㉞ な、なるほどね
「りく先輩が来ないなら、こっちから行っちゃいまーす!」
不穏な宣戦布告とともに、めいがバシャバシャと豪快に水飛沫をあげながら浅瀬に向かって突進してきた。濡れたオレンジのセパレートから滴る水滴が陽光を浴びてキラキラと輝いているが、鑑賞している余裕なんて微塵もない。
「待て、来るな! ストップ! ソーシャルディスタンス!」
「えーいっ!」
「ぶっ――!?」
無慈悲に跳ね上げられた海水の塊が、俺の胸から顔面にかけて容赦なく直撃した。
冷たい。しょっぱい。そして完全に濡れた。めいの全力水かけで全身濡れ鼠になった俺は、腕で顔を拭って口に入った海水をぺっぺっぺっと吐き出す。
「あはははっ! りく先輩、前髪ぺったりです!」
「てめぇ、やりやがったな……!」
濡れてしまったものはもう仕方がない。俺は開き直って足元の海水を両手で掬い、めいに向かって思い切りぶちまけた。
「きゃあぁっ!? りくせんぱいやったなー!」
「そっちが先に仕掛けてきたんだろが」
完全に小学生レベルの水掛け合戦が勃発する。
すると、少し沖の方で様子を見ていた葵が「ふふっ」と悪戯っぽく笑い、両手で水を掻き分けながらこちらへ寄ってきた。
「陸くん、油断大敵だよ?」
「えっ、葵――ぐわっ!?」
まさかの本命の彼女からの追撃。葵の手から放たれた綺麗な放水が、俺の腹筋あたりにバシャリと命中する。
濡れた白フリルが胸元に張り付き、透き通るような笑顔を浮かべる葵の破壊力たるや、物理的ダメージよりも精神的ノックアウトの方が遥かにでかい。
もし付き合うのが合宿より後だったら、俺はまともに見もしないどころか部屋から出なかったかもしれない。ありがたやありがたや。
「葵まで……! よし、受けて立つ!」
「きゃっ、冷たい!」
キャッキャと声をあげて身を捩る葵。その白い柔肌を滑り落ちる水滴から必死に理性の目を逸らしつつ、俺たちは時間を忘れて波打ち際ではしゃぎ回った。
少し離れたところでは、黒いワンピース水着に身を包んだ凜乃先輩が「うふふ、若さだねえ」とパレオの裾を濡らしながら優雅に浮き輪に揺られ、楪が「お姉ちゃんに水かけるなゴミ屑ぅ!」と叫びながら、めいの背後を狙って猛烈に水を飛ばしていた。
夏の強い日差し、心地よい潮騒、笑い声。
廃部だの生徒会だのといった重苦しい現実は、この瞬間だけは完全に吹き飛んでいた。
*
ひとしきり海を満喫し、コテージへ戻る頃には、空は淡い黄金色から濃密な茜色へとグラデーションを描き始めていた。
各自シャワーを浴びて海水を流す。でもまだ着替えない。いや、正確には着替える必要がないからだ。
そう、この合宿のメインイベントの一つ、別荘の崖上に作られた「絶景の源泉かけ流し露天風呂」に入るためだ。
海沿いの高台、関係者以外立ち入り禁止の敷地。誰の目にも触れないプライベート空間で、夕陽を眺めながら湯に浸かる。
メインイベントは天体観測じゃないかって? メインがいくつあってもいいだろ。某飲食店みたく、唐揚げととんかつが同時に提供されたって嬉しいね。そういうもんだろ?
