
「やっほー。……って、陸くん、目の下にものすごいクマできてるよ」
夏らしい爽やかな私服姿の葵が、少し困ったような、けれど愛おしそうに目を細めて笑っていた。その両手には、ずっしりと重そうな保冷バッグが提げられている。
「え、なんで……わざわざ来てくれたのか?」
「連絡で『マジでヤバい』って言ってたから、心配になっちゃって。……あの、迷惑じゃなかったら、ちょっとだけお邪魔してもいい? 邪魔は絶対にしないから」
「迷惑なわけないだろ! 上がってくれ、散らかってるけど……」
慌てて部屋に招き入れると、葵はキッチンのテーブルに持参したバッグを広げ始めた。中から出てきたのは、タッパーに詰められた彩り豊かな野菜の副菜や、小分けにされたおにぎり、冷えた栄養ドリンクの数々だった。
「陸くん、どうせまともにご飯も食べずにパソコンに張り付いてるんでしょ? お腹空いたらすぐ食べられるように、作り置き持ってきたの。あと、これ……冷たいゼリー」
「葵……マジで助かる。っていうか、神かお前は」
「もう、大げさだなあ」
葵はくすくすと笑い、俺の部屋へ上がると、デスクの周りに散乱していたプリント用紙をテキパキと揃えてくれた。
作業中の画面に目を留め、「わあ、すごい……! これ、あの合宿の夜の空? こんなに綺麗に繋がってるんだ……!」と目を輝かせる。
「陸くんが一生懸命やってくれてるの、すごく伝わってくるよ。青葉祭の展示、絶対に大成功させようね」
「ああ。……でも、せっかく来てくれたのに、構ってやれなくてごめんな」
「いいの。顔見られただけで、私、すごく元気出たから」
「俺ももっと元気出したいからキスしてほしいなあ、なんて」
「……もう仕方がないなあ」
そう言って嬉しそうに俺の首に腕を回してそっと目を閉じる葵。
キスしてほしい、と言ったのにキス待ちしてる辺りはかわいい。
「ん。じゃあまたね」
「おう。またな」
葵は去り際にそっと俺の手を握り、指を絡めてくれた。
柔らかな手のひらの温もりが、疲労で麻痺しかけていた全身にじんわりと染み渡っていく。
「あんまり根を詰めすぎちゃダメだよ? 終わったら……いっぱいデート、連れてってね」
「……約束する」
少しだけ名残惜しそうに微笑んで、葵は「長居したら作業の邪魔になっちゃうから」と、長居することなく颯爽と帰っていった。
残された部屋には、葵の差し入れと、微かに残る甘い香り。
彼女の優しさに背中を押され、俺は再びキーボードに向き直った。
そうして睡眠時間を削りに削り、カフェインと気合、そして葵の差し入れをエネルギーにして乗り切った夏休みの最終日。
最低限の宿題と、なんとか形になった展示用の映像データを抱えた俺は、疲労困憊のまま新学期の朝を迎えることになった。




