㊴ 夜の訪問者
コン、コン。
静かな夜の廊下に響いた控えめなノックの音に、俺はノートから顔を上げた。
こんな時間に誰だ? もしかして葵か?
そんな期待を胸に抱きながら立ち上がり、ガチャリと部屋のドアを開ける。しかし、そこに立っていたのは恋人ではなく――少し気まずそうな顔をした楪だった。
「どうしたよ? なんかあったか?」
「……べつに」
そう答えながらも、楪はなぜか俺に目線を合わせようとせず、視線をあちこちに泳がせている。だが、時折その大きな瞳がチラチラとこちらを窺ってくるのがありありと分かった。
何か言いたいことがあるけれど、どう切り出していいのか分かっていない、まるで勝手の分からない子供のような態度だ。
――また葵とのことでも文句を言いに来たのか?
昼間のパンケーキの件で、また変に誤解でもしたのかもしれない。そう思って少し身構えた。
「何もないなら寝るぞ」
じゃあな、と面倒くさそうにドアを閉めようとした瞬間、バッと伸びてきた楪の手が、ガシッとドアの縁を掴んでそれを阻止した。
「待って!」
その声には、普段の刺々しさは微塵もなく、どこか切羽詰まった必死さが滲んでいた。
「……なんなんだよ」
「その……ピアス、ありがと」
絞り出すような、か細い声。
右耳で揺れるあの小さな金属の飾りが、廊下の淡い光を反射してチカリと光った。
「……何のことかわからんな。暗かったし、見落としてただけじゃねえのか?」
とぼけてみせた俺に、楪はぐっと眉間を寄せ、不満げに鼻を鳴らした。
「どこにあったか知ってるみたいな口ぶりじゃない。そもそも、朝になったらリビングのあんな分かりやすいところに転がってるなんて変よ。あれだけ探して見つからなかったのに」
「…………」
ぐうの音も出ないとはこのことだ。確かに、あれだけ隅々まで探し回ったリビングの、しかもど真ん中のラグの端っこにポツンと落ちていたのだ。冷静に考えれば不自然極まりない。
ミスったか、と思いながらも、ここで認めたら昨夜の命がけの潜水と、それに伴う真相がすべてバレてしまう。
「知らねえな」
「絶対知ってるじゃない。あんな風にしれっと――」
「知らねえよ! 俺が朝起きたときにはもうそこにあったんだから仕方ねえだろ。あ、もしかして、お前が自分で別の場所に挟んでて、寝ぼけて見落としてたんじゃねえの?」
ええい、こうなったら押し通せ!
適当な言いがかりをつけて話をすり替えようと、俺はわざとらしく大げさに肩をすくめてみせた。
「というわけで俺はもう寝る。明日帰るんだからお前も早く寝ろ」
「あ、ちょっ」
今度は追い返すことに成功した。この世には知らぬが仏って言葉があるんだ。真相は知らないままのほうがいい。
楪をどうにか追い返し、荒立った息を整えながら再び窓辺に戻る。
青葉祭の構成の悩みなんて一気に吹っ飛んでしまったが、気を取り直して夜空をもうひとしきり眺めた後、俺は重い足取りでベッドへと潜り込んだ。
一日の疲労が鉛のように全身にのしかかる。
なんだかやけに疲れた夜だった。とにかく今は何も考えず、ぐっすり眠りたい。そう願いながら瞼を閉じ、意識がふんわりと沈んでいくのを感じていた。
そしてウトウト……まだ入眠して浅い、まどろみの最中。
――ゴソゴソ。
……ん?
静まり返った部屋のなかに、耳をくすぐる微かな衣擦れの音が響く。
ゴソゴソゴソ。
……なにか――いや、誰かいる。
まだ完全に覚醒しきらない頭で、ぼんやりと考える。
一体誰だか知らないが、よりによって俺のベッドに侵入者がいるぞ。もしかして、あの元気すぎる後輩・めいがまた何か悪戯でもしに来たのか?