「ほら陸くん早く早く!」
「ほーい」
葵に急かされて俺も後を追う。
リビングを抜け、ウッドデッキの重い引き戸を開けると、ふわりと硫黄と潮の混ざった温かい香りが鼻先をくすぐった。
「うわぁ……っ」
思わず声が漏れた。
ウッドデッキの突端、海へとせり出すように作られた岩造りの露天風呂。
その向こう側には、見渡す限りの大海原が広がっていた。水平線に沈みゆく巨大な夕陽が、海面を真っ赤な絨毯のように染め上げている。空全体が燃えるような赤と紫に溶け合っていて、言葉を失うほどの圧倒的な美しさだった。
「すごい……本当に、綺麗……」
隣に立った葵が、湯気に髪を揺らしながらぽつりと呟いた。
シャワーを浴び終え、薄手のラッシュガードを軽く羽織った葵の横顔が、夕陽の赤に照らされて息を呑むほど幻想的に浮かび上がっている。
「赤音島はね、星以外にもこの夕陽が一番の自慢なんだよぉ」
タオルを手にした凜乃先輩が、満足そうに目を細めて湯船へと足を踏み入れた。
ザザーッ、と心地よい音を立ててお湯が溢れ出す。
「わーっ! あったかーい! 極楽ですーっ!」
めいが真っ先に肩までお湯に浸かり、ぷはーっと長いため息を吐いた。
「陸くん、温泉気持ちいいね」
「お、おう! やっぱ温泉最高だわ」
俺が温泉を囲っている仕切りに座ってくつろいでいる横にスッと寄ってきてそこで腰を落ち着かせる葵。
海では大丈夫だったんだが。温泉ってシチュエーションになるだけで水着着用でも直視するのちょっと恥ずかしいな。
葵のほうをチラッと見ると、葵もこっちをうかがうようにチラッと見ていて、俺と葵も顔を見合わせ、照れくささを隠すようにして並んで湯船に腰を下ろす。適度な湯加減の温泉が、海で泳ぎ疲れた筋肉をじわじわと解きほぐしていく。隣から伝わってくる葵の体温と、夕陽の熱気。心臓がトクトクと落ち着かないリズムを刻む。
「……ふん。あんまりこっち見ないでよね」
「見ねえよ」
少し離れた岩場に腰掛けた楪が、肩までお湯に浸かりながらそっぽを向いた。
濡れた黒髪が首筋に張り付き、湯気で上気した頬が夕陽の光も手伝って真っ赤に染まっている。相変わらずツンツンしてはいるが、海で散々騒いだせいか、その口調にはいつものような刺々しさはなかった。
水平線へと、ゆっくりと陽が沈んでいく。
オレンジから茜色へ、そして群青色へと空のグラデーションが深まっていくそのグラデーションを、俺たちは誰ともなく黙り込んで見つめていた。波の音と、湯口から注がれる温泉のせせらぎだけが静かに響く。
「……綺麗だな」
「うん……」
葵がそっと、お湯の中で俺の手の甲に触れてきた。
指先を絡めるようなことはしなかったが、触れ合った皮膚から伝わる熱が、温泉の熱さよりもずっとダイレクトに胸に染み渡る。
みんながいるとか関係なく、俺たちは俺たちだけの甘い空間を形成したのだった。
赤音島の夕陽。
なるほど、観光客がこれだけを目当てにやってくる理由がよく分かる。夕陽が奇跡を叶えるという伝承が生まれるのも頷けるほどの、神聖なまでの美しさだった。
だが――空がゆっくりと夜の帳に包まれ、最初の宵の明星がキラリと瞬いたのを見たとき、俺の胸の中にふつふつと別の感情が湧き上がってきた。
これほど空が広く、視界を遮るものが何もない場所なのだ。
太陽が完全に沈み、街の灯りすら届かないこの高台で迎える夜が、どれほど深い暗闇になるか。
昼間、商店街の高校生たちが話していた「岬の旧展望台」のこと。そして、この別荘から見上げる夜空のこと。
夕陽の島としてしか知られていないこの赤音島で、誰も見たことがないような満天の星空を捉えることができたなら――。
俺の横顔を見て、葵が何かを察したようにふっと優しく微笑んだ。
「……夜が、楽しみだね。陸くん」
「……ああ。最高の写真を撮ろう」
湯煙の向こうで、凜乃先輩もまた、静かに空を見上げて穏やかに微笑んでいた。
夕陽が完全に海へと溶け落ち、赤音島に、濃密で静寂な夜が静かに降りてきていた。
露天風呂は露天風呂から上がり、昼に買った魚の残りで簡単に海鮮丼を作って夕食を済ませた後、俺たちはウッドデッキに天体望遠鏡と三脚をセッティングした。
別荘の外灯をすべて落とすと、そこには息を呑むような完全な暗闇が広がっていた。
海沿いの高台。眼下には黒々と広がる夜の海が横たわり、遠くの商店街の街灯すら崖の陰に隠れて届かない。見上げれば、息が止まりそうになるほどの星、星、星――。
「すごい……! 東京の空とは全然違う!」
「うわあぁぁぁ……! お星さまがいっぱいです!」
葵とめいが同時に感嘆の声を漏らす。
空全体を天の川が白く濁った帯のように横断し、視界の端から端まで、零れ落ちそうなほどの無数の光粒が瞬いていた。夕陽の島という看板の陰にこれほどの星空が眠っていたのかと、背筋が震えるほどの感動が突き抜ける。学校で葵とふたりきりで見たあの星空もすごくきれいだったが、こうやってみんなで見る星空も格別だ。
だが、あいにく夜風が徐々に湿り気を帯び始め、日付が変わる頃には海側からじわじわと薄い雲が広がり始めていた。
「んー、今日はこれくらいにしておこっか。長旅と海でみんな疲れちゃっただろうしねえ」
凜乃先輩のその言葉で初日の観測は早々にお開きとなった。機材に防水シートを被せ、各自それぞれの部屋へと戻っていく。
俺も部屋のベッドに潜り込んだが、昼間の海と露天風呂での葵の姿、そして見上げた満天の星空の興奮が頭から抜けず、しばらく浅い微睡みの中を漂っていた。
深夜一時過ぎ。
喉の渇きで目が覚め、俺は音を立てないようにそっと部屋のドアを開けた。
静まり返ったコテージ。リビングへと続く薄暗い廊下に出たところで、違和感に足が止まった。
――カサ……コソ……。
微かな物音が、吹き抜けのリビングのあたりから聞こえてくる。
目を凝らすと、暗がりの中、誰かの小さな人影が床に這いつくばるようにして、執念深く何かを探し回っていた。まさか――泥棒か?
