㉟ 疲れると弱気になる
木製の階段を駆け下りると、肌を撫でる夜風はすでに重く湿り気を帯びていた。
見上げれば、さっきまで広がっていた天の川はすっかり分厚い雨雲に飲み込まれ、星の光などカケラも頼りにならない。今にも雨が降り出しそうな、底知れない黒が頭上を覆っていた。頼むから降らないでくれよ。
ペンライトの細い光筋を砂浜に落とす。
昼間、あいつらはどこで騒いでいただろうか。
めいが突っ込んできて、葵が水をかけてきて、楪がめいを狙って水を飛ばしていた場所。確かその周辺で、楪も葵と遊ぶために合流してきたはずだ。記憶を必死に巻き戻し、崖の角度と岩場の位置からおおよそのポイントを割り出す。
膝を突き、砂にまみれながらライトで砂浜を照らした。
貝殻の破片、海藻、小石。
どれだけ這いつくばって目を凝らしても、小さな金属の影は見当たらない。
「……砂浜には、ないか」
となれば、考えられるのは海の中だけだ。
昼間、あれだけ頑なに拒んでいた海に、躊躇なく足を踏み入れる。
夜の海水は驚くほど冷たく、太ももから腰へと容赦なく体温を奪っていく。
浅瀬から一人、ローラー作戦のように手探りで海底の砂をさらう。
掌に当たるのは、ざらついた砂の感触ばかり。天気が悪くなっているからか波が少しばかり強く、寄せるたびに足元がすくわれそうになる。
何分くらい探したかわからないが、ポツ、と額に冷たいものが落ちてきた。
瞬く間に雨脚が強まり、ざあざあと水面を叩き始める。風が吹き、次第に海面が牙を剥くように勢いを増してうねり始めた。
まずい。波が荒れれば、海底の砂ごと沖へとさらわれてしまう。
今なら、まだ間に合うかもしれない。今逃したら、二度とあいつの手には戻らない。
ゴーグルをしっかり装着した俺はペンライトを口にくわえると、大きく息を吸い込み、黒い水の中へと頭から潜り込んだ。
冷たい水圧が鼓膜を圧迫する。
ライトの青白い光が照らし出すのは、巻き上がる砂煙と不気味な泡ばかりだ。
押し寄せる引き波に煽られ、踏ん張る脚から猛烈な勢いで体力が削られていく。肺が酸素を求めて悲鳴を上げ、一度水面へ顔を出して荒い息を吸い、再び潜る。
探せばきっと見つかるはずだ。あんなに大切そうに触っていたんだ。見つからないわけがない。と考えるのはさすがに無茶かもしれない。でも見つかるまで探せば見つかることは確かだ。
昼間、楪が当てた『願いの叶う石』の小瓶が脳裏をよぎる。
もし本当にあれが胡散臭いだけの石じゃなくて、本当に願いが叶うってんなら――どうかあいつの願いを叶えてやってほしい。
が、そんな簡単に願いは叶うものではない。結局最後に信じられるのは自分。行動した自分でしかないのだ。そんなことは葵と付き合うときに、嫌と言うほど思い知らされている。
それに俺はたびたび蓮から『お前も損な役割だよなあ』なんて言われたりするが、決してそうとは思わない。何に対して損だと思って言ったのか明確ではないのでこれは俺の憶測の域を超えないが、もし天文部のことについて言っているのであれば、これは損ではなく役得と言ってほしい。俺が入部するきっかけになった事件も、なんだかんだ雑用が多いのも、果ては生徒会に呼び出されたのも、損を被っているのではなく、やりたいことをやっている結果だと思っている。おかげで葵とも恋仲に成れたし、葵が楪と仲直りもできたし、みんなが集まれる場所ができた。
でも――たぶん、だけど。俺が入部していなくても先輩はひとりで立ち向かって事件を別の解決方法で解決しただろうし、葵も楪と仲直りもできていただろうし、めいだって変な恩義で天文部に縛られずにほかの部活に入ってもっと楽しく高校生してただろうし。だから、俺がいたっていなくたって、たいして変わらないと思う。
だから俺は、自分のために、自分の居場所を守るために、何度だって諦めずに挑戦してやるさ。
ちょっとばかし体を張るだけで、そんなことで未来の義妹の笑顔を守れるなんて、安いもんだろ。むしろおつりがくるくらいさ。
なーんてな。ちょっと疲れて弱音が出てきちまっただけだ。パパっと見つけて寝て起きたらいつも通り元気さ。
そして何度目かの潜水を試みようと水面から顔を上げた瞬間、激しかった雨がふっと嘘のように引いた。
吹き抜けた風が分厚い雲を鋭く引き裂いていく。
現れた夜空の切れ間から、無数の光の筋がシャワーのように降り注ぎ始めた。
――流星群だ。
その清冽な星明かりが、さざめく海面を銀色に透かし、波の底――巻き上がった砂が沈みかけたその一角――で、何かがキラリと小さく強い光を跳ね返した。
「……っ!」
迷わず手を伸ばし、底の砂ごと掴み取る。砂の感触と、何か別の石や貝殻とは違うものを掴んだ感触があった。
水面へ飛び出し、手のひらを開いた。
指の間から砂がこぼれ落ち、最後に残ったのは――見覚えのある、小さな金属の飾り。
ピアスだ。
間違いなく、楪がつけていたピアスだ。
見つけた。本当に、見つけ出した。見つけ出せた。
手にして思う。我ながら、よくこんなちっこいもんを探そうと思ったもんだ。見つけたからこそ言えるが、やっぱりこれはバカだとしか考えられない。
でも今はバカでいい。
震える手でそれをしっかりとポケットの奥へしまい込み、ファスナーを閉める。
見つかってよかった。これで、あいつに返してやれる。
安堵の息が漏れ、張り詰めていた全身の神経が、ほんの一瞬だけ緩んだ。
――ピキリ、と。
右足のふくらはぎに、引き裂かれるような激痛が走った。
「あ、しが……っ」
やばい! と思ったときにはだいたい遅い。足首が不自然に硬直して爪先が反り返り、どれだけ力を込めようとしても右足がまるでテンションのかかったワイヤーのようにピンっと張って言うことを聞かない。
立ち泳ぎを維持できず、体がぐらりと傾く。
砂浜までの距離は、ほんの数メートルほどしかない。
浅瀬はすぐそこだ。
左足と腕の力さえ振り絞れば、泳ぎ切れる。這ってでも辿り着けるはずだ。
しかし――。
引いていく波の力は、自由の利かない俺の体を容赦なく沖へと引きずり込もうと、足首に重く絡みついてきた。
ゴクリと、冷たい海水が口の中に流れ込む。
もがき、伸ばした指先が、ただ黒い海水を虚しく掻き毟るだけだった。
そこで――。
意識は途絶えた。