しかし、今の俺を襲う睡魔は限界を突破している。わざわざ起きて相手をする気力なんて微塵もない。こういう変なちょっかいは、放っておけばそのうち飽きて勝手に帰っていくだろう。
(……無視、無視っと)
「……」
「……」
「…………」
「…………」
じっと息を潜めていると、なぜか妙な違和感が背筋をゾワリと撫でた。
なんだか、顔の目の前でやけに生々しい気配を感じるのだ。……待てよ? 顔に温かい息がかかるほど至近距離に気配があるのに、布団の中でモゾモゾしている足の位置や重みは、どう考えても俺の膝のあたりにある。
――いや、これ、めいじゃない?
小柄なめいならまだしも、この体格のバランスはおかしい。
薄目を開けて、じっと闇の中を探ろうとした、その瞬間――。
「…………」
「…………」
「なにしてんだよ――葵」
「ひゃっ!? お、おきてたの!?」
「起きたんだよ」
「起こしちゃった……? ごめんね」
暗がりの中で慌てて身を固くしたのは、他でもない葵だった。
まさか、あの真面目で優等生な彼女が、深夜にこっそり男の部屋に忍び込んでベッドに潜り込んでくるなんて、予想の斜め上すぎて寝ぼけた脳みそでは処理が追いつかない。
「なにしてるって……その、ねむれなくて……」
シーツの端をキュッと握り締め、暗闇の中でも分かるほど真っ赤な顔で葵がもごもごと言い訳を漏らす。
あれだけ疲れていたはずの睡魔が、驚きと愛おしさで一気にどこかへ吹き飛んでいくのを感じながら、俺は大きく息を吐き出すしかなかった。
「眠れないから俺のとこにきたって、可愛すぎだろ、このこの」
呆れと愛おしさがごちゃ混ぜになった声でそう言いながら、俺は布団の中で軽く葵の鼻先をツンと突いた。葵は「もぅ……」と恥ずかしそうに小さく身をよじらせるが、逃げるわけでもなく、むしろもっと近づいてくるようにモソモソと布団にもぐり込んでくる。
ひとしきり暗闇の中でじゃれ合い、小さく笑い合ったあと、ふっと静寂が戻った。
天井を見上げる俺の胸元に顔をうずめたまま、葵はぽつりと零した。
「……ちょっとだけ、寂しくて」
「……そか」
その言葉の裏にあるものを、深く詮索する必要なんてなかった。
明日にはまたみんなでワイワイと楽しく過ごす日常に戻るけれど、この合宿という非日常の夜、ふと訪れた静けさの中で、彼女なりの小さな不安や、ただ純粋に「一緒にいたい」という気持ちが募ったんだろう。
俺は何も言わず、そっと両腕を回して葵の背中を抱き寄せた。華奢な体が俺の腕の中にすっぽりと収まり、心地よい重みとして伝わってくる。そのまま、優しくその頭を撫で下ろした。
ふわりと鼻腔をくすぐるのは、お風呂上がりのシャンプーの甘い香りと、昼間の海や散策でかいたであろう、ほんの少しの汗の匂い。爽やかで、でも紛れもなく「葵の匂い」だった。
年頃の男女が同じ布団でこんな風に密着しているという事実だけでも、理性が音を立てて崩れそうになるのに、そんな彼女固有の匂いまでダイレクトに伝わってくるものだから、心臓の鼓動がうるさいほどに早鐘を打つ。
「ふふっ、陸くん、すっごくドキドキしてる」
胸元から聞こえてきた声は、どこか楽しげで、それでいていじらしい響きを帯びていた。俺の心臓の音は、きっとこの狭い布団のなかでは筒抜けだったんだろう。
「あ、当たり前だろ。彼女と二人で一緒の布団なんだぞ。ドキドキしないわけがない」
少しだけ照れ隠しに声を張ると、葵は「そっか……よかった」と、嬉しそうに満足げなため息をついた。
そのまま、彼女は俺のシャツの裾をギュッと掴み、安心したように目を閉じる。
外では夜風がコテージの窓を揺らし、遠くで波の音が静かに響いている。
腕の中で規則正しく刻まれる葵の小さな寝息を感じながら、俺はゆっくりと目を閉じた。
――今夜はもう、これ以上何も起きなくていい。ただこの温もりを感じながら、眠りにつこう。
翌朝。
爽やかな夏の朝の光が燦々と降り注ぐリビングで、俺と葵は畳の上に綺麗に並んで正座させられていた。
なぜかって?