「……誰だ?」
声をかけると、その影がピクッと凍りついた。
ゆっくりと顔を上げたのは、部屋着のTシャツとショートパンツ姿の楪だった。いつもの威勢のいい表情はどこにもなく、青ざめた顔で瞳を揺らしている。
「……なによ、変態」
返ってきたのは、いつもの暴言のはずだった。けれどその声は掠れていて、まるで今にも泣き出しそうなほど弱々しい。こんなこいつを見るのは初めてだな。
「こんな時間に起きて、何してんだよ。……何か探してんのか?」
「……べつに。あんたには関係ないでしょ」
膝をついたまま、必死に強がろうとする楪。
だが、その耳元に目をやった瞬間、俺の脳裏に昼間の記憶がパッと繋がった。
商店街の魚屋の前。
お姉ちゃんからもらったんだと、自慢げに、大切そうに触れていた小さな金属の飾り。
海へ行く前も、露天風呂に入る前も、確かにあいつの耳元にあったはずのものが――ついていなかった気がする。いや、ちゃんと見ていたわけじゃないからわからないが。
てっきり風呂上がりだったから外しただけだと思っていたが違ったのか?
普段ピアスなんてつけない俺には、いつ外すのが普通なのかなんて分かりようがなかったから、いちいち「おっ、ピアス外したんだな」なんて言うわけもなく。
だから何も言わなかったんだが、この様子を見る限り、自ら外したわけじゃないんだろうな。
「……ピアスか?」
ポツリと口にした瞬間、楪の肩がビクッと跳ねた。やはり正解のようだ。
大きく見開かれた瞳に、絶望と焦燥が綯い交ぜになって揺れる。楪は弾かれたように立ち上がり、俺の胸ぐらに掴みかからんばかりの勢いで詰め寄ってきた。
「な、何か知ってんの……!? どこにあったの!? あんた持ってるの!?」
「いや、持ってない。……もしかしてと思っただけだ」
「っ…………」
すがるような光が消え、楪の表情が再び絶望に沈む。ぎゅっと噛み締めた下唇が小さく震えていた。
「……まあ、夜も遅いから早く寝ろ。明日、みんなで探そう」
「でも……っ!」
「でもじゃない。そんな暗闇で探したって見つかるわけないだろ。ほら、部屋戻れ」
嫌がる楪の背中を強引に押し、部屋の前まで連れて行く。楪は今にも泣き崩れそうな顔でドアノブを握りしめ、最後に一度だけ俺を睨みつけようとして――結局、俯いたままパタンとドアを閉めた。
廊下に一人取り残され、俺は静かに息を吐き出した。
……あいつのあの様子だ。
自分の部屋も、リビングも、洗面所も、そしてウッドデッキの露天風呂も、自分の記憶にある足取りはすべてとっくに探し尽くしたに違いない。それでも見つからなかったから、あんな幽霊みたいにリビングを彷徨っていたんだ。
コテージ内になくて、夕方の露天風呂でも気づかなかったとなると――。
「……海、か」
あの波打ち際。
めいとバシャバシャと水を掛け合い、夢中になって波に揉まれていた、あのプライベートビーチ。
あんな広大な砂浜で、波にさらわれたかもしれない小さな金属の塊を見つけ出すなんて、確率で言えば絶望的だ。砂の中に埋もれているかもしれないし、潮に流されて海の底へ消えたかもしれない。
だが、あのピアスはただのアクセサリーじゃない。
あいつが何よりも慕っている、葵からもらった大切な宝物なのだ。
失くしたと知れば、あいつはどれだけ自分を責めるだろうか。葵に申し訳なくて、泣くこともできずに一人で抱え込むに決まっている。
「……ったく、ちょっとひと泳ぎしてくるか」
小さく悪態をつきながら、俺は足音を忍ばせて自分の部屋に戻った。
サンダルを履き、スマートフォンのライトを確かめ、ポケットに小さなペンライトを突っ込む。念のためゴーグルも持っていくか。砂浜に落ちてるとは限らないし。
玄関の重い鍵を静かに開け、冷え始めた夜気の中へ足を踏み出す。
雲の切れ間から覗くわずかな星明かりを頼りに、俺は一人、深夜の暗い海へと続く階段を駆け下りていった。