話は至極単純だ。
あの後、お互いの温もりにすっかり安心しきった俺たちは、揃いも揃って大爆睡をかました。
いつになっても起きてこない姉を心配した楪が葵の部屋へ起こしに行ったところ、もぬけの殻。
不審に思った楪と、「じゃあめいがりく先輩起こしてきまーす!」と俺の部屋に突入してきた後輩が目撃したのは――。
ひとつのベッドで、一枚の掛け布団を仲良くかぶり、腕を回してがっちり抱き合ってスースーと寝息を立てる、健全な高校生カップル(無防備の極み)の姿だった。
その瞬間、朝の静かなコテージにめいの絶叫が木霊したらしい。
『ふ、ふたりがえっちしてるぅぅぅーーーッ!!』
……してない。断じてしていない。神に誓って抱きしめて寝ていただけだ。
だが、現行犯逮捕された現場の絵面があまりにも凶悪すぎた。
「……何か申し開きはあるかしら、相沢」
俺たちの正面、腕組みをして仁王立ちしている楪の目が、完全に据わっていた。
怒りと羞恥で顔を真っ赤に染め上げ、握りしめた拳をワナワナと震わせている。その右耳で、俺が命がけで拾ってきたピアスがキラキラと皮肉な輝きを放っていた。
「い、いや楪ちゃん、本当に寝てただけだから! 私が勝手に陸くんの部屋に行っちゃっただけで、変なことなんて何一つ――」
「お姉ちゃんは黙ってて!!」
必死に弁明しようとした葵が一喝されて「ひぅ」と小さく縮こまる。いつもの優等生オーラは跡形もなく消え失せ、真っ赤な顔で正座したままペコペコと小さく頭を下げていた。
「相沢ぁ……あんた、合宿のしおりの『夜間は各自の部屋で静粛に過ごすこと』って項目、どこの異次元に消し飛ばしたわけ? 神聖な部活の合宿で、しかもあたしの目の前でお姉ちゃんに手を出そうなんて、いい度胸じゃないの……!」
「だから手は出してねえって! だいたい、騒ぎ立てたのはめいだろ!」
「だってぇー! あんなの誰が見たって事後現場ですよぉ!」
壁際からひょっこり顔を出しためいが、顔を手で覆いながら指の隙間からジト目でこちらを覗き見ていた。
「りく先輩が葵先輩をぎゅーってしてて、葵先輩はりく先輩のシャツの中に頭から入ってて……! めい、あんな生々しいの少女漫画でしか見たことないです! 朝から刺激が強すぎて心臓止まるかと思いました!」
「お前はまず語彙力を鍛え直せ! あとドアをノックなしで開けるな!」
「あー! 逆ギレしたー!」
ぎゃあぎゃあと騒がしい修羅場の中、パタパタとスリッパの音を響かせてキッチンから現れたのは、部長の凜乃先輩だった。
盆に乗せた麦茶のグラスをテーブルにコトコトと並べ、のほほんとした笑みを浮かべている。
「はいはい、みんなそこまでにしよっかー。朝から元気なのはいいことだけどねえ」
「凜乃先輩! 甘やかさないでください、風紀の乱れは部の存続に関わります!」
「うふふ、まあまあ。若いふたりなんだし、朝までぐっすり寝てただけなのは見ればわかるよぉ。やましいことしてたら、もっと慌てて服着たりしてるものだしね」
「せ、先輩っ!?」
大人の余裕たっぷりな先輩のフォローに、葵が再び茹でダコのように発火して両手で顔を覆い、そのまま床に突っ伏した。
朝の爽やかな光の中、俺たちの合宿は、最悪の気まずさと限界突破の赤面で終わることになったのだった。




